エピローグ
「私たちにとっては、明日が、ミサの命日、なんですよ」
「そう。ちょうど、四年前のあの日、私に、ミサが手料理を食べさせてくれました。あの、不思議な空間、草原の広がる、小さな丘の上で」
早苗の胸の中を、あのとき吹き抜けていた、透明感のある風の感触が去来した。
「そうでしたか、お二人が、ミサさんの……。夫から、よく話は伺っていました。どうぞ、遠慮なく、くつろいでいってください」
「ああ、いえ。奥様は、大切なお身体でしょう。どうぞ、お構いなく」
サチから差し出された麦茶のコップを惜しむように、夫婦は頭を下げた。
洋食たまきの二階、今は子供部屋になっている、元はケンイチの母の畳部屋。そこで小さなちゃぶ台を囲み、遠方より訪ねてきた中年の夫婦とサチは、ゆっくりと昔の話をしていた。
大人の胸くらいの高さの比較的小さなプラスチックでカラフルなタンスの上に、こじんまりとした五十センチ大の仏壇があり、その中には、二枚の写真が飾ってあった。
ケンイチの父と、母の遺影である。
「あら、今のケンイチさん、お父さんにそっくりなのね」
「そうなんですよ。もう、すっかり下町の洋食屋が板に染みついちゃったみたいで」
早苗とサチ、二人の笑い声が、朗らかに響く。
「あの方が、ケンイチさんの、御母堂でいらっしゃいますか……本当に、お優しそうで、それでいて、どっしりと強そうなお方だ。早苗の話、イメージ通りの方ですね」
「遺影だけみると、そう見えますよね。本当は、すごく小柄な、かわいいおばあちゃんだったんですよ、義母は」
懐かしそうに、サチは遺影の姿をながめた。その様子に、ミサの父も思わず顔をほころばせる。
「たまきさんには、本当に、お世話になりました。私と、ミサの、本当に、命の恩人です」
「私からも、ぜひ、お礼を述べさせてください。本当に……本当に……」
ガラっと、ふすまが開き、ぬっとケンイチが揚げ油に焼けた顔をのぞかせた。
「おいおい、何をしんみりと土下座大会しているんですかい。さ、出来ましたよ! 早く冷めねえうちに、下に降りとくれよぅ!」
客席には、もう誰もいなかった。ケンイチが料理を作る間に、早々と店じまいしてしまったからだ。
一番真ん中のテーブル席、四人掛け席の片側に、二枚の大皿が置いてあった。
銀のフォークと、ナイフがきちんと添えられて、湯気がうっすらと立ち上る大きな丸いコロッケからは、はやく食べてくれと言わんばかりの香気が感じられた。
「いや、本当に、大きい……ものだねえ」
「そうでしょ? 割ったらね、もっとビックリするわ」
向かいに腰掛けたケンイチの目に写る、ウキウキと料理の説明をする早苗は、あのときのミサ、そのままに見えた。
(ミサ、良かったな。お前のお母さん、こんなに元気になって。お前との思い出、こんなに、明るく話せるように、なったんだな……)
思わず、目頭が熱くなり、きゅっと、親指と人差し指で、眉間を絞る。
四年前のあの日からしばらくして、ケンイチはふと、ミサのブログを見たのだった。
そして、早苗がもともと書いていた、最後の行が書き変わっていることに、気がついた。
—―ミサ、ありがとう。私たちのところに生まれてきてくれて、本当に、ありがとう。
あなたは、きっと、死にたくはなかった。私も、あなたを決して、失いたくはなかった。
この悲しみも、痛みも、今の私にとっては、かけがえのない、宝物よ。
あなたと過ごした時を、そして、あなたと過ごすはずだった未来を、あなたと共有したすべての思い出を、私はまるごとぜんぶ抱えて、これからもずっと、あなたと一緒に、歩んで行くわ。
一歩ずつ、一歩ずつ。どんなに情けない歩みであっても、それが、私たちなのだから。
そのブログの記事を読んでいたとき、たまたま、幼い我が子を母の部屋で寝かしつけて、そのまま酒を飲んでいるときだった。
安酒が効いたのか、乳のみ子の寝息を聞き間違えたのか、定かではない。
だが、ケンイチは、たしかに見た。そして、聞いた。
ふと見つめた遺影の中の母が、ふっと笑顔を見せた、その瞬間を。
「言うように、なったじゃないか」とつぶやいた、その声を。
ケンイチは、思い出の料理を静かに涙しながら食べる、目の前の二人の夫婦の様子を見て、思った。
料理人を志してきて、学んだことは、多くある。
だが、やっぱりまだまだ、わからねえ、理解できねえことも、本当にたくさん、ありやがる。
特に、人の幸せや、悲しみや、それに至る道ってやつの、
あの不思議な出来事も……けっ、岡本住職のお
でもなあ。人を必ず幸せにできる方法、なんてのが少しでもわかりゃ、料理人なんてのは、もう商売繁盛、間違いなし、なんだろうがなあ。そう、うまくはいくめえよ。
