十四 ミサが、死んだ日
ミサは、自分が死んだ日のことを思い出していた。
と、言っても、昏睡二日目の朝に死んでしまったので、厳密には霊体となって意識を持ったとき、つまり、自分の心臓が完全に活動を停止して、ほんの少し経ってからの記憶しかない。
その前後で残る記憶を辿ると、高熱の中、携帯でブログを更新し、SNSに適当な“いいね”や返信をしつつ、意識を失ったようで、気づいたら、もうふわふわと病室の天井から自分を見下ろしていた。
その病室内には、医師と数人の看護師がいて、ベッドの脇に立っていた。
そのベッドにすがって、早苗が泣き叫んでいるのが見える。早苗の肩を、ミサの父が抱きとめながら、やはり父も、身体をふるわせている。
(しまった! やってしまった!)
と、ミサは反射的にそう思った。
そして、霊体で浮かんだまま、静かに泣いた。
(やっぱり、悲しませちゃった。ごめん。本当に、ごめんね。お父さん、お母さん……)
いつか、こんな光景になってしまうのではないか、とひそかに恐れていた。
ミサの父は、仕事中心の寡黙な人間であったが、営業マンらしく、情にもろいところがあった。
早苗は、元商社勤めのキャリアウーマンでエリート意識が強く、少々世間知らずなところがあり、今まで挫折を知らずに生きてきた分だけ、打たれ弱い。
一人娘で育ったミサは、この二人のおかげで、本当に何不自由のない暮らしを送ってきた。
学業の休みには、必ず家族で旅行に出かけた。
誕生日とクリスマスには必ず巨大なケーキが用意され、プレゼントは選び放題だった。
だが一方で、どこか恵まれすぎているという気がしていた。
小学校六年生のときに、英語の弁論大会が地域で催され、それに優勝した。
テーマは、『地球環境汚染と貧困』だった。
先進国の身勝手な経済活動のツケを、貧しい国の人たちが払っているという内容であったが、インターネットや図書館で収集したそれらの情報は、ミサにとっては衝撃的なものばかりだった。
自分は、趣味のブログで何も考えていないような、花の話題にひっかけた日記を書いて、両親にも甘やかされて生活している一方、世界の片隅では、自分がゴミ箱に棄てたプラスチックゴミの処分を押しつけられて—―先進国は自国で最終処分すべき何割かのゴミを後進国に金で押しつけているらしい—―、病気になっている人がいる。自分が食べ残した程度の食料があれば助かるはずだったのに、餓死する人がいる。親に捨てられて、おもちゃの代わりに銃を持たされている子供がいる。
いずれの記事の内容も、もはやミサにとってはあまりに非現実的で取りまとめようがなく、とてもきちんとした論文にはできそうもないと思った。
仕方がないので、それらを元記事のままつなぎ合わせて、英語翻訳するしかなかった。
もともと、早苗が強く参加をすすめ、テーマも勝手に決められていたので、たいしてやる気もなかった。
ただ、自分のために一生懸命になってくれる早苗のために、それっぽいものを作ろうと、最後の一文に、『I would like to tackle these issues for save all human beings in the earth.(私は、地球上の全ての人々のために、これらの問題に取り組みたいと思います)』と加えた。
その結果が、優勝だった。
ミサ自身が顔から火が出そうなくらい、大人たちにほめられた。
『君は、地域の宝だ』とまで、言われた。
正直なところ、ミサは罪悪感に苦しんだ。
本当は何もできないくせに、ネットで調べた記事をつないで、何の考えもなく、『問題に取り組む』、とまで言い切ってしまった。英語だと、なんだか実感がないような気がしていたが、そんなものは言い訳にはならない。
優勝トロフィーを持ち帰ったその日に、泣きながら両親に詫びた。
自分は、とても世界のかわいそうな人々を、救えそうもない、何もできない、と。
怒られるかと思ったが、早苗から帰ってきた言葉は、意外なものだった。
『いいのよ、そんなこと。ママはね、あなたが一番大事。かわいそうな人がたくさんいるのは確かに事実かもしれないけれど、あなたが救えそうなときに救えば、それでいいじゃない』
