十六 母娘

「スズキと香味野菜のカルパッチョに、当店自慢のコンソメスープです」

 ケンイチと呼ばれているここのシェフの運んだ前菜に、早苗は目を白黒させた。

「こんなところで、フレンチ?」

「そうよ! 天才フレンチシェフのケンイチさんが、腕によりをかけて、こしらえていまーす」

 早苗の向かいの席で、ミサは胸を張る。

「おいおい、聞こえてるぞ。その“自称”ってとこ」

 パンパン、と厨房の方で手を叩く音がする。

「はいはい、フレンチの天才さーん! 次の料理があるだろう? 早く戻っておいで!」

「わあったよ! ったく。聞こえてるぞ。その“元”ってとこも」

 首筋をさすりながら、ケンイチは厨房に戻っていく。

 その様子を眺めながら、早苗はまだ、信じられないという顔をした。

「さっき言ってたけど、天国って、こんな調子で、毎日美味しいものが食べられるの?」

「うん、そうだよ。うらやましいでしょ。こんなこと、現世ではなかなか味わえないよ~。ほら、お母さんも、どんどん食べて」

 嬉しそうに、ミサはフォークを繰って食事を平らげていく。

 ふと、早苗の心に、幼い日のミサの姿がよみがえった。

「ミサ。あなた、パプリカ、食べられるようになったのね」

「うん? あー、そういえば、嫌いだったっけ。でも、食べられるようになったの、ずいぶんと前からだよ?」

「そうだったわね。最初は、黄色と赤色と緑色、三色の絵本から作って、読み聞かせをしたわ」

「あー! 覚えてるよ、それ。キーくん、アカネちゃん、ミドリムシ!」

「なに、それ。最後のは、グリーンさん、でしょ?」

「でも、お母さんの絵が下手くそすぎて、あれ、イモ虫みたいだったもの」

「まあ、ずいぶんね。それに、イモ虫とミドリムシじゃあ、全然ちがう生き物じゃない」

「だって、私、幼稚園生だったもの、そのころ」

 ミサは、きれいに食事を平らげてしまうと、皿の上に食器を置いた。

「ああ、そっかあ。お母さん、そこまでして、私の好き嫌い、なおそうとしてくれてたんだよね」

「あなたがあまりにも、聞き分けのない子だったからね。それに、とっても勘の良い子だったわ。どんなに小さく刻んでも、すりつぶして混ぜても、必ずかぎわけて絶対に食べてくれなかったんだから。あんなに悔しいこと、私の人生のうちでそうはないわ」

「あははっ。お母さんらしい」

 コロコロと笑うミサにつられるように、早苗も笑顔を見せた。


「鰆のお造りです」

 ケンイチが出した魚料理に、また早苗は驚きの表情を見せた。

「待って。鰆って、春の食べ物じゃないの? 今はもう夏だし、しかもこれ、お刺身なの?」

 透明のガラスで涼やかな曲面を描く円形の器には、桜色の鰆のお刺身が厚めに、けれど食べやすく短めにカットされ、バラの花を見立てた形にちょこんと飾られていた。

 その周囲には、褐色をしたジュレ状のソースが散らばっており、器からの透明な光を蓄えてきらめき、総じて涼やかな印象を与えている。

「ええ。ここは季節関係なく、とびっきり新鮮な食材が自由に手に入るんですよ。鰆は、じつは刺身が一番、うまいんですよ。しかも、冬の脂がのった時期が最高です。夏らしく爽やかに、ポン酢のジュレでさっぱりと召し上がってください。こんな現世じゃ絶対にありえない組み合わせが楽しめるのも、さすがは、天国だねえ! 何しろ……あ」

 誰かの視線に気がついたのか、ケンイチはそそくさと去っていった。

「ね、お母さん。本当に、天国って、良いところでしょ?」

「む。甘くて美味しい。そうね、良いところだわ」

「そうでしょ、そうでしょ! だからね、全然、私、さみしくなんか、ないんだから」

 にこにこと早苗の食べる様子を見つめながら、ミサは嬉しそうに左右に分けた黒髪をゆらす。

(きれいね。昔、あなたのお父さんに褒めてもらった私の髪と、そっくり、そのままよ、ミサ)

