十三 いざ、食卓へ。

 完全に力が入らなくなった様子の早苗を、ケンイチはようやくのこと、テーブルのイスに座らせることができた。

 そこは、白いテーブルの中心席で、飾り刺繍ししゅうのついた清潔なナフキンが添えられており、皿と銀のナイフ、フォークなどの食器がきちんと並べられていた。

 向かいの席にも、同じ用意が一席分、設けてある。

 だが、早苗は、イスに座ったままの状態で、顔を覆ってすすり泣いたままだ。テーブルの用意を、見向きもせず、テーブル正面とは違う、ケンイチが座らせるためにイスを大きく引いた状態から、動く気配もない。

「あとは、ミサに任せるしか、ないな」

 ケンイチは、厨房に下がった。それと入れ替わりに、ミサが早苗の前に向かう。

「……」

 がんばれ、と言うのもおかしな気がして、結局、かける言葉が見つからずに、ケンイチはミサの横を通りすぎてしまった。

 あの早苗の醜態しゅうたいを、ミサたちも見ていたはずだ。ケンイチは正直、早苗の姿が恐ろしくて仕方がなかった。


「ここにもうすぐやって来る、は、私のお母さんなんです」

 早苗が現れる前に、ミサはそう言っていた。

「お母さんは、まだ、私の死をちゃんと受け入れられて、いないんです。このままじゃ、お母さんのこれからの人生まで、台無しになっちゃう」

 聞くところによれば、早苗はミサが亡くなった直後から自分を責めつづけており、最近は奇声をあげて暴れるなどの奇行が目立ち、食事もろくに取らなくなっているそうだ。

「ケンイチ。あんた、料理人の使命は、何だと思う?」

「なんだよ、おふくろ。いきなり」

「あたしはね。お父さんのところに二十歳はたちで嫁にきて、以来五十年以上、洋食屋を切り盛りしてきた。決して、楽じゃなかった。けれど、ずっと続けてこれたのはね、いつもうちの料理を美味しいって食べに来てくれる人たちが、いてくれたからだよ」

「ああ、そういう意味か。それなら、俺にもわかるよ」

『料理人の使命とは、自分の料理で相手を幸せに、すること』

 二人の言葉が重なった。そのそばで、ミサはすごい、すごいと手を打っていた。

「たまきさん。私、なんだか感動、しちゃってます」

「それはまだ早いよ、ミサ。約束したろう。お母さんと一緒に、食事会をしよう、ってね」

「なるほどな、ようやくわかったよ、おふくろ。俺の料理の腕が必要だったんだな。それで、呪いを使って俺をこんなところに呼びよせたわけだ」

 母は得意顔を作っているケンイチの方を向いて、ぴしゃりと言った。

「だから、呪いなんて最初からないって言ってるだろ! 何を聞いてたんだい、この鳥頭とりあたま! もともと、あんたなんか呼んじゃいないよ」

「え、そうなの?」

「すみません、ケンイチさん。私たちがここに留まっているのは、私のお母さんの強いが関係しているんです」

「さっきも言ったろ。現世とあの世の境目であるこの空間には、まれに強い思念を持つ現世の人間が迷いこむことがあるって。ミサのお母さんはね、娘の死と最後まできちんと向き合うことが出来なかった。娘の死に対する責任の取り方を、自分自身を責めることに求めてしまったんだね。それは、破滅的な葛藤さ。生きている人間がこの空間に来るなんて、なんだよ」

(その“よっぽどの空間”に、“御魔灰ごまか”されて来ちまった俺は、いったい……)決まりの悪い顔で母の言葉を聞くケンイチの横で、ミサはテーブルを見つめている。

「この空間は、本来はきっと、死んだ人間が現世の家族と、きちんとお別れをするための空間なんだと思うんです。現世をのぞいて、家族や身近な人たちの様子をながめて、自分の死を受け入れて—―」

「ケンイチ。あたしはね、気づいたら、ミサと一緒に、この空間にいたんだよ。これはあたしの勝手な想像だけどね。ここは、死んだ魂ってやつがきちんと成仏できるように、神様が作ってくれた、ありがたい空間なんだよ。この白いテーブルや食器はね、ミサの家のものなんだ。そして、ミサとあたしは、この空間にきた数日前から、今日、ミサのお母さんが迷いこんで来てしまうことを知っていた」

「え……じゃあ」とつぶやくケンイチに、「もちろん、あんたが来るなんてのは思いもしなかったよ、情けない!」ぴしゃり、と母は応じた。 

「お母さんは、きっと、と思います。この空間に迷いこむというのは、そういうことなんだって、なんとなく、わかるんです」

 ケンイチは、どこか悲しい顔をしながら、遠くを見つめた。

「ミサの話を聞いてね、ピンと来たよ。これは、この母娘おやこを救うように手助けせよって、神様があたしにそう言っているんだ、ってね」

「たまきさんとお話するうちに、私、思い出したんです。お母さんと二人きりで食事、ずっとしていなかったなって。本当はちゃんと言いたかったことも、今なら、言えるかもしれない」