おふくろの言う通り、情けなくても一つずつ、ひとつずつ、ってこったろうな。
まだまだ、親父とおふくろには、かなう気がしねえ。
でもよ、俺の目の前にいる、この二人。
この二人には、いつでも必ず幸せにできる料理、作ってやれるがよ。
……ああ。それも、結局はミサに、教えてもらったものか。
もともとは、あれ、白いクリームシチュー、使う料理だものな。
中の爆弾も、もとは
でも、ずっと、いつか、こんな日が来るかも知れねえって、思って。
どこのメニューにも乗せず、ただ、毎週金曜の“爆弾クリームコロッケ”の日に、いつも二人分だけ、用意していたんだ。
あの夫婦が、帰りにさ。こんなことを、言うんだ。
「お料理、ありがとうございました。ミサと食べた、あの日のこと、鮮明に、思い出すことが、出来ました」
「あなたの御母堂が妻に仰ったとおり、きっと、ミサはもうどこにもいないのでしょうが……私には……妻のとなりで、あの料理を食べていた私には、なぜだか全然、わからないのですが、私たちのとなりで、本当に近くで、ミサが立って、笑っていてくれているように、そう……感じられたのです」
そしたらよ、早苗さんもさ、「私も! 私も、そう感じたの!」なんて抜かしやがって、二人で店の前で静々と泣き込みはじめちまいやがんの。たまんないよ、本当に。俺も、サチも、本当に、たまんなかったよ、あのときはさ。
あまりにたまんなくって、つい、おふくろの言ったこと、一つだけ、ぜんぜん信じられなくなっちまったよ。
『死んだら、消えちまうのさ』なんてよ、信じられるかっての。
だってよ、俺も、サチも、見ちまったんだよ。
あの夫婦が、ふうふうコロッケがっついてるとなりでよ、嬉しそうに、長い髪を二つにわけた女の子が、笑っていたんだもの。ホント、だぜ?
だから、俺は、言ったんだ。
「ミサのお父さんよ、あんた見たのは、俺らも見てた。すまねえ、おふくろはきっと、ウソついてたんだよ。早苗さん、あんたを助けるために、あんたを立ち直らすために、神仏も恐れねえような、でっかいウソを、ぶちまけちまったのさあ! すまねえな。俺は……俺は、今夜、あんたらに会えて……また、ミサの、あんな嬉しそうな笑顔が、見れて……料理人として、こんな嬉しいこたあ、ねえよぅ!!」
そのあとは、お互い抱き合って、おいおいと……いや。湿っぽいのは、ゲンが悪くなって、いけねえや。
ここらで、この話もしめえにしよう。
そろそろ、夏の夜も、ようやく涼しくなってきたからよ。
あの夫婦がさ、いよいよ店から帰るときに、俺は、つい、言わなくても良いことを口走っちまったんだ。
「あ、あのさ。今度、うち、娘が、産まれるんだ」
ミサのお父さんは一瞬、ポカンとした顔していたけれど、早苗さんは、すぐに口を両手で隠すようにして、驚いていた。
俺も、何だか、怖かったから、早口でそのまま、「名前! ミサってさ、つけてえんだ……」と、何だか最後は尻すぼみに、言っちまった。
いや、殴られても、仕方ねえかな、って思ってた。
ミサのお父さんが、意味を理解した様子で、目を真っ赤にして、そのまま俺のところまで近寄ってきたかと思うと、両手を振り上げた。
俺は目をつぶった。そして、バシリっ! って、音が薄暗い裏道いっぱいに、響いたんだ。
俺の両肩が、ジンジンしてきた。
「ケンイチさん。ぜひ、そうしてください。あなたたちご夫婦さえ、よろしければ……ぜひ!」
早苗さんも、俺の手をとって、励ましてくれた。
「ありがとう、ございます! 娘を、愛してくださって……また、会いにきても、よろしいでしょうか」
俺は、すぐに早苗さんの手を握り返した。
「ああ、ああ! ぜひ、来てくれよ。いつでも、何度でも、会いに、来てやってくれよ!!」
そうして、俺たちは、別れた。夜道を連れだって、夫婦で歩いている様子、お互いをいたわりながら、遠くを歩いているその様子は、なぜか、夜を照らす一等星のように、輝いて見えた。
ふと、早苗さんだと思うんだが、暗くてよく見えねえ。髪が分けてゆれているように見えたけれど、気のせいだろう。
さすが、早苗さん。ミサによく似た声で、遠くからこう言うんだ。
「またすぐに、遊びに行くからねえ! 本当に、美味しかったあ! ごちそうさま!!」
するとさ、くっくって、あの笑い方でよ、こちらも茶目っ気たっぷりに、俺の後ろで、サチがおふくろのことを、まねるのさ。
「あいよ、まいどあり……!!」ってな。
(了)
霊界レシピ 入川 夏聞 @jkl94992000
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