「ん……」早苗は、しばし箸をつけていた器から、顔をそむけた。

「お母さん、大丈夫? そんなにむせちゃって」

「だ、大丈夫よ、ミサ。ごめんなさいね、ワサビがね、ちょっと……」

「ふうん」鼻を鳴らしたミサの表情に、一瞬、さみしげな色が見えた。が、それは早苗が口元をナフキンで抑えながら視線を正面に戻すまでには、きれいさっぱり消えていた。

 パンパン、と近くで手を打つ者がいる。

「はいよ、口直しの時間だ。ミサ、ちょっと厨房に行ってきておくれ」

「うん、わかった。たまきさん」

「……?」早苗は不思議そうな顔をしたが、しばらくして洋ナシのソルベを持ってきたケンイチが、早苗の前にだけ、それを置いて帰っていくと、表情を怪訝な色に変えた。

「あの、たまき、さんと仰ったかしら。ミサは……」

「ちょいと、あんたと話が、したくってさ」

「……」

 ずいっとどこからかイスを引いてくると、たまきと名乗るその飯炊き女中—―ナフキンで頭をまとめてシンプルな白エプロンをかけている女性、そして彼女の醸し出す雰囲気から、早苗にはその表現がしっくりときた—―は、どっかと腰をおろした。

「あんた、ここ、本当に天国だなんて、思っているかい?」

「……」

 早苗は、ゆっくりとかぶりをふった。

「まあ、そうだよね。あたしはね、昔っから、飯炊きとおせっかいには、ちょいと自信があってね」

 たまきは頭のナフキンを外し、すぐに毛がバラけないよう気を使いながら、丁寧に髪をおろした。

 自分と同い年のように見えるが、どこか、決定的に敵わないような迫力を持っている女だと、早苗は思った。

「そう、構えないでいいよ。私は、ミサの味方だよ。一緒に、これから天国ってところに、行く間柄さ」

「あ、あの。では、これから、ミサは、どうなってしまうんでしょう」

「どうって、消えちまうさ」

「え……っ」

「不思議なもんでね、現世ではいろいろあれやこれや、あの世について、言われてるけどね。実際、天国やら地獄やら、そんな人の考えた都合の良いものなんて、この世にはありはしないんだよ」

「で、でも、先ほど、天国って……」

「そりゃ、言葉の、ってやつさ。正直、あたしもミサも、これから行くところが何ていうところかなんて、知っちゃいないよ」

 早苗は、思わず息をのんだ。

「でもね、これだけは分かってる。あたしたちは、死んで、もうすぐ、消えちまう」

「な、なぜ」

「なぜもへったくれもないよ。よく考えてごらん。死んだ生き物は大地に埋めるなり、焼くなり、いずれにしろ、いつか全くいなくなっちまうだろう? それと何も変わらないさ。そういうふうに、んだよ」

「そ、それじゃあ、ここは」

「さあね。何なんだろうね、この空間は。まあ、でもさ。神様ってのも、なかなか、粋なことをしてくれるもんだね。最後にこうして、あんたたち母娘を、会わせてくれちまうんだからさ」

「……残酷、ですね」

 たまきは、目を光らせながら、その先を聞いた。

「残酷。そうよ、神様は、残酷だわ! いきなり娘を私から奪っておきながら、今度は唐突に会わせてくれて、それで、また、あの子は、消えて、しまうんですか……」

 一度は振り上げた拳を、早苗はテーブルに弱々しく、落下させた。大して、音も出なかった。

 厨房の方で、何事か、奥に向かってつぶやくケンイチの姿が見える。

「ひどい! あんまりだわ! たまきさん、何とか、なんとか、あの子を連れ帰る方法は、無いものでしょうか」

「……ないね」たまきは嘆息して答えた。

「なら! それなら! あの、私も、あの子と一緒に、連れて行ってはもらえないでしょうか」

「……」

 立ち上がって近くによる早苗を睨むように、たまきは上目遣いに見据えた。

「たまきさん、お願いします! 何か、なにか知っているのなら、教えてください! どうか、どうか、この通りです」

 すかさず、早苗は土下座した。額を強くこすりつける様子を、たまきはイスから一切動かずに、今度は見下ろしている。

「早苗さん。やめなよ、みっともない。あんたも、うちのバカ息子とおんなじで、情けないやつさね」

「……な、なんですって?」

 おもむろに、早苗は立ち上がる。

「そんなに、、ですか? 娘と一緒にいたいというこの気持ちが、そんなに、ですか?」

「ああ!」どんっと、足を踏み鳴らし、たまきは一度足を組みかえて腕組みのまま、「どうしようもなく、情けないねえ! それでも、人の親かい! この、甲斐性なしがっ!」と吠えた。

「ぐ。よくも……よくも、私を侮辱したわね、この、飯炊き風情が……」

「はんっ! てんで、呆れちまうよ! 何が、侮辱か。あたしは、侮辱なんて大そうな感情を、あんたなんかには持っちゃいないよ!」

「……」早苗の両こぶしが、ぶるぶると震え、顔色はみるみる青ががっていく。

「くやしいのかい。娘と一緒にいたい、だって? ちゃんちゃらおかしいや。何度も言わせないどくれよ、あんたの娘は、死んだんだよ! そして、ミサは! もうすぐ、この世の! どこにも、いなくなっちまうんだよおっ!!」