「食卓を囲むってのは、家族で話すには最善の方法さ。まあ、幸か不幸か、バカ息子がちょうど来てくれたからね。フレンチの天才だったらしいから、コース料理でも作ってもらおうかい」

「おいおい、ひどい言い草だな。それに、いきなりコース料理つっても、時間がねえよ」

「大丈夫だよ。あたしがほとんど、仕込んでおいた。この空間は調理機材や食材なんかは思い浮かべれば、ぱっとすぐに出てくるんだが、やはり料理は実際に作らないと味がイマイチでね」

「私も、過去にお母さんと食べた食事を思い出して、何度か出してみたんですが、食感がパサついていたり、塩気や甘味が薄かったりで、どうも美味しくないんです」

「ふうん。ちょっと、見させてもらうぜ」

 ケンイチは厨房に入り、冷蔵庫の中や、大型コンロに並ぶ寸胴鍋の中身を確認した。

 コンソメやデミグラスなどのベースはすぐにでも使える状態で、下味をつけて寝かせてある肉、魚類も十分なものが揃えてある。

「まあ、いいか。これなら、どうにでも出来そうだ。で、おふくろ。メインは?」

「ああ、それなら、その冷凍庫に用意があるよ」

「どれどれ……」

 ケンイチはシンク脇の冷凍庫の扉を開けて、中を確認した。

「ああ、なるほど。じゃあ、あの鍋のやつは」

「そう。“爆弾”だよ。ミサのお気に入りさ」

 しゃがみ込んで冷凍庫の確認を続けていたケンイチは、あることに気がついた。

「おふくろ。この具材の切り方、腕がなまっちまったのか」

「なわけ、あるかい」

「だよな」と言って、ケンイチは冷凍庫の扉を閉めると、立ち上がった。

「よく、わかったよ。このメインのアレンジなんかも、だ。これに合わせて、前菜を用意すりゃ良いんだな」

「頼んだよ、フレンチの天才さん」

「よろしくお願いします!」

 腕を組んだ母のとなりで、ミサは深々と頭を下げている。必死な様子が、伝わってくる。

「まあ、任せてくれ。あと、俺は“”じゃない。さ」


 少し前にそううそぶいていたケンイチは、自分の役目の重大さについて、今更ながらに思い至っていた。

 あの早苗の様子は、たしかに『』と感じる。

 ミサとすれ違ってすぐの厨房の入口には、母が立っていた。

「ミサ、大丈夫かな」テーブル席へ心配顔を向けながら、ケンイチは言った。

「大丈夫だよ。あの子はあんたよりもよっぽど、現実がちゃんと見えている子なんだ」

「現実、って。それを死んだ人間が、ここで言うかい」

「だからだよ。死を本当に見つめられるのは、なんだ。何でも、そうだろう?」

「ふうん」と、鼻を鳴らして、でもどこか釈然とせず、腕を組んで、ケンイチは母を見た。

「でも、それならさ、死んだことのある人間なんて、現世には誰もいないんだから、普通の人間で死を理解している者は、誰もいないってことになっちまうよ。俺にとっちゃ、現世が現実のすべてだし、現世では、死を近くに感じながら生きている人たちがたくさんいる。その人たち全員、死をよく理解してないって、そういうことかい?」

「あんたの言う死を理解するっていうのは、難しい言葉だね。死というのは、これこれこういうものだから、なんて、死んだあたしには、ピンとこないよ。ただ、死を見つめるっていうのはね。ただありのままに、日々起こる何気ないことを深く見つめるってことなんだ。たとえば、空気が冷たいとか、花から良い匂いがするとか、少しお腹の下の方が痛いとか、五感や、ときには第六感みたいなものまで総動員して、ただ、日々全身で感じたものを、深く見つめ続ける。そうして、それらが、実は有限の感覚であることを意識する。いや、意識せざるを得ないんだね。もうすぐ、死ぬのが分かっているときなんだから。ぜんぶ、いつか、終わる。不思議なもんでね、そうやって、ただ現実に起こること、存在すること、自分の外から受け取るあらゆるものを、そのままありのままに受け取っていくようにしてやると、ある日、ふっと、救われる瞬間が来るのさ。今まで死ぬのが怖くて怖くて、自分の不幸を呪って流していた涙が、いつの間にか、すべての生きとし生けるものへの感謝の涙となって昇華されていくように感じる瞬間が、必ずくる。信じられないだろうけどね」

「ふうん。なんだか、おっかねえ話だな。もうすぐ死ぬのに、感謝するなんてさ」

「ケンイチ。あんたは、まだ幸せ者だってことだよ。さっ! ミサはあたしが見ておくから。安心して、得意のフルコースを準備してきな」

「あいよ。まあ、任せてくれ」

 片腕を振り回しながら、ケンイチは厨房に入っていった。

 そして、顔を覆ったままの早苗の側に立ち、ミサはいよいよ、彼女へ声をかけようとしていた。

(あんただけが出来る、現世への最後の仕事だよ! 自分と、お母さんのことを、最後の最後まで、信じぬくんだよ!)

 ミサを見守る、ケンイチの母の両目にも、力強い光が宿りはじめていた。

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