悔いのない別れ
今日はこの家で眠れる最後の日。
熱が出てしまい、本来ならほんの少しだけベッドに居る時間が増えるはずが、思っていた以上に増えてしまった。
嬉しいはずなのに、この部屋に居ると唯一楽しかった思い出がよみがえって名残惜しくなる。
もうこれ以上増えるわけではないけれど、殆どマンションへ移してしまった楽しかった思い出はまだここに残っている。このベッドや机、カーペットにこのクッション。どれもが香織にとってお世話になったものだ。
でも、それを持ち運ぶことはできない。持ち運んでしまえばここにあった香織の場所は完全になくなってしまうからだ。
もう大丈夫だと思っていたのに、瞳は潤んできてしまう。
楽しかった思い出はちゃんと胸の中にある。それでも、いざひとり立ちをすることになると目の前が不安で覆いつくされる。
怖い。
高校で独りになってしまった私はもうこれから1人のまま。
そう思っていたのに透夜が現れて、そっと優しく寄り添ってくれた。
きっと、看病のお返しだと思っていたのにそれを否定し、友達だからと言ってくれた。真っ直ぐと香織という存在を見てくれているのに、頭の中には「どうして」という言葉がへばりつく。
まだ透夜のことを信用しきれていない自分が憎い。
それなのに、目の前に居る人は肯定してくれた。透夜のことは怖くない。
(自分の気持ちに素直になりたい。
私を友達と言ってくれた透夜に恥ずかしくないようにしたい。)
弱ってしまいそうと弱音を吐いても、わがままを言っても、それを受け止めてくれる。こんなことは一度もなくて、このままでいたら本当に弱ってしまいそうだった。
自分が強くないことは香織自身が良く知っている。今まで、ただ耐え続けて、目を逸らしていたものを叩きつけられて、崩壊しそうだった。
そんな香織を透夜は友達だからと助けてくれた。
理由はそこになく、助けたいという想いだけ。
マンションで会った時、目の前のことで一生懸命な人だと思ってはいたが、ここまでとは思わなかった。
純粋に香織に接してくれる。
それなのに香織の方は疑い深く、臆病だ。
また「どうして」と言ってしまいそうになる。
透夜の気持ちに応えたい、そう思った。相手のことを諦めず、もう一度信じてみる。
だからといって、いざ信じてみようと思っても、それがわからない。
何を信じる根拠にすればいいのか、そもそもどうやって透夜のことを信じることに繋がるのか、すごく難しい。
まずは、「どうして」と聞かないことから始めてみよう。
疑うのではなく、透夜がしたいことを尊重する。
もちろんそれがいいことばかり起きるわけではないが、透夜は香織という自分を受け止めてくれた。それならば、次は香織も透夜のことを受け止めてあげたい。
これが信じることに繋がるかなんてわからないけれど、この関係が崩れないよう一生懸命に頑張りたい。
暗闇の景色から上空に輝いているものが見えてくる。
(また、この夢)
そして、香織はその輝いているものに手を伸ばす。
けれど、決して届くことはない。
背伸びをしても、その場で飛んでみても距離は一向に変わらず、時間が経つと香織は足場が沈み、空中に投げ出されるように落下していく。
(やっぱりこれには、届かない)
また諦めてしまう。
そんな自分はもう嫌だと思い、落ちていく体を動かして上へ手を伸ばす。
「手を伸ばす方向を間違えてはいけないよ」
(誰……?)
頭の中に響いてきた声の主を探しても、周りには誰も居ない。
その一言を聞いた途端、落ちていた体は叩きつけられる。
痛くはない、ここは夢だから。
一番底まで落ちてしまったのだろうか、それなのに不思議と居心地は悪くなかった。
手のひらが暖かく感じて、自然と目が開いた。
外は真っ暗で、もう夕食の時間を過ぎただろう。
体を起こそうと力を入れるが、片手に違和感があった。透夜の手が香織の手を具のようにサンドイッチで挟まれている。
締め付けが甘い手はするりと脱出できるほど駄目な出来栄え。けれど、香織にとっては心地よい出来だった。
自分の額に手を当てて、眠ってしまっている透夜の額と比べてみる。
熱は大分落ち着いてきていて、恐らくもう微熱より平熱に近い。
倦怠感があって体が重いくらいで体調は良くなっていた。
「こんなにありがとうございました」
ここまで一生懸命に看病してくれた透夜の頭を撫でた。
人の褒め方はわからないけど、やられて嬉しかったことをする。不思議と透夜の顔は満足そうな顔になっていて、かわいいと思った。
紺色の寝間着は家から持ってきたものだったが、制服で実家に来てしまったため、肝心の私服を忘れてしまった。
仕方なく、汗で濡れたままよりはいいだろうと制服に着替える。
これから夕食をどうするか。
基本家を空けているので、ここに食材は置いていない。腐ってしまうのが殆どだからだ。それならば、今から買い出しにと思ったが「病人は無理しちゃいけないよ」という言葉が脳裏をよぎり、動きを止める。
ここで無理してまで、買い出しをして透夜のことは問題ないだろうが、香織の方には問題がある。透夜が看病してくれたことを無駄にするわけにはいかない。
困り果てた香織は部屋でまだ寝ている透夜を起こして、相談することに決めた。
気持ちよさそうに眠っているところを悪いけれど、香織だけじゃどうすることも出来ず、透夜に頼るしかなかった。
「起きてください、透夜」
体を揺さぶってみてもあまりいい反応はない。
男の子はがたいが良く、思うように揺らせない。それならばと、指で透夜の頬を突いてみる。
むにむにと程よい弾力で跳ね返ってきて、やっている側がとても気持ちいい。
「んん……」と寝言をいっているので、もう一押し。
「起きて」
「んぬぅ……なんで俺の頬を突いているんだ」
「やっと起きました。男の子は頬を突いた方が良さそうですね」
「なんのことだかわからないけどもう頬を突くのやめてくれ」
不服そうな顔をしてはいるが、透夜は止めようとはしない。
少し物足りないが、今は突いている場合じゃないので大人しく指を引いた。
「夕食について助けてください」
寝起きの透夜の顔は頼りなさそうだったが、香織はそれでも相談する。
透夜のことを信じたいから。
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