第34話 それはまた今度な
ざぷり、ざぷり。寄せては返す波が浜に流れ込み、絶えず波音が俺達の耳を打つ。黙ったままのリシェは、すっかり気を落として俯いていた。
俺は溜息をこぼし、彼女の頭をぽんと撫でる。
「そんなに拗ねんなよ、捜査官。仕方ねーだろー? 俺はどうやったって罪人なんだから、王都には帰れねえよ」
「……」
「そんな暗い顔せずにさァ、ちったぁ喜べって。アンタも俺も無事なんだぜ? ……少し前までは、もう二度と手も繋いでやれねえなって思ってたのに」
些か声を窄め、俺はリシェの手を握った。
もう二度と生きて彼女の手に触れる事はないと思っていたのに、今まさに、その手を握っている。
ただそれだけで、俺はもう十分だ。
「色々あったけど、わりと楽しかった。アンタといるの」
「……」
「これからは、ちゃんと良いもん食って、広い風呂に入って、柔い布団で寝て……あとは何だっけ、王子様みたいなイケメン? まあ何でもいいけど、良い男でも見つけてたくさん甘やかして貰えよ。……元気でな」
痛む体を起こし、俺は彼女の背中を押すように告げて自ら離れる。しかしリシェはいつまでも俺の手を離そうとせず、何も言わずに俯いたまま。
「……どうした? 早くお父様んとこに戻れよ」
「……」
「おーい、捜査官? なんか言えー」
「……」
「……はあ。まだ拗ねてんのか? いい加減にしろよ、あんまり長引くとまた心配され──」
──ぐいっ。
刹那、突としてリシェは俺の腕を強く引き寄せ、自身の踵を高く上げた。そのまま近付いた彼女の唇が、俺の顔へと迫ってくる。
呼吸の音がやけに近くで耳を掠めて、俺は息を呑んだ。まさか、と目を見張る俺を他所に、彼女は勢いよく俺の唇めがけて自身の唇を寄せてきたのだ。
長い睫毛が揺れて、ひとつ瞳を瞬いて。視界いっぱいに淡い桃色の髪と、リシェの顔が映り込む。避ける事も出来るのに微動だにせず立ち尽くしたまま、俺は自然と彼女の行動を受け入れていた。そしてついに、リシェの柔い唇が俺の“
…………。
……ん? あご?
「……え?」
何が起きたのか分からず、思わず固まった。俺が硬直して暫くした後、リシェは「あ……」と声を漏らして視線を泳がせ、やがてへらりと困ったように笑う。
「……あ、あは……。ま、間違えた……外しちゃった……」
「……」
「私の、“はじめて”……最後に、イドリスに貰ってもらおうと、思ったんだけどな……」
少し届かなかったね、と目尻を緩めたリシェは、俺の手を強く握って再び俯く。ぽとりと透明な雫が地面に落ちて、彼女の声は次第に掠れていった。
「……やっぱり、最後まで、だめだなぁ、私……」
「……」
「ずっと、ポンコツだなぁ……っ」
下を向いて肩を震わせるリシェは、必死に嗚咽を噛み殺して「あはは……」と笑う。
そんな彼女のつむじを見下ろし、目を細めた俺はゆっくりと上半身を前屈みに傾けた。
「──リシェ」
「……っ、何、」
俺の呼び掛けにリシェが応えた瞬間、俺は彼女の顎を掴み、顔を
真横に伸びた俺達の影は、程なくして静かに重なり合った。
──ただし、触れ合う寸前だった二人の唇に俺が自らの指を挟み込んだ事で、直接的な口付けは遮ってしまったわけだけど。
「……、イドリス……?」
「“はじめて”は、もう少し後に取っとけよ」
「……なん、で……?」
「俺みたいな悪人なんかより、もっとファーストキスあげるのに相応しい男はたくさん居るだろ」
アンタの世界は俺よりも広いからな、と至近距離で言い聞かせ、柔く笑えばリシェの表情が歪む。
ぐらりと揺らいだ、紫と黒のオッドアイ。長い前髪に隠された黒い瞳の煌めきが、俺には到底、罪の色とは思えない。
「……私は、イドリスに貰って欲しかった」
拗ねたようにこぼした彼女は、澄んだ涙を頬に滑らせる。「それはまた今度な」と額を合わせれば、鼻を啜り上げるリシェが上目遣いに俺を見つめた。
「……また、今度も……会える……?」
「お互い生きてりゃ会えるんじゃねーの」
「会いにきていい……?」
「来てくれんの?」
「行くよ。走っていく」
「海の上を? バカだなァ〜」
「うっ、ば、バカって言わなっ──」
「リシェ、」
喚く声を遮り、彼女の名前を呼び掛けながら腕の中に閉じ込める。多少怪我が痛んだが、それも無視して強く抱き締めた。
「幸せになれよ」
ただ、一言。
願いを込めて、それだけを告げる。
リシェは暫く黙っていたが、やがて俺の胸に頬を擦り寄せて小さく頷いた。
「……イドリス、ちゃんと、ご飯食べてね」
「おー」
「風邪ひかないようにね。怪我もしちゃダメだよ」
「うん」
「死んじゃダメだよ」
「わーってるよ」
「……また、ね」
別れを告げて、温もりが離れて。
俺の手を離したリシェは、今度こそ背を向けて俺の元から去っていく。
またね、と言った彼女の言葉に、俺は頷かなかった。『また』なんてない事ぐらい、分かっている。
何度も何度も振り返り、手を振りながら遠くなっていくリシェの姿が見えなくなるまで、俺はその背中を目の奥に焼き付けていた。
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