十二 早苗(私と、“私”)

「ここは……」

 山城早苗やましろ さなえは、風の中にいた。

 あたりを吹き抜ける風は、どこまでも透明で、涼やかで、そしてどこか、さみしげだった。

 見ると、自分はもう何年も着てこなかったお気に入りの外着を着て、広い草原の中に立っている。


(どういう、ことかしら。でも、この服……)

 呼び覚まされるのは、約一年前、最愛の娘と行った、遊園地の記憶だった。

 娘の友人たち数人と、連れだって行った、最後の遊びの記憶。

 巨大な観覧車、優雅な回転木馬、にぎやかなコーヒーカップ。

 どれもが、はしゃぐ娘を乗せては、回り、回り……彼女から、残された楽しい時間を、確実に吸い取り、からめとっていく。

 友人たちが、気を使いながら娘と歩く姿。それと察し、強烈な痛みもいとわず、笑顔を見せ続ける娘。

 その日常を、という仮面で覆い隠すように、眺めていた私。

 娘の胸の内に潜んでいたであろう苦しみに、正面から向き合う勇気を持てず、ひたすらに、仮面をつけ、ただ、恐れた。


—―お前に、何がわかる。何もできないくせに。分かりもしないくせに。私を、救えないくせに。


 いつか。いつか、娘から、そう言われてしまいそう。娘の死に怯えるちっぽけな私が、見透かされて、しまいそう。

 卑怯な私は、そう思うことで、娘と、距離を取った。ひたすらに恐れることで、勝手に生まれる自分の防衛本能に、対処をゆだねた。

 という、便利で残酷な道具が、私の中の深くて暗い場所に住んでいる“”から、すぐに手渡された。

 娘が、逃れられない死という運命に向かって、立ち向かっていく日々を、私はすぐ近くで仮面をつけて、ただ眺めていた。

「ミサは、いつも偉いわね」「本当に、よく頑張っているわ」「あなたは、私の誇りよ」「苦しいときは、苦しいって、言ってもいいのよ」「世界で一番、愛しているわ」

 それで、自分の卑屈な自尊心、やっている、私はちゃんと、やっている、という空虚な満足感を、日々、捏造ねつぞうしていた。

 私は、恐れた。こわかった。逃げたかった。ただ、ひたすらに距離を取って、できることなら!

 できることならば、娘の死という運命から、完全に目をそらしてしまいたかった。

(ダメよ! 目をそらしては。そんなことしたら、何て言われるか、わからないじゃない)

—―誰に。

(親なんだから。私は、あの子の親なんだから! 私が一番近くで、見守らなければいけないの)

—―世間か。

(……)

—―娘よりも、世間体の方が、大事なのか。

(違う! そんなわけ、ないじゃない。世間なんて、関係ない。私は、ただあの子を……)

—―救えない。

(いいえ、私は、あの子を……)

—―お前は、娘を、救えない。わかっているはずだ。

(うそよ。そんなの。認めない)

—―お前は、そう言って、娘から逃げているのだ。

(逃げてなんかない! あの子のことを、私が、一番……)

—―ならば、死にゆく娘は、お前に何と言ったか。

(『ごめんね。でも、心配、しないで』……)

—―つまり、お前の力は、必要とされていない。事実、お前は、娘を、救えないからだ。

(だからって。だからって、親が何も、しないというのは……)

—―偽善者。

(……)

—―お前は、娘より世間体を気にする、ただの無力で醜い、偽善者なのだ。

(……)

—―お前が今、着ている服は、あの日、娘と友人たちが見せたと、お前の偽善で満ちたとの違いを、思い知った日に、着ていた服なのだ。

(……私は、世間体がこわくて、娘に、優しい言葉を、かけ続けていた、と言うの?)

—―そうだ。よく考えろ。その“優しい言葉”とやらに一かけらでも、真実はあったか。

(愛、してる。娘を、心のそこから)

—―死ぬ運命で、あってもか。

(当然よ!)

—―なら、お前も娘と共に、死ぬがいい。あの告知の日、そう誓ったように。愛を証明してみせろ。

(……)

—―どうした。

(娘は、そんなこと、きっと望んでいない)

—―ずいぶんと、自分に都合良く解釈するものだな。呆れた偽善者だ。

(違う、私は)

—―お前は、死ぬのが、ただ、怖いだけなのだ。

(違う! あの子が恐れていないものを、私が恐れるわけない! 私は、あの子と一緒に、闘っているのよ!)