ショックだった。なんだ、その言い草は、と思った。救えそうなときに救うなどと、そのような適当な気持ちを恵まれた人々に思い起こさせるために、あの多くの記事は存在するのでは、ないはずだ……だが、同時に自分の無力も思い起こされて、その言葉に、何の反論も出来ない自分にも、気がついてしまった。
母が抱きしめてくれる胸の中で流した涙の意味は、きっと両親には正しく伝わらなかっただろう。
その夜の晩に、ミサは少しだけ、理解した。
そうか。自分は、恵まれているんだ。そして、恵まれている人は、自分よりかわいそうな人を、『救えそうなときに救えば、それでいい』と思っているんだ。しかも、そのことに気づいていないか、さもなければ気づかないふりをしているのだ。
ナズナで遊ぼうとして草原にしゃがみこんで踏みつけている紫の花弁を持つ雑草に、ヒメオドリコソウなんていう可愛い名があることすら知ろうともしない無邪気な子供のように、誰しも気づいていないのだ。無邪気な、ふりをしているのだ。
だって、もしも気づいてしまったなら、きっと誰もが私のように、その愛らしい野の花を踏みつけることなど、とてもできないだろう。
この世界に生きているかわいそうな人は、恵まれている人の、そんな気まぐれのようなもので、生死を分けられてしまっているのかも知れない。
そんなことに気づいてしまったなら、きっと誰もが私のように、胸がざわざわとして夜も眠れなくなってしまうだろう。
その日以来、ミサは、恵まれている自分に対して、どこかで罪悪感を感じるようになった。
自分自身は、世界で起きている大きな問題に対して相変わらず無力なので、これまで通りくだらないブログをのんびり続けてはいたが、そんな無力な自分に気づいて毎日を過ごしていると、なぜか不思議と、自分の両親の未熟な部分が目に留まるようになってきた。
ミサの父も、早苗も、どこか、自分達は優れている、特に娘は優れている、ということを鼻にかけているような気がしてきたのだ。
ミサの父が部長のドラ息子をバカにする会話や、早苗が自分の友人の人物評をいちいちする様子などからして、それはうすうすと感じ取れた。
(お父さんも、お母さんも、何か大きな勘違いをしているんじゃないのかな。私は、何も優れてなんかいない。私たちは恵まれていることに、溺れているようにすら、私には見える)
やがて中学に入ると、ミサはしばしば、肺炎で入院するようになった。
両親はその度に、目に見えて狼狽した。母である早苗は、ほぼ二十四時間、ずっと病室で付き添っていた。父は、普段、月の半分は出張しているにもかかわらず、入院期間中は絶対に出張を入れず定時で帰宅し、毎日病室へ見舞いに来ていた。
昔から、ただの風邪であっても、両親はこのような調子であったが、このころのミサは彼らの行き過ぎている部分に敏感であったため、はじめはどちらかと言えば
(世界のかわいそうな人たちを、放っておいて生きているような恵まれた人間が、無能な娘のためには風邪一つで必死になる。自分勝手ではないか。適当な気分で世界の誰かを殺しているかも知れないのに、自分の家族は特別扱いなのか。この世は、それを良しとするのだろうか)
思えば、このころのミサは、弁論大会での果たせぬ責任に対する罪悪感を静かに噛みしめながら、その罪悪に対する罰としてのはけ口を、自分と両親に向けていたのだろう。
そんなある日、担当の看護師が口をすべらせた。
ミサは、白血病であるという。それ以上詳しいことは、そのときは聞けなかった。
その担当の看護師は、泣きながら哀願してきた。
—―ごめんなさい、本当は告知はまだしちゃいけないはずだったの。ご両親にも、まだ伝えていない。どうか、許してちょうだい。誰にも、言わないで。
まだ白血病という単語について、ピンと来ていなかった。
それよりも、その看護師のあまりに哀れな様子に同情したミサは、その場ではとりあえず笑顔で、『気にしないでください、大丈夫ですから』と応えておいた。
たまたま、そのとき両親は主治医に呼ばれて診察室に行って、ずいぶんと時間がかかっていたので、その看護師が出て行ってからは暇だった。
(それじゃ、暇つぶしに、『白血病』でもスマホで調べてみるか)
そして、ものの数分で、調べるのを止めた。スマホをそっと、近くの台において、ベッドの中にもぐり込んだ。
息が、急にうまくできなくなった。
(そうだ。きっと、ウソだ)
そう、ウソだ。そんなはず、ない。
