十七 誕生

「ヒー、ヒー、ふうぅぅぅっ! ヒー、ヒー、ふうぅぅぅっ!」

 現世に戻っても、ケンイチは修羅場の中にいた。

「サチ! 気張れよぉっ、ほれ、ヒー! ヒー!」

「あー、うるさいです、旦那さん! タイミング、それ違うんですよ! もう、だまっててください!」

「ええ?!」

 夏木看護師の辛辣しんらつな言葉が飛ぶ。見れば、ケンイチのタイミングなどまるで無視して、二人はラマーズ呼吸法を見事に行っているではないか。

 サチが入院する病院の分娩室ぶんべんしつ、ここと併設する待機部屋での時間も含め、すでに六時間は経過している。


 あの不思議な空間で、ミサと母は星のようなきらめきを残して、いずこかへと消えていった。

 早苗は、「ありがとう。あなたをいつまでも、愛しているわ」とミサへ伝えた。

 ミサは、「うん。お母さんも、今までありがとう。私、お母さんの子供で、本当に幸せだったよ」と早苗へ伝えた。

 二人の母娘には、もうこれ以上、言葉はいらなかった。

 ケンイチは、「ありがとよ、おふくろ。いつまでも、愛しているぜ」と伝える途中で母にまたフライパンでぶたれ、「さっさとサチさんとこに帰んな! このボンクラめ!」と罵られて、それが最後の会話になってしまった。

「ケンイチさん、本当にどうも、ありがとうございました。もし、これが夢でなかったなら、いずれ、どこかで」

 微笑む早苗は、もうどこにでもいる、優しいお母さんの顔だった。

「ええ、いつでもどうぞ。洋食屋たまきは、。いつでも、歓迎しますよ」

 自分も、もうすぐ父になる。薄れる意識の中で、その予感が次第に強まっていき……、目覚めたらまた七時だったので大慌てで病院に駆けつけて見れば、いつもの病室にサチの姿はなく、かわりに夏木看護師から携帯に出ないことをなじられつつ、この分娩室に押し込まれた、というわけであった。


「加藤先生、入りまーす!」

 ぬぼーっと現れた加藤は、手術防護服にマスク姿のいでたちで、いつもとは少し違った雰囲気だった。ケンイチとしては、否が応にも緊張感が高まってくる。

「ああ! 先生、サチは! こんなに、苦しそうですよ! 大丈夫なんですか」

「大丈夫ですよ。ラマーズも出来ない素人は邪魔です、血見たら倒れる旦那さんもいるんで、迷惑だから、もうさがっていてください、ね」

「何を?! サチぃ」

「うん。ケンちゃん、もう大丈夫。ありがとね。あっちで、お茶でも飲んでて、ね」

 なんと、男は無力なのだろうか。

 ケンイチを跳ねのけるようにしてズカズカとサチの周りに集まった加藤、夏木たちの一段は、せーのっと流れるような動きで見事にサチの身体を分娩台に乗せ、そのまま何やら遠くの方で、時折、パチパチと得体のしれない音を響かせながら、台の周りを右往左往しているのだった。

(あー。なんだ、これぇ。人の産まれる瞬間てな、こうも還俗的で、神秘性のかけらもないものなのかねえ)

 あ、おいおい。加藤のやつが、サチの腹の上に手当てて、あ、飛び跳ねて思いっきり体重かけやがった……なろぉっ、んな、雑なやり方があるか!


