母の訪問
眩しい。
意識だけ引き戻され瞼が開かない。
目元を擦って眠気を覚ますと時刻は8時くらいだった。
ソファから起き上がり背伸びをする。若干体が痛いのでやはりソファで寝るのには無理があったようだ。
音を出さないようにゆっくり香織のいる部屋に入る。小さく寝息だけが響く静かな空間だった。まだ起きる気配はなさそうで、寝返りをうっている。
今のうちに私服を取って部屋を出てから着替える。
朝ごはんを軽く済ませて、体をほぐすためのストレッチをやって朝のルーティンは終わった。
今日は特にやることがないはずなので、テレビを眺めているとスマホが振動する。
何かと思い電源を入れると母からの電話だった。
「どうかしたかこんな時間に」
『時間早まって今から行く。大体時刻は11時くらいだからよろしく』
「こっち来てどうするの」
『寝ぼけてるのかな? 今日はお話する日だよ、スマホのメッセージにも書いてある』
そうだったか覚えていない透夜は画面を切りかえメッセージを開くとそこにはしっかりとお話する約束が書かれていた。追加注文して楽しみにしている自分が居るのを思い出した。
「え、あーうん大丈夫。きっと」
『すごい曖昧で不安になるけどとりあえずそっちに行くから』
「了解」
曖昧なってしまうのは香織がまだ透夜の部屋で眠っているからだ。
病み上がりといっても過言ではない状態の香織だから、このまま眠っていても構わない。お話しする場所と香織が寝ている場所は扉を境に分けられているので、じっとしてもらえていれば発覚されることはまずない。
だからといって油断することはできない。香織にこのことは一切伝えていない、寝起きで部屋を出てくることだって考えられる。
「母さんには悪いけどお昼ごろにやってくるということは多分俺の料理を食べつつ話したかったんだろうけど、これがばれたらなんていわれるか怖くて無理だ」
近くにある洋食屋に場所を変更しようとメッセージを打ち込む。
あとは誤魔化すための理由なのだが、食材は……こういう時に限って余裕にある。
「俺が面倒くさいからでいいか。……怒られそう」
ひとり暮らしの術を教えてくれた人に対して面倒だからで誤魔化すのは少々痛いものがあるが、それしか理由が思いつかない。
■■■
時刻は11時。
香織は未だに部屋から出てくる様子はなく、約束の時間になってしまった。
そろそろかと思い、立ち上がると丁度呼び鈴が鳴り響いた。
玄関の鍵を開けようと手を伸ばすが、後ろから足音が耳に入ってくる。
まさかと玄関の鍵を開ける前に部屋の方を確認すると、目を擦りながら欠伸をして扉を開けている香織が居た。
「おはようございます……」
香織が力のない声で透夜を上手く捉えられていないまま、とっくに過ぎた朝の挨拶をした。
「おはよう、寝起きで悪いんだが俺はここを出る。だからもし帰るならこれスペアキーだから鍵を閉めてもらえると助かるんだ。頼めるか?」
「もうどっか行くのですか~。わたしもいきまふ」
「お願いだから香織、意識をはっきりさせてくれ。らしくないこと言ってて頭おかしくなる。とりあえずこれだけは香織が付いてくるのはまずいというか」
「まずいってなんですか。ひどいです」
ふにゃふにゃな声で応えて、透夜の胸をぽこぽこと緩い握りこぶしで叩かれた。
全然痛くはないが、胸には響いてくる。
もしかして香織は朝に弱いタイプなのかもしれない。そうだとしても、ここまで人が変わるほど弱い人がいるのだろうか。落ち着いて寄り添うように優しい香織の姿はなく、今はどちらかというと駄々をこねる子供みたいだった。
「一時間ちょっとで戻ってくるからその間に色々と済ませてくれ」
透夜の胸を叩いてくる香織を宥めるために頭を撫でる。
撫でられて不服ながらも落ち着いた香織が叩くのをやめる。ようやく目が覚めたのか慌てて透夜から距離をとった。
「目が覚めたか?」
「あ、あわわ……」
やっと目が覚めてくれたようで安心するが、そんなことを無視するように鍵がガチャりと開けられる。
まずい。
香織から踵を返してドアに手を伸ばしたが、ドアは奥に持っていかれてしまった。
「透夜、遅い! なにをして…… あら、どなた?」
「ああ……終わった」
計画は無惨にも崩れ去り、透夜も膝から崩れ落ちた。
「むっ、まだパジャマでいらっしゃって、透夜のパーカーを着ている。透夜、あなたもしかして友達はいないけどそういう……」
「違う、断じて違う!」
「そうじゃないならこの状態はどういうことに」
「香織は隣人で友達だよ」
「お泊まり会で透夜部屋にいるということかしら?」
「まだ彼女疑いしてるよね。香織は体調が悪かったからこっちで寝かせてたんだよ。いつでも対応出来るようにしようと」
「すると、上着は冷やさないようにするため。優しい透夜のことだから有り得るのかも。ちょっと早とちりしちゃったみたいね、ごめんね?」
はぁとため息が出る。
なんとか誤解されることはなく、事なきを得られたと思う。
香織が後ろから透夜の袖をつまみ、くいくいと注意を引いてくる。
「あの、この方は」
「本当に報告無しでごめん。俺の母親だ」
「お母様、ですか……!」
「お母様とか堅苦しいのは要らないよ。私は美紀、雨宮美紀だから……美紀か、それが嫌ならさん付けで問題ないよ」
「美紀さんでお願いします」
「うん、よろしくね」
恐る恐る震えながらお辞儀する香織を美紀は穏やかに見届けた。
昔から初対面の相手でも気難しくせず、気負わせないよう軽い付き合いから始めるのが美紀のやり方だった。
「そういえば母さん聞きそびれたんだけど、今日早く来たのはもしかして」
「透夜の料理を抜き打ちチェック! というわけじゃなくて、早く行けそうだったからそれだけ」
「なんだ……それだけか」
「それに今日は私が作ろうかと思ってたくらいよ。ちゃんと食材はある?」
「一応まだあるにはある」
「それなら大丈夫ね、香織ちゃんでいい?」
「え、はい。大丈夫です」
「香織ちゃんも食べていく? その様子だとまだ寝起きみたいだし」
「え、えと」
透夜は見られている気がしたので、香織の方を見ると、どうすればいいかと目で訴えていた。
「俺は香織に任せる。うちの親がいるせいで居心地が悪いとかそういう嫌な気持ちがあるなら部屋に戻ったらいい」
「そういう訳ではなくて、美紀さんの手料理は気になりますが、食欲がなくて」
「病み上がりだから仕方ないよ。そうだな……母さんポトフ作れる?」
「うーん、うん。作れる。あと卵焼きも作れる」
「自動追加注文ありがとう」
「母親なので透夜のことはわかっちゃうからね〜」
「ちょっと待ってて」とキッチンから鍋と卵焼き器を取り出し、鍋に水を入れ火にかける。
これから大体一時間弱かかるだろう。
透夜は香織に向き直る。
「勝手にメニュー決めちゃったけど良かった?」
「あ、はい。大丈夫です。でも、透夜がスープものを選ぶのが少し意外でした」
「シンプルな味の方がどういう味の付け方をしているかわかりやすいし、食べられないなら尚更スープの方がまだ大丈夫かなと」
「そこまで気を回せるのはやっぱり透夜はすごいです」
「真っ直ぐに褒めるのやめろ……これくらい普通だ」
透夜は香織から目を逸らして着替えてこいと手を振る。
そしてそのまま、返してもらうのを忘れてしまったせいで、透夜のパーカーはお持ち帰りされてしまった。
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