—―それが、偽善なのだ。闘う、などと大げさで陳腐な言葉を使う。娘に、申し訳ないから。そう思っていると見せかけていないと、自分が責められそうだから。誰かに、親という資格をはく奪されてしまいそうだから。そんな自己中心的な不安を紛らわせるために、まったくわかりもしない娘の気持ちを、わかったようなフリをしているのだ。

(フリではない! 私はそんな、矮小わいしょうな人間では)

—―もし、親である資格を失ったら、お前は、死ななくても良い。

(え……)

—―ほら、今、少し、“”しただろう。

(して、ない!)

—―自分も死ぬくらいなら、娘の親をやめてもいい。そんな残酷な人間が、お前の真の姿なのだ。

(うそよ!)

—―ならば、娘と共に、死ぬか。

(もちろんよ! 私は、あの子と共に、絶対に死ぬわ!)

—―よかろう。“”は、お前に偽善のを作りし者。つまり、“”はお前。だから、お前を絶対に、死なせはしない。その結果、お前の精神が、壊れてしまったとしても。

(できるものなら、やってみなさい。私は、ミサの立派な母親よ。あの子を絶対に、一人では死なせないわ!)



—―ミサは、もう半年も前に、死んでいる。


(—―!!)




 早苗が着ている服は、シックな色の地味な上下であったが、肩に羽織はおった薄手の白いカーディガンだけは、この空間で不思議と輝いて見えた。

 風にゆれるカーディガンは、さきほどから、早苗をどこかへ、いざなうように柔らかくはためいている。

 だが、彼女はそれには一切気づかずに、自分の両肩を抱きつぶし、まぶたを強くふさいでいた。

「イヤああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 突然、強く絶叫したかと思うと、膝から崩れ落ちた彼女は、組んだ両腕に爪を強く突きたて、額を何度も地面に激突させはじめた。

 ごっ、ごっ、と響くにぶい音と共に、早苗の額からは血がにじみ出ているが、なおも彼女は絶叫を止めない。

 爪にかきむしられた両方の二の腕からも出血し、白いカーディガンが赤く染まり始めた。


「待ちなさい!」

 早苗の肩を、誰かがつかんだ。男性の声だ。

—―良かったな。今回も、お前の旦那のようなヤツが、死ぬのを止めてくれた。

「あああうう! 死なせてええぇっ!」

「あ、おい! 待て、このっ!」

 男性の腕をふりほどいて、とにかく額を地面に叩きつける。

 早苗の今、生きる目的は、ただその破滅的な行為に執着することだった。

「あああ、ミサあああぁぁ!」

「くそ、仕方ない!」

 男性は、早苗を思いきり抱きしめた。

 なおも暴れる早苗を制するのに、しばらくかかった。


「……落ち着いたか?」

—―良かったな。また、お前だけは死ななかったぞ。もう、動く体力もあるまい。

「ああぁぁ—―! ああぁ—―!」

 男から離れた早苗は、立ち上がる気力もなく、ただ泣きじゃくった。

 見知らぬ男にまで、死ぬのを阻止された。

 夫が止めに入ったときと同じように、その男の言葉に合わせて、内なる“”が、高らかに自分の偽善をなじる。

 また、負けた。自分の愛情を、証明できなかった。

「やれやれ、まいったな。あいつらは、あのテーブルの周りからこっちまでは来れないって言うし……」

—―おや、この見知らぬ男が言うことに、聞き耳なんて立てるほど、心に余裕があるのかなあ? それが、娘を死なせた親の態度かなあ?

「—―!! あ、あああぁぁ—―!!」

「おいおい、また叫びだしたよ……ったく。ミサの言った通りだな、こりゃ」

「あああ、ミサあああ—―!!」

「仕方ない。失礼、しますよ!」

 無心に叫びつづける早苗の片腕をくぐるようにして、男は彼女を抱きかかえた。

「あそこのテーブルがあるとこまで、行きますからね! よいしょっ」

—―良いざまだな。さあ、疲れたろう。のどが枯れたをして、休むがいい。

 早苗は、内なる声に従った。

 男がどこに連れて行こうが、どうでも良かった。

 この見知らぬ男にも、自分はなのだ、と思われたことだろう。

(くやしい。どこかで、が、心底、くやしい)

 いっそ、この男に惨殺されでもしないだろうか。

—―しないね。わかっているだろうに。この男は安全だから、“”もするがままにさせている。

(ミサ。私はもう、本当に疲れたわ。なぜ、あなたは私をまだ、連れて行ってはくれないの……)

 男に抱えられながら、早苗はゆっくりと、丘をのぼっていった。

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