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 頬の感覚が薄れていくような風を追いかけながら、輪郭の定まらない木立を駆けた。蛇行して伸びる小道を辿るのももどかしく、私は手探りで木の合間を抜けていく。時折飛び出た木の根に足を奪われながらも、髪をささやかに震わす太鼓の響きを頼りに進んで行った。

 敷き詰めた夜寒を差し通した穴に揺らめく火を見て、私は口から浮かぶ白い息を抑え込む。一杯に吸い込んだ空気は角の鋭い石のように私の肺の中を転がり回った。

 太鼓の合間に聞こえる笛の音は響くたび私の肝を握り締める。速まる足とは裏腹に視線は下がっていき、鳥居をくぐる頃には交互に出る爪先を見ていた。

 遠巻きにそれが見えるほどに近づいても、私には顔を上げる勇気がなかった。そこにあるのが私の求めているものではないかもしれないというぞっとするような考えが首をもたげていた。もし、そこで舞うのが特異でもなんでもない麗らかなだけの少女であったのなら。

 そして私は拙劣にも恐怖の対象に救いの手を求めてしまった。自分の望みが叶わぬ可能性から逃れるためにその可能性を直視したのだ。

 華天狗。天を突く鼻から純朴な躰をぶら下げた妖。

 その面の向かいに、赤黒く色褪せた覆いの向こうに、彼女はいた。

 私をまっていた。

 緩やかに、厳かに、そして恭しく。

 なめらかに、華やかに、そして厭らしく。

 命切れた枯葉のように手のひらを乱れ散らし、陸に引きずりだされた大魚のように太股を揺する。

 その舞は神に向けたものでも、豊穣に向けたものでも、ましてや何も感じることのない目に向けられたものでもない。

 あれは、私に向けた舞だ。私だけの為のものだ。

 彼女は待っている。あの子は待っている。私が辿り着くのを。その面の下で耳を澄ませて、目を凝らして。私の声を、私の姿を、求めている。

 彼女は私を見つけられただろうか。彼女を囲む能面の中から。たった一人の私を。獣の頭をさらけ出した私を。

 わからない。あの面があったらあの子の感情がわからない。

 あの子の面を暴かなければ。

 あの子の元に行かなければ。

 私は駆け出した。彼女が帰りの途に足を乗せたのと同時に。境内の人のいない小路を駆けて。一枚の葉も残していない桜の樹の下へ。

 私が歩み寄ると、華天狗は歩みを止めた。私がもう一歩、近づくのを許した。

「あなたは、誰なの」

 彼女は何も返さない。華天狗は話すことを許されてはいない。

 それは掟。古くからの習わし。

「あなたは、葉子?」

 私の一番の友達で、甘いお菓子が大好き。私と初めて海を見に行って、お土産にお揃いのストラップを買った。私の知る中で一番気の良い女の子。

 彼女は、首を振った。

「じゃあ、遥ちゃん?」

 私の家の近所に住んでいて、小さい頃から妹のように可愛がっていた。調理実習で作ったという小さなカップケーキを私に届けてくれた。とてもおしゃれな女の子。

 彼女は、首を振った。

「じゃあ、恵実さん?」

 私の勉強をよく見てくれる、二つ年上の先輩。この町で一番景色の良い場所を教えてくれた。写真を撮るのが誰より上手な女の子。

 彼女は、首を振った。

「じゃあ、あなたは……じゃあ……」

 私は、彼女を突き飛ばした。

 地面に広がった赤い髪の上に彼女は身体を横たえた。私は馬乗りになり、その胸に手を押し付けた。沈み込むように柔らかい肌を押し破るように深く。

 この面を剥がせば、この子が誰だかわかるのだ。この邪魔な覆いを取り除けば、この子が手に入るのだ。

 彼女の鼓動が早鐘のように打つのが手のひらに伝わってきていた。彼女の胸が大きく上下する度に、私の身体がほんの少し浮いた。私の心臓はどんどんと膨らみ、肋骨の隙間からはみ出し、肺を圧し潰していった。

 私は、華天狗の面に指をかけた。彼女は抵抗しなかった。

 そしてその指に力を込め、その面をたくし上げていく。

 彼女は、私は、けれどそれだけだった。

 力を込めた私の手は、あと僅かでその下をさらけ出す面は、それ以上動かなかった。

 私は、その面を動かせなかった。私の大きくなりすぎた心臓は、石となった血液を全身へ送り込み、持ち上げたままの腕を侵した。私にはどうしたってその下を見ることは叶わなかったのだ。頭の中に澄み渡る興奮のような恐怖は、私にその先を許さなかった。

 私は彼女を組み伏せ、彼女は私の下で息を荒げている。長い間、そうしていたような気がする。

 うっすらと、華天狗の面が濁っていく。私の陰に納まりつつある彼女は呼吸を落ち着け初め、私は背後に昇るそれに体を解かされていった。

 私が彼女から降り腰を落とすと、華天狗は目の前でその躰をゆったりともたげた。

 それから何もなかったかのように、彼女はまた歩き始めた。華天狗は、また一年身を潜め、誰の手も届かぬ妖に戻る。私は打ちひしがれた体をままに、それを認めた。

 宵闇は立ち処を譲り渡し、白んでいた空はやがて色彩を改めていく。

 彼女は夜に舞い戻ろうとしていた足を止め、ふと振り返った。その赤き面の無機質で荒い質感で陰を顕わにし。白く柔らかで透き通る肌で光を吸い込み。

 そしてつい、と手のひらを差し出し、手招いた。

 私はそれに導かれていく。


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華天狗 十手 @Jitte_77

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