 たまきの大声が、高らかに、残酷に、事実を告げた。どう受け取ったか、早苗の表情からは怒りがすうっと消え、明確な悲しみの表情が浮かんだ。

「ミサ、あぅ。ミサが、消えて、しまう……の」

 色を失った瞳から、大粒の涙を溢れさせて、また、早苗は沈み込んだ。

 たまきは、地面に小さくなって突っ伏している彼女の両肩を抱くように傍らによると、そっと優しい声で、語りかけた。

「悲しいかい。イヤ、かい。ミサと、別れるのが」

「……イヤ。い、イヤよ。いやあ、ミサと、別れたく、ないぃっ……わ、わたしは、あの子と、ずっと一緒に、い、たい、よぅうぐっっ!」

「そうかい……。なら、そのまま、たくさん泣きな。お前さんら母娘はね、素直じゃないよ。人間ってのはね、いつも、どこか不器用にきどって偉ぶっちゃいるが、誰しもがあんたと同じ、娘や親、身近な人との別れを、心底、悲しいって思ってしまう、情けない生き物なのさ。少しは、素直におなりよ」

「ああああぁあああうううううぅぅぅぅぅっっ――!」

 厨房の入口から、ケンイチとミサは、そっと、その様子をながめていた。

 テーブル付近で、突っ伏して大声で泣いている早苗と、それを優しく受け止めているケンイチの母の姿。

「ねえ、ケンイチさん。お母さん、これ、食べてくれるかな」

「ああ、もちろんさ。でもな、そんな泣き顔で、持っていきなさんなよ。料理が、塩っ辛く、なっちまうからな」

「あ、うん。じゃあ、ケンイチさんは、持っていけないね!」

「おっと。これは、汗……いや、人間、素直が一番だな。さ、冷めないうちに、持っていきな!」チーンと、ケンイチはナフキンで鼻をかんだ。


「落ち着いたかい」

 たまきから手渡された水を受けとって、早苗は元の席に座った。

「ええ。すみません、たまきさん。お恥ずかしいところを、お見せしてしまって」

「恥ずかしくなんか、ないさ。誰でも、そうだよ。親、なんだからね」

「はい……」

 そのとき、ミサが一皿を両手で捧げるように、運んできた。

 早苗がポカンとした表情のままでいると、その皿は目の前にすっと、置かれた。

「これは……」

 ミサは、うやうやしく、一礼をした。

「お客様。これは、本日のメインディッシュ、“爆弾クリームコロッケの”で、ございます」

「“爆弾”……」

 見るとたしかに、三十センチの大皿の真ん中に、こんがりと揚げられた、真ん丸のコロッケが一つ、鎮座していた。ちょうど拳と同じ大きさくらいの、かなり大き目の揚げ物だ。

 その大きなコロッケは、皿の中心でこげ茶色のソースの海に浮いているように演出され、ソースに浮くピンク色の粒々は、ゲランド岩塩挽きたてでござい、とミサは得意気に説明していった。

「たしかに、ところどころ、衣が黒い、わね。これは、?」

「あ、あ、えっと」

 照れたように、急にミサが焦り出す様を見て、もう何か、早苗の中にはこみ上げるものがあったらしい。

 ふっと、ナフキンで口元を隠すふりをしながら、大げさに咳払いをする動作の隙に、早苗は目頭を拭いた。

「だ、大丈夫? お母さん」

「ええ、大丈夫。それで、どうやって、食べたら、よろしかったかしら」

「それはね。フォークでもって、コロッケさんがどこかにいかないように」

「いかないように?」

 早苗はミサの一生懸命な身振り手振りに従って、コロッケの頭上からサクっとフォークを突き刺した。

(ん?)

 ちょうど真ん中あたりに、何か、ぷすっと刺さった手ごたえがある。

「そしたらね。こう、垂直に、ちょーって、ナイフで一気に一刀両断、してください!」

 ミサのユーモラスな身振りに笑顔を見せつつ、早苗はナイフでコロッケを切った。

「あら、これは……」

 さくりと開いた衣の中からは、黒褐色の中に金色の肉汁が浮かぶビーフシチューが流れ出てきた。そして、中心には、つるりと艶と弾力のある丸い物体が入っていた。それも、今は真っ二つに割れて、ほこほことした黄色い中身を露呈している。