だって、本当に、死んでしまうかも知れないじゃないか。
ほんの少しだけ、検索しただけなのに、多くの死を連想させる記事がヒットした。
ミサは、まるで現実感のない心理状態を味わいながら、『すべてが嘘』である可能性を考えた。
(そうだ、さっきの看護師さんは、きっと、誰かと勘違いしていたんだ。あるいは、質の悪い、冗談癖が、あったのかも知れない)
そんなことをグルグルとめぐらせているうちに、早苗が病室に帰ってきた。
「あ、おか……」
それは、もういつもの母では、なかった。
「ミサ、調子はどう?」
彼女の目の焦点が、自分には合っていないことを、ミサは感じ取っていた。
「あら、お花。変えなくちゃ、ね」
花瓶をさわる早苗の親指、その爪周りの肉が、ささくれ立って血がにじんでいる。
人差し指でかきむしったに、違いない。
「お母さん。検査の結果、どうだった?」
「あら。そんなこと、あなたが気にするなんて、めずらしい」
早苗はうすら笑いを浮かべながら、「別に、いつもと変わらなかったわ」とつぶやいて、まだ枯れてはいない花を、ゴミ箱へ投げ捨てた。
「お水、くんでくるから、ね」
ふらりと病室を出ていく早苗の背中を目で追いながら、ばたりと閉められた扉の残酷な響きに、はたと気づかされる。
(そうか。私は、一人きり、になってしまった)
急に、病室全体がだだっ広く感じられた。その空間に、ちっぽけな自分が不自然に浮かんでいる。
そして、普通の世界で生きいる人たちとは、決定的に、違う人生を歩むことになる。
その予感が、強烈な孤独感となって、ミサを包み込んだ。
(嘘だ。これは、ウソなんだ。すべて。すべて)
再びスマホを取って、ふとんにもぐりこんだ。
そして、どこか現実感のない自分のものと思われる病名を検索し続けた。“急性”だったり、“慢性”だったり、数か月の入院治療だったり、ドナー待ちだったり、緩解して退院したり、再発に怯えたり……。
その日、もう両親は病室には帰ってこなかったが、むしろ、ミサには都合が良かった。
自分が声を必死に押し殺してまで一晩中泣くのを、両親に同情など、してほしくはなかったから。
恵まれていることに、溺れている人たちからの哀れみなど、考えたくもなかったから。
その翌日、あの口をすべらせた看護師が退職したことを知った。
早苗からは、父は急に出張に出かけたことを聞かされた。
その早苗の目の下には、赤紫色のくまが出来ており、落ちくぼんだように見える目からは生気が感じられない。
「ミサ、今日はね、ちょっと痛い風邪のお注射をしなくちゃいけないの。だから、全身麻酔ですって。何も、心配しなくていいからね。何も」
中学生の娘をつかまえて、何が“風邪のお注射”なのだろうか。
全身麻酔で注射をするともなれば、腰から穿刺針を挿入し、抽出した髄液を検査するのであろう。
両親は、私に本当のことを言わないつもりだ。ミサは、そう思った。
(あの看護師さんも、辞めてしまった。お父さんは仕事に逃げて、お母さんは私にウソをつく。だから……きっと、私はもうすぐ死んでしまう。この病室に、一人っきりで……)
泣くのは、夜、一人になってからだ。それまでは、平静を保とう。
(同情を受けるわけには、いかない。私は、かわいそうな人では、ないのだから)
そうして、数日間、毎夜自分の病気を調べながら、一喜一憂する日が続いた。
緩解した人、再発せずに暮らす人が意外と多くいる印象を持って明るくなった日もあれば、やはり再発、がんの転移により亡くなってしまった人や家族の悲しみを目の当たりにして泣きぬれた日もあった。
ある日、病室の外から響いてくる、雪合戦の明るい声に怯える自分に気がついて、驚愕した。
自分が本当は何に怯えているのか、おぼろげながら見えてきた。
(こわい! 死ぬのが、こわい。もう二度と、普通の日常に、あの明るい声の中に交われない自分の残りの人生が。そのときを過ごすのが、こわい……)
早苗は、病室に来るたび、うっすらと不気味な作り笑いを浮かべるようになっていた。
「あら、今日はお友達が来ているのね。良かったわ、みんな、ミサと仲良くしてやってね」
はーい、と明るく応える級友たちに、早苗は母親らしいことをつぶやいて、逃げるように病室から出て行った。
「ミサ、あんた、本当に身体弱いよねえ。色白だし」「ねえ。でも、またすぐに退院できるんでしょ?」「そうだよ、もうすぐ入試だよ? 勉強大丈夫?」
