第37話 生まれて来なければ
* * *
あの日。相川 逢人として生きた、十八歳の秋。
璃世の葬式を終えた俺は、最愛の妹を失った喪失感に苛まれたまま、いつもの癖で無意識に病院への道のりを歩んでいた。
空は雲で覆われ、月など見えない。この道を進んだところで、彼女ももういない──その事にようやく気がついたのは、病院の近くにある廃ビルの前を横切った時だ。
俺は俯き、錆びたフェンスの前で立ち止まる。
唇からこぼれ落ちたのは、彼女の名前。
「……璃世……」
いつか彼女を幸せにしたくて、料理の道を志した。けれど、もう二度とその夢を果たす事は出来ない。
胸に空いた穴を埋める事も出来ず、黙り込んだ俺だったが──不意に、廃ビルの方から数匹の野良猫が飛び出して来た事で俺は顔を上げた。
続いてビルの中へと視線を移せば、汚れた窓ガラスの奥に人影が見える。その人物を俺はよく知っていた。
「……海人?」
それは、まさしく海人の姿。
通夜にも葬式に現れなかった彼は、廃ビルの窓際をふらりと歩いて消えていく。
なぜだか嫌な予感がして、俺はすぐに錆びたフェンスをよじ登った。
「おい! 海人!」
廃ビルの敷地内に足を踏み入れ、入口へと駆け寄る。普段施錠されているガラス戸は破られ、どうやらここから中へ侵入したようだった。
俺は
しかし、ぐにゃりとすぐに何かを踏み付けた事で俺の足は止まった。
「……!? な、何──」
すぐさま足元を携帯で照らしたが──その瞬間、俺はひゅっと声を詰まらせて息を呑む。
そこに転がっていたのは、無残に体を引き裂かれ、息絶えた猫の死骸だったのだ。
「……っ!?」
絶句したまま視線を上げ、俺は数歩後ずさる。そのまま恐る恐ると辺りを照らせば、更に数匹の猫の死骸が転がっており、床は赤い血や臓物で汚れていた。
「海……人……?」
心拍数が上がり、嫌な予感で胸が満ちる。俺は震える声で「海人……!」と呼び掛けながら、床に残る血痕を追って階段を駆け上がった。
「海人っ……! お前、何してんだよ!! おい海人!!」
暗闇に叫ぶが、返事はない。時折転がっている猫の死骸に眉根を寄せつつ、海人の形跡を俺はひたすら追い掛けた。
しかし三階まで駆け上がった所で、その足はぴたりと止まる。
目の前には、力なく倒れている白い猫。
それはいつも璃世の病室へと足を運んでいた、あの猫の屍だった。
「……お、お前、まで……」
わななく喉から声を絞り出す。
白い猫は、以前見た時よりも随分と痩せて見えた。そしてその周りには、生まれて間もないであろう子猫の死骸も転がっている。
「……お前……っ、妊娠、してたのか……?」
前々から、随分太っているなと思っていた。毛が白いから余計に丸く見えたのかもしれない。
しかし今ではその白い毛を赤く染め、生まれて間もない子供と共に事切れて、ぴくりとも動かない。
俺は奥歯を噛み締め、その場に膝をついた。
「……海人……何で……こんな事……っ」
掠れた声で呟いた──直後。
俺の耳は、やけに高い声で鳴く猫の鳴き声を拾い上げた。ハッと顔を上げれば、柱の影から覚束無い足取りで真っ白な子猫が駆け寄ってくる。
その時ふと、俺の脳裏には、生前の璃世との会話が蘇った。
『──ねえねえアイちゃん、私ね、生まれ変わったら猫になりたいなあ』
『はあ? 何で?』
『だって楽しそうでしょ、色んなところに遊びに行けるのよ。ふふっ、決めた、来世は猫になる! それでねえ、アイちゃんとカイちゃんのところに遊びに行くの!』
『……そっか。じゃあ、猫になったら真っ先に俺に会いに来いよ。すぐ抱き締めて甘やかしてやるから』
『うん、走って会いに行くよ! 猫ならたくさん走れるもんねえ』
『約束な』
──今思えば、心底バカだと思う。
バカだとは思うが、その時の俺には、か細い声で鳴きながら駆け寄ってくるその子猫が──生まれ変わった璃世なんじゃないかと、思ってしまったんだ。
「……璃世……?」
「ミャア」
「……っ、璃世……っ」
駆け寄ってきた子猫を抱き寄せると、生命の確かな温もりを感じた。
それが璃世だという確証なんてどこにもないのに、俺にはその子猫が璃世の生まれ変わりだと思えて仕方がなかった。
縋りたかったのかもしれない。信じたかったのかもしれない。本当に璃世が、走って俺に逢いに来てくれたのだと。
じわりと視界が滲んで、座り込んだまま猫を抱き締める。頬を伝う涙の粒が、白く柔い毛を濡らしていく。
「ごめん……っ、ごめんな、璃世……」
「ミャオ」
「俺……っ、お前を、たくさん、幸せにしてやりたかったのに……っ」
「ミャア」
ごめん、ごめん、と繰り返す俺に、猫は目を細めて頬を擦り寄せる。その温もりにまたツンと目頭が熱くなって、より一層涙の粒が溢れた。
しかしその直後、俺達を嘲笑うかのような冷たい声が耳に届く。