 早苗のまぶたからは、ついにこらえきれずに涙が外にあふれだした。

「煮玉子ね。あなたの、唯一の、得意料理……」

「むむ! 失礼ね。違うのよ、これは、ぜーんぶ—―」

「ええ。もう、」早苗は、優しい声音で、ミサのかわいらしい抗議の声を制した。

「こんな、ことって……ある、ものなのね」

 涙が皿にこぼれ落ちるのもいとわず、早苗は夢中で、ナイフを繰り、フォークを口に運んだ。

「ミサ。美味しい。本当に、美味しいわ……こんなに、嬉しいこと。生まれて、はじめて……!」

「お母さん……そんなに、涙をお皿に落としちゃったら、塩っ辛くて、いけねえよ?」

「……う、ぅわぁぁああっっ――――!」

 早苗はイスを後方に倒して、ついにミサへ飛びついた。

 そして、もう二度と離れないような強い力で、ミサを抱きしめた。ミサの小さな身体が、浮き上がるかのような、強い母の力だった。

「ミサ! やっぱり、お母さん。もう、我慢できない! あなたをきっと、悲しませちゃうけど! そんなのはイヤだったけど、言わせてちょうだいっ!」

「お、お母さん……」早苗の強い腕の中にいて、ミサは、母が震えているのを感じていた。

「なんで、なんで。ミサ、あなたは、なんで私をおいて死んじゃったの? あなたには、絶対に素敵な未来が、あんなにたくさん、本当にたくさん、絶対にたくさん、あったのに!! なんで、死んじゃったの?! こんなに、こんなに、あなたが、愛おしい! 愛していた! それなのに、それなのに……なんで、先に、死んじゃったのよぅ……」

 大粒の涙を流しながら、鼻汁をすすりながら、なりふり構わず、娘への語りかけは続いた。

「あなたが、高校に入学した。ほっとした。散々反対したけれど、死ぬほど嬉しかった。参加できなかった修学旅行は、あなたの友達が、わざわざ別日程を企画してくれて、連れて行ってくれた。あなたの笑顔が、毎日、本当に幸せそうで、救われる思いだった。やせ細っていくあなたの手を握る度、あと何度、あなたの温もりを感じることができるだろう、と不安で、不安で、夜も眠れなかった。あなたが、もしも、つらい、苦しい、なんて、一言でもつぶやいていたら、弱いお母さんの胸は、押しつぶされていたかも知れない。ごめんね、私は、いつもあなたの優しさを、受けるばっかりだった。結局、何も、してあげられなかった。本当に、こんな親で、ごめんなさい」

「いいの! 私は、お母さんのところに生まれてきて、この人生を生きることができて、本当に、良かったって思ってる!」

 いつしか、ミサも早苗を力いっぱい、抱きしめていた。

 周囲を薙ぐ風の力強さは、時折、二人の美しい黒髪をなでたが、母娘の涙が乾くことはなかった。

「お母さん。私もね、話しても、いい? ぜんぶ……」

「言いなさい! そのために、私はここに、いるのだから」

「本当は、ホントはね。私、病気になんて、なりたくなかった。死にたくなんて、なかった。ずっと、みんなと一緒に、いたかった……高校生になって、お母さんとお父さんみたいに恋愛して、大学に行って、語学を勉強して、もっと世界のことを学んで、留学なんかしたり、ボランティアしたり、それで、お母さんみたいに一流企業に就職して、高値の花、なんて呼ばれて、結局、高校から付き合っていた彼氏と結婚して、子供ができたら、さらっと会社やめちゃって、とんでもない世間知らずの、教育ママになるのが……私の夢だったの」

 ミサの目は、どこか遠くを見るような透明感を帯びだした。

「なんで、なんで、私、死んじゃったんだろう。結婚式には、お父さん、お母さんを呼んで、すごく大きなウエディングケーキと、ダイヤだらけの豪華なドレスを着て、旦那さんと高校の同級生たちの出し物なんかのあとに、サプライズで、手紙なんかを、読んじゃったりして、お父さんなんか、目を真っ赤にして号泣しちゃって……最後にね、こう言うの。『お父さん、お母さん。今日まで、私を育ててくれて、本当にありがとう。私、幸せに、なります』……って」

 そこから、大きな声で、ミサは泣き出した。

「なんで? なんで、私、そうなれなかったの?! 途中で、死んじゃったのよぉ……死にたくなんて、なかったわぁあああ、お母さぁんっっ—―!!」

「ああ……!! ミサぁああっっ—―!!」

 二人の母娘がいつまでも慟哭する様を見つめながら、ケンイチは思った。

 神というものが存在しているというのなら、今、どういう気持ちで、この二人を見守っているのだろう、と。

 人の世の中に、死という残酷で冷酷なルールを線引きしておきながら、その一つひとつに対して、あまりに慈悲がない、感情がない、とケンイチには思えてならない。

 涙を流しながら、静かに拳を震わせている息子の様子を、ケンイチの母は、優しいまなざしで見守っていた。

 そして、一言、つぶやいた。

「情けないものだよ、人間なんて。そのこと自体にすら、自分で気づいてや、しないのだから、ね」

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