何も知らずいつも通り明るく接してくれる級友たちに囲まれると、しばし自分の境遇に思い至らずにすむ。ミサは、その感覚を自分の精神に刻み込むように、級友たちに笑顔を向けた。
「えー、勉強? 超やばいに決まってるじゃん。やっぱ、ベッドで寝てるだけだと調子でないんだよねー!」
早苗のような作り笑いを浮かべるのだけは、嫌だった。何かを見て見ぬふりをするような、そんな態度だけは、取りたくはない。
「あんたのお母さん、めっちゃ疲れてない?」
「えっ?」
「あー、そうそう! うちも思った。大丈夫なの?」
「え、うん。大丈夫なんじゃ、ない?」
いや、友人たちは、何も知らないのだ。大変なのは、自分なのだが、それを言うわけにもいかない。
「なーんか、他人事だよね。あんた、お母さん、大事にしないとダメだよ?」
「そうだよ、あんなに良いお母さん、絶対にいないよ」
「ミサのお見舞いのとき、絶対にいるよね、昔からさ。いいなあ、うちの家族なんて、絶対にそんな毎日、見舞いになんか来ないと思うよ」
うちの家族はあーで、こーで、対してミサの家族はいつも仲が良くてうらやましい。
そんな、いつもの会話パターンが展開されている。
「あれ、ミサ?」
友達の一人が、驚いたように声をあげる。
「えっ、な、なに?」
「なにって、あんた、なんで泣いてんの?」
「あ、ミサ、ホントだ」
「どうした、どうした、ホントにこの子は」
わいの、わいの、ハンカチで涙を拭ってくれたり、頭をなでてくれたり。
友人たちと過ごしていると、いろいろと、気づかされてしまう。
「はやく元気になって、お母さん安心させてやんなよ?」
「うちらも、待ってるから。ね?」
「うん、ありがとう……」
病室の外は雪が積もって、どこまでも真っ白な空間が広がっている。
換気のために少し開いた窓からは、しんとした外の冷たい空気がゆっくりと入ってきていた。だが、少しも寒くは感じられなかった。
ミサは、この友人たちと過ごすだろう、この先の未来を思った。
新しい制服に身を包み、新しい学校に通い、少し大人の服を買いに出かけ、この友人たちと旅行に行ったり、あるいはまだ見ぬ誰かに恋だって、するのかも知れない。
少なくとも、この友人たちは、そういった未来を自分と過ごすであろうことを、心から信じているのだった。
そして、思い至った。
そんな明るく楽しい未来を、彼女らから奪ってしまったとき、もしかしたら、今の早苗と同じような顔に、自分はさせてしまうのかも知れない、と。
そんな風に、自分の死ぬ未来を、とらえたことはなかった。
どうしても、自分が奪われる未来だけを、想像していた。恐れていた。
(私は、自分がかわいそうな人だと、思われたくなかった。事実、自分をかわいそうだと思いかけていて、それを認めたくなかった。でも……)
自分が恵まれているから、かわいそうな人に施しを与える。
自分がかわいそうだから、恵まれている人に支援を求める。
思えば、どちらの視点も、“自分”という主語を置いた時点で、どこか自分勝手な響きを帯びるのだ。
それよりも、誰かの未来を少しでも良いものにしたい。
そもそもは、誰しもがそういった純粋な思いで、行動を起こすのではなかったか。
そして、自分は、誰かの未来を少しでも良いものにしたい、と思っていたくせに、その力がないことに、長年、苦しんできたのではなかったか。
明るい友人たちが病室を出て行ったあと、ミサは、彼女らに言えなかった“ある言葉”を思い返していた。
自分との明るい未来を信じている彼女らに、ついに言えなかった言葉。
友人たちと入れ替わりに病室に入ってきた早苗は、静かな様子で、リンゴをむき出した。
「あ、みんなにも、食べてもらえば良かったわね……」そんなことをつぶやいている。
早苗は、完璧主義なのだ。昔から、頭も良く、国立大を出て、大手企業にも勤めて、ミサが生まれてからは、“完璧な子育て”をするため、自信たっぷりに何の未練も残さず会社を辞めたと聞いている。
「はい、どうぞ」
早苗が手渡してくれた皿には、見事な赤目のリンゴウサギが並んでいた。
「ありがとう、お母さん」
ミサは、知っている。この完璧主義の母が、友人たちを避けて病室を出て行ったことを。
自信が、無いのだ。