—―おぎゃ……あぁ。


「……へっ?」

「はやく! 旦那さん、こっち! 来て!」

「あー、はいはい」

「手! はい、こうっ!」

 ケンイチが分娩台のそばに行くと、両手のひらに収まってしまいそうな、小さな赤ん坊を夏木から渡された。

「おぎゃ……あー。おぎゃあ……」

 小さな声ではあったが、元気はいっぱい、という動きを見せる。見ると、まだへその緒がぴろりと飛び出している。

「はい! 元気な男の子でした! おしまい、旦那さんは、もうあっち行って良いですよ!」

「あー、はいはい」

 ケンイチと長男との初対面は、こうして、夏の嵐のごとく、あっという間に過ぎ去ってしまった。


 サチが病室に戻ってきたのは、ケンイチよりも一時間程度あとのことだった。

「臍帯の処理とか、結構いろいろ、あるんだよ」

「ふうん。そういや、子供は?」

「あの子は、当分は保育器の中だから、まだ病室で一緒にはなれないわよ」

「そうなの」

「あ、でも、今頃は、ほら、ナースステーションの脇から見える新生児室にいるかもしれないから、見てきたら良いんじゃない?」


 ケンイチが新生児室の大窓の前につくと、すでに先客が何人か来ていた。

「わー、かわいい!」「みて、みーて!」

 同じ日に産まれた子の家族だろうか。小さな子が数人、大窓に手をかけてはしゃいでいる。

「おーい。ケンイチくん」大窓の向かいの待合席にかけていた、老年の男性が手をあげて立ち上がる。

「ああ、お義父さん。来てくださっていたんですか」

「まあな」

「よく、今日産まれるってわかりましたね」

「サチが、連絡をくれたよ。『きっと、今日だから』ってな」

「あー……そうですか。何だかなあ。俺には、全然そんなの、教えてくれなかったのに」

「だって、ケンイチくん。わざわざ、店閉めて、毎日来てくれとるんだろ?」

「ええ、まあ」

「信用してるんだよ、あの子は。ケンイチくんのことを」

「はあ」

「ほら、君のシケた面なんてながめても、面白くもなんともない。どれだい、俺の初孫は!」

「はは、どれでしょうねえ……」

 決まりの悪い顔をしたケンイチであったが、自分の子は、すぐに見つかった。

 保育器に入った男の子は、一人だけだった。名札には、“タマキ・ベビー”とある。

「なんじゃあ、変な名前じゃのう」

「いやあ、産まれたばかりなんで、適当に貼ったんじゃないですか?」

 サチの父は、ぐぐっと首を長くして目を細めて怪訝な表情を作った。

「まさか、名前、まだ決めておらんのじゃ、なかろうな」

「え、いや。あの」

「よし! ならば、俺が日本一の名前を、つけてやろう!! そうだな。“一太郎”! これでどうだ!」

「いや、古すぎ、では……?」

 サチの実家は近県で米農家をしている。昔から農家あがり、副業に農協を手伝っているサチの父は、意外と口が達者で社交的だ。

 しわだらけだが、その分、豊かな表情を持ち、どこか相手を和ませる雰囲気のある男だった。

「よし。ならば、“ウルフ”だ! どうだ! かっこいいじゃろう!!」

「いや、かっこいいって……あ、ほら、小さい子に笑われてますよ」

「なにおう? このガキ、ウルフのどこがいかんのだ。あ、おい!」

 クモの子を散らすように逃げ去る幼児に、ムキになっている老人。

 ケンイチは、その場で嘆息した。

「お義父さん」

「ん、なんだ?! ケンイチくん!」

 鼻息あらく、サチの父はケンイチを睨みつけた。

「自分の子は、僕らで、名前をつけます」

 きっぱり、とケンイチは言った。

 その姿が、娘を嫁にくれ、と乗り込んできたとき以来、ついぞ見ぬほど、この旦那にしてはあまりに毅然としていたので、サチの父は、なんだか嬉しくなってしまった。

「うむ、よう言うた! よう言うた!!」

 がっはっは、と病院の廊下中に、サチの父の声が響き渡った。

 その声に驚いたのか、新生児室の中の赤子がいっせいに泣きはじめた。

 もちろん、ケンイチたちの子も。

(おふくろ。どこかで、見てくれてるか。無事に、産まれたよ。ほら、あんなに、元気そうな、男の子だよ……)

 赤子の元気な様子に気を良くしたのか、サチの父はさらに威勢よく喝采した。

 そして、当然のことながら、でっぷりと太った師長さんに、二人はしこたま、怒られたのだった。

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