2人の母

「―――やくん」


 肩がゆさゆさと揺らされている気がする。


「もう――じゅぎょうは終わりまし――」


 授業はもう終わったのか。でも、まだ少し眠い。

 透夜は声が聞こえてくる方からそっぽを向いて腕で耳を塞ぎ、声が聞こえないようにする。


「と、う、や」

「っ〜〜!?」


 透夜の体がはね起きる。耳元で優しく透夜にしか聞こえないくらいの声量でぼそぼそと呼ばれた。

 香織に対してそっぽを向いたことが彼女に対して火をつけてしまったのかもしれない。

 間違って一文字増えて豆腐屋と言って欲しかった。それくらいにこの言われたことの事実から目を逸らしたい。


「おはようございます、よく眠れましたか?」

「よく眠れた、けどあれはずるいだろ」

「素直に私の言うことを聞けば良かっただけです。それより次の授業、数学がもう始まりますよ」


 はぁと呆れたようなため息が透夜の口から漏れる。でも、それと同時に嬉しい、そう思った。

 最初の頃はまるで、こちらの様子を伺うかのようによそよそしかったのが、今では香織から手を出すようになっている。

 クラスではどうせ作ることは無いと思っていた「友達」がここに居る。

 この関係を大切にしたい。


 チャイムが鳴って、6時間目の授業が終わった。幸い、始まる前まで寝ていたおかげか頭がはっきりしていて、計算も楽々出来た。


「あんなに眠っていても寝起きだから出来ないというわけではないんですね」

「数学は得意ってほどじゃないけど今日は割と出来た。直前まで寝たからか、こうすらすらと解けた」

「ちょっと羨ましいです。私はもう結構限界だったので」


 ふわぁと香織が口を抑えて欠伸をする。

 涙目になっていて、透夜とは対照的に眠そうな顔がまたかわいいと思った。


「で、今日はどうする?」

「どうする、とは」

「両親が全然家には居ないと聞いたからもう友達だしまた遊びに来るかなって」

「それは……ごめんなさい」


 意外な答えに透夜は目を見張った。


「俺じゃやっぱり駄目だったか」

「いえ、そうじゃなくて! 今日は両親がといっても恐らく母がお帰りになるそうなので、それで今日は」

「母に会えるのは久しぶりだからか。それなら、仕方ないね。ちゃんと話し合えるといいね」

「……だとしたらどれだけ楽なんでしょうね」


 さっきまでの明るさが消えて暗い顔で、自嘲気味で香織が笑った。欠伸で出た涙が本当に泣いているように見えた。


「大丈夫か……?」

「いつものことなので。何かあれば連絡は入れますから安心してください」

「わかった」


 これ以上踏み込まない方がいいと直感だが、そう感じた。

 母親が関係している以上それはきっと家族問題のはずなので、透夜がとやかく言っても変わる事は無いと思った。強がっているように見える今の香織はどう考えても辛そうだった。


 ■■■


 家に帰宅した透夜は夕飯の支度をしていた。

 近くにあるスーパーで買ってきたもので何を作ろうかと考えた結果、豚肉が余っていたので、生姜焼きにした。

 タレの味の調整さえ間違えなければ、大体美味しくなる生姜焼きは透夜の得意料理の1つである。

 タレを目分量で調整して作り、バットに豚肉と作ったタレを入れてある程度浸したらあとは焼くだけで完成するから迷ったらこれを作るようになっていた。


 今日はまだ少し残っていたキャベツを千切りにして付け合せにする。

 これでメインは完成。

 あとは主食と味噌汁で、終わり。


(今日の味噌汁は、人参と玉ねぎと……)


 エプロンのポケットに入っていたスマホが振動する。


「あー、あとスマホを入れ、ない! 入れないから!」


 危うく水没ならぬ味噌没させる所だった。

 落ち着いてからスマホの画面を見ると母からのメッセージの通知が来ていた。


『透夜~今度そっちに行ってもいい?』


 今度とは……あやふやすぎて、返答に困るのだが。


『俺は大丈夫だけど、いつこっちに来る?』

『今週の土曜日、だね。流石に平日じゃ迷惑になると思うし、ゆっくりお喋りできないし』

『日にちもそうだけど時間は』

『時間は13時頃よ。多分。というかなんで時間なんか気にするの、誰かと約束してる? 本当に大丈夫?』

『大丈夫だって。もしかしたら遊ぶ約束出来るのかもしれないだろ。だからその時間にならないようにと』

『あの透夜が誰かと遊ぶ……ちょっと変わったね、お母さん嬉しい』


 母からの素直な感想で、透夜は少し恥ずかしくなる。味噌汁を作るのに使っていたガスコンロの火を止めて、スマホに集中する。


『俺は変わってない。戻っただけ、かも』

『だとしたら尚更いいよ。無理に変わる必要はないんだもの』


 変わる必要はない、か。


『母さん、俺も少し話したい気分になった。だから、あのいつもの……なんだっけ』

『あー、あそこの煎餅ね。もちろん持って行くつもりだから楽しみにしてて』

『了解』


 母は定期的に透夜の様子を見にやってくるのだが、もうそんな時だったのをすっかり忘れていた。

 1人でやりきるつもりでいた透夜にとって、何故わざわざ見に来るのかわからず、正直やめて欲しいとまで思っていた。聞いてくることは学校のことや生活面のことばかりで、健康診断かよと心の中で突っ込んでいた。

 今は、というと別にそこまで嫌悪するほどでもなかった。むしろ久々に会える母に透夜にも嬉しい気持ちがある。


 母に言われた通り少し変わったのかもしれない。


 こう思えるようになったのはきっと香織のおかげなのだろう。全てを1人でやろうと1人で全てを抱え込もうとしない方がいいという考え方は香織から教わったようなものだったからだ。


 今、きっと香織は母親と対談しているのだろう。それはきっと和やかで暖かいもの……。


 和やか、暖かいもの、そう思いたいのに香織の顔が脳裏をよぎり、透夜は香織の事が心配になって、メッセージを打ち込む。


『無理していませんか?』


 どうしてこの言葉なのかは透夜は送信した後に気づいた。ほぼ無意識でこの言葉を選んでいた。

 でも、確信はないけれど、何処か透夜と同じように1人で抱え込んでいる。そんな気がした。

 だって、そうじゃなきゃあの時、「その方がいい」なんて言葉は出ないはずだから。







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