眠れない夜

 夕食を食べ終わり、一息つく。

 時刻はもう21時を過ぎているので、急いで帰るしたくをして香織の実家を後にした。

 生暖かい夜風吹く道の中、足を踏み出すが後ろから香織が付いてくる気配がないので振り返ると香織が実家に向けて、深くお辞儀していた。

 少なからず、いいことばかりが起きた場所ではない。それでも、香織は感謝をしている。紆余曲折あったもののこの家で香織が育ってきた事実は変わらない。

 思い出を置いていくのは今の香織にとって充分に辛いはずだ。


「お別れは出来たか?」

「本当はあまり出来てません。でも、これから頑張ってみます」

「そうか、応援してるよ」

「それに透夜から新しい思い出をもらいました。今はそれで充分です」

「……そう」


 透夜でも、香織に何かすることができている。それは嬉しいが、面と向かっていわれると羞恥心が勝ってしまい、目を逸らしてしまう。


「顔が赤いですよ?」

「それは香織だって……あれ、顔色良くなってる」


 さっきまで赤く染まっていた頬はいつも見る白く艶やかな肌色に戻っていた。


「熱自体は寝たあと大丈夫だったのですが、体調が安定してなかったので少し心配でした。これなら明日にはもう治ってそうですね」

「健康な人の自然治癒力おそるべし」

「誉め言葉として受け取ります」


 目を閉じ、自慢するように香織が微笑んだ。


 暗い夜道を2人が制服姿で歩いている。

 客観的に見て補導されそうだと思いつつ、マンションへ向かう。

 空を見上げれば、綺麗な星々が光り輝いていた。


「綺麗だな」

「そうですね、うっとりというのですか。見惚れてしまいそうです」

「見惚れるなら帰ってからな、今の俺ら知らない人から見たら心配されると思うし、下手したら補導も有り得る」

「それは遠慮したいです。早く帰りましょう」


 隣で歩いていた香織が早歩きに変わり透夜を追い抜く。

 透夜は置いていかれないように香織の背中を追いかけていった。


 マンションに着き、それぞれの部屋の前まで何事もなく帰宅できた。


「それじゃあまた明日」

「明日は土曜日ですので、違いますよ」

「そういえばそうか。えっとまた来週」


 にっこりと笑って香織は自分の部屋へ入っていった。


 もう心配なさそうだな。


 今日は家の掃除どころか風呂掃除さえしていないので、帰宅して早々に電気は点けず軽くシャワーを浴びて寝間着に着替える。

 香織と一緒に寝たせいか、眠気は全然やってくることなく意識がはっきりしている。それならばもう少し夜空が見たいと思い、ベランダにあがる。

 綺麗な三日月の月光が透夜を照らしている。

 夜風は変わらず生暖かい。けれど、眠気を誘うようにふわっと頬撫でて通り過ぎてくる。


「奇遇ですね。透夜も眠れないんですか」


 声する方には別の寝間着を着ていた香織が居た。


「なんだかんだそこそこな時間寝たからかもしれない。そういう香織は眠れなくても横にならないとだろ」

「それは、そうですね。心配ありがとうございます。でも、ベランダに出ればもしかしたらまだ透夜と話せるかもしれないと思って」

「そんなにならこっちに来るか?」

「いいんですか!」


 食い気味で近所迷惑になりそうな喜びの声が夜空に響いた。


「静かに。苦情が来るって」

「ご、ごめんなさい。嬉しくてつい」


 口の前に指を立てて小声で注意した。

 それにつられて香織も小声で反省していた。


 ベランダから戻り、鍵を開ける。

 コンコンとノックが聞こえたので「開けてあるよ」と声をかける。

 扉がゆっくりと開き、恐る恐る香織が透夜の部屋に入った。


「なんでそう、忍ぶように」

「音を立てたら近所迷惑だと思ったので……」

「もう遅いよ。それに叫びは迷惑でも、扉の開閉音が迷惑ならマンションには住まない」


 香織本人は真面目に配慮しているつもりだろうが、その姿がなぜか面白くて笑った。夜中のせいで笑いのツボが浅くなっているのかもしれない。

 消していた部屋の電気を点けて、ソファに座る。

 最初見た時は暗くてよく見えていなかったが、よく見ると香織は若葉色の寝間着を着ていた。


「着るものが違うだけでここまで雰囲気が違うものなのか」

「前とどっちがいいですか?」

「どっちもいい、けど。多分いまの方がいい」

「ありがとうございます」


 口元を右手で隠して香織は透夜の素直な感想にお礼を言った。


「透夜、この前着ていたパーカーはありますか?」

「なくはないけど。寒いのか」

「いえ、いつも眠る時は厚着をして熟睡しようとしているのですが、持ってくるのを忘れてしまって……その、あの大きさがちょうどよかったのでまた貸してもらえたら」

「そういうことか、はいどうぞ」


 押し入れに仕舞ってあったパーカーを香織に手渡す。

 受け取った香織はパーカーに腕を通すが、やっぱり腕の丈が合っていない。これで香織にとってはちょうどいいというのだからわからないが、眠る時に服に余裕がある方が寝やすいのだろう。


