陰鬱な雨に温もりを

 7月の初め、雨が降っている。

 いや、降り始めてしまったという方が正しいだろう。

 駅から出てからやっと気づいた土砂降りの雨。降る予報はあったが帰る時間より1時間遅いということらしいので、荷物になる傘は置いてきてしまっている。

 降り始めたらしばらくは止むことなく、濡れて帰るかどこか喫茶店にでも入って暇つぶしするしかない。

 こんなことになるのであれば素直に傘を持っていき、絶対後悔しないようにすれば良かった。

 だからといって、ここでうだうだしていても家でやることは沢山あるためここで時間を潰している場合ではない。

 覚悟を決めて、鞄を頭に乗せて走ろうとする前に誰かに肩を掴まれた。


「これ良ければ使ってください」


 いつも一緒に帰ることは無かった香織がいて驚いたが、それよりも目の前に差し出された深緑色の折りたたみ傘に目を奪われた。


「香織は」

「私はもう持っていますので」

「……さすが」

「私の心配は結構です。使いますか、使いませんか?」

「ありがたくつかわせていただきますので。お願い致します」

「早口で言わなくても貸しますから」


 差し出された深緑色の折りたたみ傘を手に取り、マジックテープの留め具を外して展開してみる。

 折りたたみ傘というのと香織のものだから少し小さめで透夜が使うと肩が濡れてしまいそうだったが、鞄が濡れず増してや被害を最小限に抑えられるならこの際、願ったり叶ったりなので気にしない。


「本当に助かった。ありがとう」

「今まで助けられているので少しのお返しです。それとこのまま一緒に帰りませんか?」

「わざわざ別れる必要は無いからな。今日は助かっているから香織の言う通りになります」

「では行きますか」

「了解しました」

「そのやり方すごい嫌なのでいつも通りにしてください」

「ごめんふざけすぎた」


 冷たく激しい雨の中、笑い声は二人の間にしか響かない。けれど、濡れる度に感じる冷たさは紛らわせた。

 マンションの前に着いてしっかりと水分を飛ばしてから、香織に返した。


 部屋のドアノブに手をかける前に声が聞こえる。


「この後、透夜の部屋に行ってもいいですか?」

「いいけど」

「あ、あと何か温かい飲み物を作ろうかと思っているのですが」

「ありがたいけどそこまでは大丈夫かな。インスタントでなんとかなる」

「むむっ……文明の利器に負けた気分」

「今度する時にお願い。今この時のためだけには流石に借りにしては重いよ」

「今度ですね、覚えておきます」


 先に香織が部屋に入っていったのを見てから透夜も続いて自分の部屋に入った。


 ■■■


「温かいな……」

「悔しいですが中々いい味しています」


 ずずっと即席のコーンスープをマグカップで飲む。

 雨で冷えていた体が芯から暖まる感覚で力が抜けて蕩けてしまいそうだと思った。

 濡れた制服はさっさと洗濯機に入れて、長袖長ズボンに履き替え暖かくしているから眠くなりそうで思わず欠伸が出てきた。


「あの、透夜、パーカー返します」

「そういえば洗うとか言ってたな。ありがとう」

「はい、それでその匂いは大丈夫ですか?」


 着てみても特に違和感はなく、試しに袖に鼻を当てて嗅いでみるが異臭はするどころかフローラルのいい香りがする。


「大丈夫だ。むしろいい匂いがする」

「……それもしかしたら私のかもしれません」

「流石に冗談だよな」

「私の洗剤は無臭ですのでそれ以外は考えられないかと」


 急いでパーカーを脱いで洗濯機に入れようとしたら、香織に洗濯機の目の前で立ち塞がれた。


「さっきはいい匂いと言っていたのに洗うんですか」

「流石に他の人の匂いがするのはまずいだろ!」

「家で着る分には問題ありません」

「ある、あります、おおありです。俺が気になって仕方ない。ただでさえ最近は香織のことを意識しすぎると頭がおかしくなりそうだから」

「意識するのはいけないことではないと思いますけど」

「それ普通本人が言うか」

「いいます。許可は本人が言わないと許可にはなりませんので」


 それはそうなんだが、こう胸がむずむずするような痒くなる感覚が堪らなく嫌なのだ。

 自分自身で抑えられなくなるような衝動に近いものが頭の中を渦巻いてくる。これが怖くて仕方ない。

 香織にはそういうものがないのかと疑問に思う。


「香織のことを意識しすぎると自分を抑えられなくなって、どうにかしてしまいそうなんだよ……お願いだ、洗わせてくれ」

「それは羞恥からくるものですか?」

「恥ずかしいのはあるけど違うな」

「ここまで言ってわからないのですか」


 立ち塞がっていたはずの香織が透夜にぽかぽかと叩いてくる。

 戸惑いを隠せない透夜はされるがままに叩かれていつまでも叩きそうだったので両手を掴んだ。


「俺はなんで叩かれてるんだ」

「ちゃんと自分の気持ちに気づかないからです」

「香織にはわかるのか。これが。それなら」

「教えません」

「どうして?」

「人に教えられるより自分で気づいた方が価値があると思うからです」

「難しい……全然わからない」

「透夜のばか」


 また叩こうと腕が動き始めたので、さっと躱してまだマグカップに入っているコーンスープを飲み干した。


「洗わせてくれないとなるとこれ気にして着れないんだが……」

「着ないのであれば私が貰いますよ?」

「なるほど、そういうことか。最初からそのつもりで」

「やっと気づいたんですか」

「ああ、ごめん。ほらそれならあげる」


 折り畳んだパーカーを香織に手渡すが、香織は首を傾げている。


「えっと」

「これが欲しかったんじゃないのか」

「貰えるのは嬉しいですが、その、そうではなく」

「なく……?」

「私のことではなく自分のことに気づいてください」


 不服そうな香織の顔に透夜は首を傾げることしか出来ず、今度はパーカーの袖でぱしぱしと叩かれた。

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