ミサが重い病を患っていることを、まだ宣告をしていないミサ自身と友人たちに、悟られないように振る舞い続ける、その自信が、無いのだ。
今までの人生で、きっと自信が無いことなど、そうは無かっただろう。
高校、大学、就職は全てストレート、幼馴染だった父との恋愛もストレート、家庭に入っても挫折する要素など皆無だった。
そんな早苗が何かから逃げる姿など、見たこともなかった。
それが、どうであろう。
いつも自信たっぷりだった微笑が、今は卑屈な薄ら笑いにすり替わっている。
しゃくり、しゃくり、とリンゴをかじる娘を、その咀嚼音一つひとつにおびえるように、瞳をうっすらとうるませながら、じっとすましたふりをしている。
(こわい。私は、何てことをしてしまったのだろう)
そう、思ってしまった。
自分が死ぬことも、こわい。だが、そう思う前に、ミサの心の中を、“ある言葉”が埋め尽くしていった。
それからしばらくして、久しぶりに父が病室に現れた。
見るからに、やつれた姿で。スーツ姿ではあるが、いつものようなバリっとした印象はなく、電車の片隅で上目遣いのままきょろきょろしている挙動不審なおじさんのように、ミサには思えた。
(やっぱり……)
多少は想像していたが、おそらくは家に閉じこもって、何かいろいろと調べものをしていたのだろう。いや、もしかしたら、全国飛び回って、病院なんかを探してくれていたのかも知れない。
「お父さん、今日は、なんだか元気ないね」ミサは、努めて明るくふるまった。
病室の窓の外には、朝から雪が降っていた。もう十分に積もっているだろう外に、雪。しんしんと、純白の静寂が景色を覆いつくしている。
早朝の病室は、いつもならもっと騒がしいはずなのだが、この日は不思議と、静まり返っていた。個室の扉が、閉まっているからだろうか。うなだれて座ったまま、身動き一つしない両親の背後の空間に、思わず意識が向いてしまう。
「ねえ。二人とも、大丈夫?」
「ミサ! すまんっ!」
父が、口を開いた。視線を落としたまま、かすれた声で叫ぶように。
(ほら、やっぱり、来たか)ミサは、思った。
「お父さんな、この数日間、何とか、何とかお前が助かる方法がないかって、いろんなところを探しまわったんだ。でも、ダメだった! お父さん、何も、見つけてあげられなかった……すまん、すまん! ミサ」
「……あなた」早苗が、父に何かを耳打ちした。おおかた、告知よりも先にそんなことを言うな、とでも伝えたのだろう。
「ああ、そうだな」と早苗に答えた父は、ゆっくりとミサの方を見つめた。肩には力が入っているようだが、吹けばすぐに飛んで行ってしまいそうな、弱々しい表情の中に浮かんだ悲しい瞳の色が、印象的だった。
「ミサ。お前は、“
「お前は、あと、三ヶ月の命だ」
そのとき、座っていたパイプイスを吹っ飛ばして、早苗がベッド脇にすべり込んできた。
無様に倒れるイスの音、早苗がつかむ、自分の右手。
(ああ。なんだろう、この光景……)
父も、母も、誰しもが、顔を伏せて、涙をこらえている。
イスに座り、がっくりと頭を垂れる父。
自分の右手に、すがりつくように身体を震わせる母。
(私の十四年間って、こんな悲しい光景のために、あったのかな)
そう思うと、ミサはもう涙も出なかった。
自分の死に対する涙は、すでに病院の枕に吸い尽くされていた。
そして、この静かな病室の、今、この瞬間の風景が、きっと“絶望”と呼ばれるものなのだろう、とも思った。
先日、友人たちに、言えなかった言葉。
ふと、その言葉が、脳裏に浮かんだ。
父は、いつか言っていた。ミサが将来、かつての早苗のように、世界を股にかけて活躍するキャリアウーマンになることを、彼は夢見ていた。
早苗も当然、そうなることを信じて疑わなかった。
それが、ミサの幸せであると、両親はいつも信じ、必要なものを惜しまずに与え、たえず育んでくれていたのだ。
自分の閉ざされた未来が、自分だけでなく、周囲の者にまで、こんなにも悲しみを与えてしまうなんて。
どだい、世界のかわいそうな人を救うなんて、自分には無理だったのだ。自分のもっとも身近な両親にすら、こんな顔を、させてしまっている。
「……分かった」
もう、わがままは言わない。
「お父さん、お母さん」
無理なこと、出来ないことを嘆く前に、私には、きっと、やらなくちゃいけないことがあるんだ。
