「いちばんおいしいもの」

小箱エイト

「いちばんおいしいもの」

学生時代、強化訓練と称して登った山がある。

ワンゲル部に入ってすぐのことだった。

体力をつける為に、ザックの中身を重くして登る、いわゆる歩荷(ぼっか)だ。

女子六人のパーティで、コースは初心者。 もともと体力には自信はある。

当日の天気も、晴天というほどでもなく、出足はほぼ順調に思えた。


けれど、午後のテントを張る頃には、かなり疲れていた。

一度腰を下ろすと動きたくなくなって、帰りたい気持ちが過った。

先輩たちのほどいたザックからは、テントや炊事の道具、米、水、食料、

そして石も出てきた。

私のほうは、米と水、そして自分の着替え、比べるといちばん軽い。

すぐに立ちあがり、先輩たちに習って宿泊の準備をはじめた。


夕食は、飯ごうで炊いたご飯とカレー、ビニール袋でこしらえた即席の漬物など。

後始末を終えると、就寝までのひととき。

ここでは、ラジオは天気予報と緊急用にしか使わない。

携帯も普及にはまだ遠い時代、

ランプを囲み、山のうたを歌い、山に関する思い出や、

これから制覇したい山のことを語り合う。

世間話はタブーで、徹底的に山がテーマだった。

先輩たちは山の話が尽きない。皆、山に魅せられている。

「なぜ山に登るのって聞かれてもねえ」

ひとりがぽつりと言うと、他のみんなが笑った。

けれど、誰もそれには答えなかった。

ほとんど会話に乗れない私は、先輩たちを眺めながら、ぼんやりとした頭の隅に、

何かひっかかるものを感じていた。


朝は五時起きのため、二十時には就寝。

生まれてはじめてテントの中で一晩過ごした。

新聞紙を沢山敷いて、寝袋に包(くる)まっていても、背中が痛くて眠れなかった。


翌日は、食べた米のかわりに石を積んで挑む。

昨日と同様、私は先頭から三番目で登る。寝不足もあってか、

頭が冴えず身体もだるく、二日目はスタートからきつかった。

足が上がらない。滑る。木の枝が邪魔をする。立ち止まる。先頭を待たせる。

背中が重い。呼吸が乱れる。余計に身体に負荷を感じる。

けれど行くしかなかった。

自分の遅れは、後ろの先輩の足を止めることになる。

ひたすら、前を行く足跡に自分の踵をあててゆく。

その繰り返しだ。何か考えてしまったら、すべてが停止してしまうから、

黙々と、ひたすら、無心で、足を動かす。


「到着!」

頭の上から声が聞こえても、ぴんと来なかった。

なかば、ふてくされていたのかもしれない。返事もせず足を上げる。

踏み込んだ踵から、小さな石が崩れた。

顔を上げると、水色の空が開かれ、かすれた雲の線が一本あった。

その下には、仙台の街が広がっている。

川や道のラインと、粒のようにひしめいている建物。

風が、汗まみれの顔をなでていく。

いま、この場所に立っていることが不思議だった。

ここに来る昨日まで、あのひしめきの中を歩いていたのだから。


ザックを下ろして、ぱんぱんに堅くなった身体を曲げるようにして腰を下ろす。

「糖分だよ~」

配られたのは、ピーナツかりんとう。

一瞬、なぜこれが? と思ったが、指が機械的に口に運んだ。

かじった瞬間、甘味が脳天を突いた。

貪るようにして、手のひらのものをたいらげてしまった。

こんなにおいしいものだったろうか。

いま目の前にあるのは、空と山並みと見下ろす街と、風にのる緑の匂い。

苦しさとか、後悔などは、山の麓に置いてきたように、身体が軽く感じられた。

なぜ山に登るのか。

それは、答えることなどできない。

ひたすら無心で、山肌を蹴り続けてきたのだから。

いま身体が感じていること、それは言葉じゃなくて、私しかわからないことなんだ。


無事に下山し、学校に着くまでのバスは貸切状態だった。

全開の窓からの風に、髪をなびかせている先輩の横顔は、とても美しかった。


事情があって部活を続けることができなくなり、

それっきりで退部してしまったが、今でも登山には憧れる。

そして、いまだに、あのときのピーナツかりんとうに勝る味には、出会っていない。

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「いちばんおいしいもの」 小箱エイト @sakusaku-go

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