* 幕間〈2〉俺の見てる夢

幕間 - きっと誰にも罪はない

 * * *



 夢を見た。前世の俺の夢。


 その日もまたいつものように、俺は学校帰りに妹のいる病室へと足を運んでいた。白い廊下を進み、突き当たりの扉を開ける。すると珍しく璃世が起きていて、俺を見ると嬉しそうに微笑んだ。


 数ヶ月の間に、随分と痩せてしまった彼女。治療のせいで髪も抜け落ち、いつも帽子をかぶっている。

 医者からも、もう長くないかもしれないと告げられていた。


 あの時、妹は十五歳。

 春がきたら中学を卒業する歳だ。



『……私、高校にはいけないのかなあ』



 窓の外を見つめ、彼女が小さく呟く。俺が何の声もかけられずにいると、不意に、窓辺にはいつもの野良猫がやって来た。



『ニャー』


『あ、シロちゃん!』


『……名前付けたのかよ』


『うん、真っ白だからシロちゃん。アイちゃんが来るとね、この子いつもここに来てくれるのよ。きっとアイちゃんが好きなのね』


『俺が持ってる食い物が目当てなだけだろ』



 そう言いながら、俺はタッパーに入れた試作のクッキーやマフィンを取り出す。璃世が喜ぶかと思って懲りずに作ってくる菓子類だが、病院食ですらまともに喉を通らない彼女が手をつける事はほとんどなかった。


 しかしその匂いにつられてやって来るのが、この猫。



『……こいつ、多分色んなとこで飯ねだってんぞ。太り過ぎだろ、腹パンパンじゃん』


『ふふ、かわいいね、シロちゃん』


『可愛いかァ?』



 丸々と太った猫を凝視すれば、猫は慣れた様子で目を細めて毛繕いをする。警戒心などまるでない。


 病院のすぐ近くには、元々デパートだった建物がそのまま残っている廃ビルがあった。

 長らく放置されているせいで野良猫が住み着いており、老人が餌を与えている光景をよく見る。こいつもおそらくそこから来た猫なのだろう。



『人慣れし過ぎだろ……餌やり爺さんに飼い慣らされてんな』


『ねえねえアイちゃん、私ね、生まれ変わったら猫になりたいなあ』


『はあ? 何で?』


『だって楽しそうでしょ、色んなところに遊びに行けるのよ。ふふっ、決めた、来世は猫になる! それでねえ、アイちゃんとカイちゃんのところに遊びに行くの!』



 嬉しそうに破顔する璃世が、細い手を伸ばして俺の手を握る。華奢なその手のぬくもりを感じながら、俺は切なさを噛み殺して笑った。



『……そっか。じゃあ、猫になったら真っ先に俺に会いに来いよ。すぐ抱き締めて甘やかしてやるから』


『うん、走って会いに行くよ! 猫ならたくさん走れるもんねえ』


『約束な』



 微笑み、細い小指を絡め取る。しかしその瞬間、病室の扉が勢いよく開いて何かが窓に投げつけられた。


 バァンッ! と窓にぶつかった何かが弾けた瞬間に猫は飛び上がり、塀を越えて逃げていく。



『──逢人!! お前何してんだ!!』



 直後、響き渡った怒号と共に俺は胸ぐらを掴み上げられた。そのまま豪快に頬を殴られ、ねばついた床にどしゃりと体が倒れる。

 手のひらには米粒が付着し、どうやら先ほど投げつけられたのは握り飯だったらしいと理解した。


 鼓膜を揺らす璃世の悲鳴で俺は我に返り、わけも分からぬまま見上げた先には、憤怒の表情を浮かべた実の兄──海人かいとが立っていて。また胸ぐらを掴まれ、頬を殴られる。



『アイちゃん!!』


『いっ……て……!』


『逢人、お前正気か!? 何で病室に猫なんか入れてる!! 璃世の体に何かあったらどうするんだ!?』


『か、カイちゃん、違うの! 私が無理言って……』


『お前は黙ってろ!!』



 海人は璃世に怒鳴り、再び俺を睨む。血の味がする唾を嚥下し、俺は黙ったまま彼を睨み返した。



『なあ、逢人。ここ最近、璃世の体調が優れないのはお前のせいなんじゃないのか。何度かあの猫を部屋に入れてたんだろ』


『……』


『何も言わないって事は肯定するんだな? お前はいつもそうだもんなァ、図星の時はだんまりだ! これでもし璃世が死んだら、あの汚い野良猫とお前のせいだぞ逢人!!』


『や、やめてよカイちゃっ……ごほっ、ごほ!』



 璃世はとうとう泣き始め、咳き込みながら蹲る。それでも彼女は必死に顔を上げ、悲痛に表情を歪めた。



『違う……っ、違うの、アイちゃんは悪くないの……っ! 私が、私がこんな体なのが悪いんだよ……! ごめんなさい……私が、ちゃんと元気な体だったら……二人とも、喧嘩しなくてよかったのに……』



 泣いて謝る璃世を見つめ、俺は奥歯を軋ませる。


 ──違う。璃世は何も悪くない。いや、むしろ誰も悪くないんだ。


 俺は璃世が喜ぶ顔が見たくて、猫が近寄って来ても止めなかった。

 海人は璃世の体が心配で、猫がいる事を容認した俺を殴って糾弾した。


 俺も、海人も、璃世も──本当は誰も悪くない。

 きっと誰にも罪はない。


 俺はそう考えていた。けれど、海人は違う。



『……璃世は悪くない。悪いのは、あの汚い野良猫だ。そしてあの猫の侵入を許した、逢人……お前だ』


『……』


『璃世が病気なのも、父さんと母さんが璃世を丈夫に産んでやらなかったのが悪い。病気がまだ治らないのだって、ここの病院の医者が悪い。……なあ、そうだろ、璃世。お前は何も悪くないんだ、だから泣くな』



 海人は俺の胸ぐらから手を離し、璃世に近付くと、震える彼女の頬を優しく撫でる。


 “彼女以外の全てが悪い”──海人は、そういう考えの男だった。


 彼は真面目で博識だったが、璃世の事になると途端に視野が狭くなってしまうところがある。彼女以外の全てを“悪”と考え、璃世が苦しむ原因となる全ての事を憎んでいた。


 海人は泣きじゃくる璃世を抱き締め、優しく頭を撫でながら、彼女に告げる。



『璃世、もうしばらくの辛抱だ。大丈夫、俺が全部どうにかしてやる』


『……カイ、ちゃん……』


『俺が医者になって、必ず、』



 ──お前の病気を、治してみせるよ。



 海人はそう言って、いつまでも、璃世の華奢な体を抱き締め続けていた。



 ──だが、それから一週間後。


 俺達の知らぬ間に様態が急変した彼女は、昏睡状態に陥って手術室に運び込まれた。そのまま緊急手術が執り行われ、何時間にも及ぶ、長い長い施術の末に──


 俺の妹、相川 璃世は、十五歳という若さで──この世から、去っていったのだった。



 * * *


〈幕間 2 - 俺の見てる夢 …… 完〉

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