十五 “私”よ、おやすみなさい
早苗は顔を覆ったまま、ミサの目の前で、うなだれている。
(やっぱり、このテーブルも、食器も、家にあったものなのに、今のお母さんは、そんなことにもまるで気づいていない。そして)
ミサは、風に力なくゆれる、血がにじんだ白い早苗のカーディガンに触れた。
(私が、誕生日にプレゼントした、このカーディガンも……)
「—―!!」
早苗は、ミサの気配に気づいた。すかさず、“私”の警戒した声がする。
—―誰だ! 近づかれすぎだ、私の抜け殻! まずは騒いで、誰も近づけるな!
「うあ、ぁああああああっ—―!」
ドンっと音がするほど、ミサは強く突き飛ばされた。
弾みでテーブルの角に身体の一部が当たり、皿と食器がガチャリと鋭い音を立てる。
「おい、おふくろ! なんだ、どうした?!」
「うるさいよ! あんたは、料理に集中してな。大丈夫だよ。私たちはそもそも、もうケガすらしない身体なんだ」
風にゆれるカーディガンの裾が、悲しくミサの倒れている先を指し示している。
「おかあ、さん……!」
倒れながらも、懸命に放ったミサの呼びかけは、奇声を発している早苗には届かないのか、風に吹き消されているのか。
ミサは、ゆっくりと立ち上がり、もう一度、声を張った。
「お母さん!!」
「……ミサ……っ?」
早苗が顔を覆った手のひらの隙間から、一瞬だけ、ミサを見た。
その隙を、ミサは見逃さなかった。
素早くかけより、早苗の両腕をつかみ、下に振り下ろした。
「お母さん、ミサよ! 見て。ちゃんと見て、私を!」
振り乱した髪の隙間から、早苗の怯えた目がのぞく。
「あ、あ……本当に、ミサ、なの?」
「そうよ、私よ! お母さん、わかるでしょ!」
—―うそだ。まやかしだ。
「ああ! ウソよ! 消えなさいいいい!」
ふたたび暴れだした早苗の腕を必死に制しながら、ミサは母の耳元で、なるべく優しく、大きな声で呼びかけた。
「お母さん。ミサは、ここにいる。ちゃんと、ここに、いるよ……!」
—―まさか。殺される。そうか、“私”を殺すつもりだな。仮面をつけて逃げ続けていた報いのために、化けて出たのだ!
「ぅうううううっ、ごめんなさいいいいぃぃ、ぁがあ、ミサぁぁぁああっ—―!」
「お母さん! 何も、あやまらないで! あやまることなんて、はじめから、何もないの!」
—―ウソだ。死にゆく娘に何も出来ずにいた親が、許されるわけがない。こんな都合のいい妄想が、あるわけがない!
「あぁああっ、ミぃサぁあああっ、ごめんねぇぇええっ—―! 私も、死にたい! 死にたいのよぉおおおっ—―!」
—―ふざけるな、抜け殻め! “私”は死なない! 絶対に、死なない!
「そうよ! お母さんは、私が絶対に、死なせないから!」
—―なにっ、この妄想、“私”の声が、聞こえて……?
ミサは、早苗を強く、抱きしめた。
「お母さんが、もう一人の自分の声に、責められていたのも、私は知ってる」
—―ああっ、動けない、か、身体が、動かない、こ、こわいぃぃっ—―!
「……ミサ……」
強く抱きとめられ、耳元で語りかけられ、その身体の線、声、間近でみる髪の艶までもが、早苗には懐かしく、愛おしく、そして、恐ろしかった。
彼女の身体は、もうすくんで、動けない。
—―ああ……こわい。こわいよぅ、死ぬのが、こわい……。
内なる“私”の声が、遠ざかっていく。
「大丈夫。お母さんは、私が絶対に、死なせない。守ってみせる。だから、安心して、おやすみなさい……」
「ミ、サ。ごめんな、さい。私、もう……」
「お母さん。死なないで。私の分も、元気で、いて」
「ああぅ、でも、それでは、あまりに」
ミサは、早苗の頭をなでた。ミサより少し高いところにある頭のてっぺんから、長い髪に沿うように背中のあたりまで。
かつては黒く輝いていた黒髪には、白いものが幾本も混じっており、ざらざらとした手触りは、早苗の心を鏡で写したかのようだ。
「もう、いいの、お母さん。大変、だったね。もう、私のことで、苦しまないで」
「ミサ、ミサ……っ! そんな、こと! あなた、なんで、そんなにいつも、人に優しく、していられるの?」
「お母さんたちが、私をたくさん、愛してくれたからだよ」
「ああ、また、その顔……!」
ミサの笑顔の前で、早苗は膝を曲げてくず折れた。
気づけば、“私”の声は、もう聞こえなくなっていた。
早苗の耳には、ただ自分の鳴き声と、柔らかく草を薙ぐ風の音だけが、聞こえていた。
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