「──なんだ、まだ残っていたのか。汚い野良猫が」
近距離で放たれた声に、俺はすぐさま振り返った。
血で染まるカッターナイフの刃をカチカチと伸ばしながらこちらに歩み寄るのは、散々猫を殺し回っていたであろう、海人。
静かに涙を落としながら狂気的な笑みを描く彼に、俺の背筋が凍りつく。
「……っ!」
「逢人、それを俺に寄越せ」
「海、人……っ、お前、何してんだ……! こんな事して何になるんだよ!!」
「うるさい!! いいから寄越せ!! そいつらのせいで璃世は死んだんだ!!」
海人は怒鳴り、俺から猫を奪おうと襲い掛かってくる。俺は猫を抱えたまま海人を蹴り飛ばし、階段を駆け上がった。
「逢人ォ!!」
「はあっ……はあっ……!」
背後で怒号を上げる恐ろしい声から逃げるように、俺は必死に階段を駆け上がる。しかし上へ向かったところで逃げ場などなく、やがて屋上へと飛び出した。
錆びたフェンスが囲う屋上には何も無く、隠れるような場所もない。愕然と立ち尽くして「嘘だろ……」と絶望しているうちに、海人の足音はすぐ背後にまで迫ってくる。
カッターの刃を光らせた彼に息を呑み、即座に地を蹴って走った。しかしついに肩を掴まれ、俺は錆びたフェンスに体を叩き付けられる。
「……っう……!」
「おい、いい加減にしろ逢人。猫を寄越せ、お前ごと刺し殺すぞ」
「ふざ、けんな……! お前がいい加減にしろよ! 正気に戻れ、海人……!」
「俺は正気だ。璃世を奪ったものは全て許さない。父も、母も、医者も、病も……」
ゆらりと俺に近付き、海人は濁った黒い瞳で俺を見下ろす。「ああ、そう言えば……」と続けた彼は、俺をその瞳に映したまま目を細めた。
「──璃世の病室に猫が侵入した原因は、お前だったな? 逢人」
「っ……!!」
低くこぼした刹那、海人は俺に向かってカッターを振り上げる。俺は即座にその手を掴み、猫を庇ったまま彼の殺意に抗った。
「……っ、やめろ……! やめろ海人、人殺しになるつもりかよ……!! 俺達、家族なんだぞ……!!」
「どうだっていい……! お前らは家族のツラして、俺の
「目を覚ませよ!! 悲しくて悔しいのはみんな同じなんだ、誰のせいでもない!!」
「違う!! お前らのせいだ!!」
海人は泣き叫びながら俺の首を掴み、強い力で締め付ける。喉に指が食い込んだ瞬間、俺はようやく海人から向けられた殺意に迷いがないことを察した。本気で自分を殺そうとしているのだと。
「うっ、あ……! かはっ……海人……っ、やめ……」
「ミャア! ミャア!」
必死に抵抗する俺の腕の中、子猫が高い声で何度も鳴く。その声が気に障ったのか、海人の瞳はじろりと猫を睨み付けた。
「黙れ、このクソ猫……お前から先に殺してやる……!」
「……っ! やめろ!!」
迫る海人の手から猫を庇い、俺は彼に掴みかかって背中をフェンスに押し付ける。錆びたそれがギシギシと軋む中、どうにか海人からカッターを奪おうとするが、彼も強い力で抵抗した。
「離せ、逢人……っ!」
「嫌だ!! お前、ふざけんなよ……っ! こんな事して、璃世が喜ぶわけねえだろ!!」
「黙れ……黙れ黙れ!!」
「海人、頼むから分かってくれよ……! 俺は、お前を人殺しになんかしたくな──」
──ガシャンッ!!
その時──大きな音が鳴り響き、俺達の体はぐらりと傾いた。
金具が飛び、錆びたフェンスと共に、俺達は宙へと投げ出される。
いつしか降り始めていた雨が、愕然と目を見開く俺達の肌を濡らしていた。そしてわけも分からぬうちに、互いの体は地上へ向かって急降下していく。
──ああ、これは罰だ。
視界に飛び込む灰色の景色が緩やかに流れる中、俺は思った。
俺は罰せられる。このまま死ぬんだ。
誰も悪くないのに、誰の事も救ってやれなかったから。
ごめんな、璃世。
お前は約束通り、走って俺に逢いに来てくれたのに。
お前を幸せにしてやりたかったのに。
また、お前を守ってやれなかった。
「……ごめん、な……」
腕の中の猫に、か細く謝った頃。
風の音以外聞こえないはずの俺の耳は、「アイちゃん、ごめんね」と囁く璃世の声を鮮明に拾い上げた。
「私のせいだね。私が全部悪いよね。私さえ居なければ、二人共幸せだったのに」
「……!」
「私が、アイちゃんも、カイちゃんも、お父さんとお母さんも……みんなを不幸にした」
「璃──」
「私なんか、生まれて来なければよかったのに」
──ゴシャッ。
古びたデパート跡地、四階建ての廃ビルの屋上。
その場所から錆びたフェンスを突き破った俺と海人、そして腕の中の猫は、暗い空から降り注ぐ雨粒よりも速いスピードで地面に引き寄せられ──
冷たいコンクリートの上に全身を強打し、その命を落とした。
* * *
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