「透夜に包まれているみたいで安心します」


 香織がソファの上で縮こまり口元を両手で隠しながら喋った。

 言われている本人の透夜は恥ずかしくてたまらなかった。安心してくれるのは嬉しいが、そういうのは本人が居ないときにこっそりいってもらえた方が心臓に優しい。

 香織に背を向けた透夜は心情がバレないようにそのままキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。


「ホットミルク作るけど香織も飲むか?」

「飲みます。眠るには体の芯を温めると良いらしいですね」

「そう思って用意しようかと」

「ありがとうございます」


 本当は全然違う。赤くなりそうだった顔を電子レンジを観察することで何とか見られないようにしようとしたかっただけだ。

 引き出しからマグカップをふたつ取り出し、牛乳を注ぐ。電子レンジに入れて「牛乳」のボタンを押し開始する。適切な時間を勝手にやってくれるということに今でも少し驚いてしまう。


 暫く電子レンジとにらめっこをして気持ちを落ち着かせる。

 電子音が鳴ったと同時に蓋を開けてマグカップを取り出す。香織の目の前のテーブルにマグカップを置き、透夜はソファに座らず香織から見てテーブルの左側の方にマグカップを置いてそこに座った。

「透夜はソファに座らないのですか」と聞かれたが、そんなこと出来るはずがなく、無視してホットミルクを飲み干す。

 火傷しそうなくらい体の内側からホットミルクの熱が広がってくる。

 適切な時間とはいえ出来立てのものを一気に飲めば、熱くなるのはわかっていた。赤くなるのを抑えようとしたのに焦って余計に赤くしてしまった。


「そんなに一気に飲んだら……大丈夫ですか」

「熱いのには慣れてるからだいじょ、ぶ。うん」

「透夜が大丈夫ならいいのですが……。私も少し飲みます」


 香織がパーカーの袖でマグカップから伝わる熱を防ぎふぅふぅと冷ましながらちょっとずつ飲む。

 一口飲んでは口を離し、また一口飲んでは離すを繰り返す。

 小動物がちびちびと飲んでいるようで愛おしく思った。


「なんでそんなに微笑んでいるのですか」

「いや、なんというか必死に飲んでいるみたいでかわいいなと」

「べ、別に猫舌じゃありません!」

「そういう事じゃないんだけどね。一生懸命なところがいい」

「……よくわかりません」


 まだ半分くらい残っているマグカップをテーブルに置き、香織もソファから降りてその場に座る。

 目線が同じ高さになったせいで、目が合いそうになる。透夜は思わず腕で顔を隠してテーブルに伏せた。


「逃げてませんか」

「逃げてない」

「じゃあ顔をこっちに見せてください」

「今は見せたくない。絶対笑われる」

「笑いませんから」


 どうせ笑われると思うが、腕で顔半分を隠し目線を外して香織の方を向く。

 ちら見すると香織の手が透夜の頭まで伸びていた。


「なにしてんだよ」

「自分でもわからないのですが、透夜の顔を見たら撫でたくなったので」

「それは今の俺がかわいいということか? やめてくれ」

「もう少し撫でたかったのですがわかりました」


 パーカーの中から出てきた手が透夜の頭から離れる。

 恥ずかしいことから解放されてほっとするのに物足りない自分がいて、どういうことか困惑した。

 この感情に戸惑っていると視界にぐらっと揺れ倒れそうなものが目に映り、咄嗟に手を伸ばす。手には香織の頭が乗っかり重みを感じる。

 倒れた姿勢を戻そうと体を押し戻すが、また倒れそうになり透夜の肩にぶつかる。

 ホットミルクの効果が出てきたせいか全く起きる様子がない。


「これは起こせないな……」


 もたれかかった香織を持ちあげ透夜のベッドに運び、掛け布団を被せた。


「さて、俺はソファでいいか」


 部屋からタオルケットを持ちだし、電気を消してソファで横になる。

 ベッドより斜めっているせいで少し寝にくいが硬い床で寝るよりはまだいい方だ。

 ホットミルクの効果を信じて透夜は眠ることに集中した。






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