ミサは、覚悟を決めた。
涙のすじが残る父と早苗に、ミサは言った。
「ごめんね」
そして、思いっきりの笑顔を見せた。
自分が、与えるのではない。やっていることは同じだとしても、それでは同情だ。
ただ純粋に、誰かの幸せを願って、自分に出来ることをするだけ。
大声を立てて泣きすがる両親に、優しく手を差し伸べながら、ミサは、二度と同じような光景を生むまいと、心に誓ったのだった。
だが、やはり、死は残酷だ。
ミサは、内心、自分はよくやっていると思っていた。
あの告知の日以来、一度も泣かないで過ごすことに、本当に成功していた。
そして、両親や友人を悲しませないために取り組んだあらゆること—―入学試験、高校生活、闘病ブログなど—―は、ミサの思い通りに、日常生活すべてにおいて良い方向に機能して、その忙しい日々は、ミサの心から少しずつ、死への恐怖を取り去ってくれていた。
それは、十ヶ月に及ぶ抗がん剤治療にも、副作用による強烈な吐き気、全身の痛み、抜け毛、更には一年後の再発、骨髄移植後の定着不良、緩和ケア病棟への移動など、自らを死に追いやるイベントの数々を乗り越えるための大切な心の拠り所だった。
ミサが死んだ日の今、眼下に広がる光景、早苗や父が泣きすがっている自分の姿を見る。
自分の死体は、信じられないほどやせ細り、不健康を通り越しているほど、痛々しい姿だった。鏡で見ていたときには、そんなことは全然、気がつかなかったのに。
両親を悲しませないよう、文字通り、死ぬほど、努力したのに。
(私、結局、何もできないまま、死んじゃったんだね)
—―ごめんなさい。お父さん、お母さん。
いつまで、泣いていたのだろう。
ミサが気がつくと、草原の丘のテーブルに、一人でいた。
「おや、気がついたかい」
見知らぬ人が、さっと、目の前に料理を出してくれる。
その人によって、手早く手元で開けられたどんぶりから立ち上がる湯気には、玉子とだしつゆの香りが香ばしく含まれており、あとからくる唐揚げのジューシーな油の香りが、食欲をそそった。
「唐揚げの玉子とじだよ。あんたのような泣きっ面のお子様には、ちょうどいいメニューさ」
「む、ミサはお子様なんかじゃありません。もう高校生だもん」
「まだ、高校生なんだろ。お子様さ。それなのに、両親よりも先に、死んじまって。この、親不孝者が」
「そ、そんな……ひどい」
ミサは持ちかけた箸を、その場に取り落した。
そうか、やはり、死んでしまったんだ。私は、親不孝者……。
みるみるうちに、涙がたくさん、あふれては落ち、あふれては落ち、いくら拭っても、拭いきれない状態になってしまった。
「あんなに。あんなに、頑張ったのに。ホントに、苦しかったのに……」
しゃくり上げた声もかまわず、泣きながら、これまでの苦労が流れるように、口をついて出た。
「そうかい。それが、“無念”って気持ちさ。あんた、お子様のくせに、ため込みすぎなんだよ。涙はね、そんな“人の無念”を拭い去るためにあるものなんだ。さ、どんどん、泣くがいいさ。あんたはね、親不孝者なんだ。そのくせ、とびきり、優しい子だよ」
声をあげて泣いたのは、何年ぶりだろう。
思わず、この見知らぬおばさんの胸を借りて、長い間、ミサは泣き続けた。
「ほら、冷めちまうよ。まあ、こんなこともあろうかと、どんぶりはあっつあつにしておいたから、たぶん、ちょうどいい塩梅さ。ほら」
優しく、箸を握らされた。
正直、あまり食欲はなかったのだが、一口唐揚げをかじった瞬間、もう止まらなくなってしまった。
「どうだい、うまいだろう?」
おばさんの声に適当に相槌を打ちながら、ミサはどんぶりをかきこんだ。
唐揚げの衣にしみたつゆが肉汁と合わさって、玉子のふわふわと共に、のどの奥へストンと落ちていく。
「洋食たまきは、あんたみたいなお子様の、美味しい味方なんだよ」
ミサは泣きながら、どんぶりの皿底をなめつくすように、きれいに平らげた。
「ごちそうさま、です。とても……とても、美味しかった。こんなに、泣きながら食べたのも、食事が美味しいって感じたのも、はじめてです」
「はいよ、まいどあり」
そう言ってくっくっと笑ったたまきさんは、嬉しそうにミサへ微笑みかけた。
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