Chapter 6
私と共に歌いましょう
私は親と呼ぶべき存在を自らの言葉で殺しました。
彼のためにも、使命を果たして見せましょう。必ず。
* * *
レベルBの摩天楼林上層部、ロスト・シティ・タワーの五十二階。夕日の雫で全面赤く染め上がる街区を見下ろしながら、社会技術省長官アリサ・ブルームは前任が残していった高級ウイスキーを煽り、そして同じく前任が残していった重たい木のデスクに吐き出しました。
「バーボンはお口に合いませんか」
ビヨンド・ヒューマン社の営業担当、仮想レア・ジェイは笑いました。
「やっぱりアルコール系
口元を拭いながら、ブルームは仮想ジェイの方に向き直りました。
「それで」ブルームは足を組み、ブロンドの仮想髪をかき上げる仕草をしてみせます。
「
「スクリーン形態はどうしましょう」
「五次元よ」
「承知しました」
すると、二人の間に生まれた仮想五次元球はビッグバンを起こし、二人を包みました。次の瞬間には、ブルームと仮想ジェイの二人は五次元視覚を得ていて、仮想の三次元パシフィカが時間軸に沿って連綿と連なる四次元パシフィカをより高次の五次元から眺めていました。
その変容をいざ目撃しようとしたそのとき、ブルームの〈リュシャン〉が彼女の聴覚に囁きました。ジェイにも聞こえるように。
『〈ユイ〉が悲鳴を上げている』
「何があったんです?」ジェイが訊きました。
『浮動分子が許容限界を超えたわ』
ブルームは直ちに仮想五次元空間から帰投しました。額を押さえ、前任が残した革のチェアの背もたれに自らの体を放り投げます。
「浮動分子とは」
「〈ユイ〉の指示を受けない放浪者たちのことよ」
ジェイの問いにブルームが答えます。
「動的な都市のモジュール配置と交通流の制御を同時に行う都市最適化システム〈ユイ〉。その指示を受けず身勝手に移動する連中――これが〈ロスト・ワン〉と呼ばれる連中ですね」
「ご名答」
「許容限界を超えたのはこれが初めてで?」
「そうよ。〈ロスト・ワン〉は昔からいる者たちだけど、彼らの存在が都市構造と交通流の同時最適化に与える悪影響はほぼ一定だった。だからこそ〈ユイ〉は確率的に彼らがもたらす影響を考慮した上でルート検索をするよう最適化されたアルゴリズムを使っていた」
「〈ロスト・ワン〉が急増したのですか。あのエン・バークのように」
『いいえ』否定したのはブルームの〈リュシャン〉です。〈リュシャン〉はそのまま続けます。
『都市交通局より
淡いグラデーションの下地の上に動的に変化する抽象的な幾何学模様が描かれている――その仮想柄を実服に投影したID照合不可者たちがレベルG、H、Iのモジュール街を歩いていました。彼らはいかなる目的地を〈ユイ〉に登録せず、ただ街を歩くのみでした。彼らは破壊工作も、人への加害行為もしませんでした。ただ、彼らが道路を横切るとき、それを検知したオートモービルが僅かにスピードを緩めたり、ブレーキをかけたりします。その遅延は僅かなものでしたが、彼らは至る所にいました。無数の微小遅延の合計値は〈ユイ〉の許容限界を超える値にまで発散し、幾つもの主要街路でオートモービルの渋滞が発生していたのです。
事態を把握した
「――何者かが裏で糸を引いていると?」
報告を横で聞いていた仮想ジェイがブルームに訊きました。
「そう考えるのが妥当でしょう。狙って創発を引き起こしてる」
「そんなことが可能なのですか」
「部分的には可能よ。三年前、一人の全覚言語研究者が一つの創発子の数学的特徴を明らかにした。彼らにそれに沿った行動を取らせれば、創発現象は狙って引き起こせる」
「つまり、彼らには司令塔がいると?」
「そういうこと」
ブルームは仮想髪をかき上げると、天井に向かって開放声を投げかけました。
「〈リュシャン〉、司令塔を直ちに見つけて」
『承知しました。アリサ』
「ところで――」
ブルームは仮想ジェイの方に向き直りましたが、既に彼の姿はありませんでした。通信が絶たれているようです。
「ジェイ?」
『見つけました。アリサ』
ブルームは顔を上げました。「随分早いのね」
『この部屋にいます』
彼女が目を見開くと同時、彼女の目の前の、何もないはずの空間が歪み始め、そこから人影が現れました。
「聞いたことあるわ。
「そう、あなたが仕組んだことなのね。〈ロスト・ワン〉、エイワ・ベック」
ベックはあっさりと白状しました。
「それで、わざわざ私を密会に誘った理由は何かしら」
ベックはすぐに答えず、長官のデスクの端に置いてあったバーボンの瓶に目を止めました。
「それを頂いても?」
ブルームは仮想髪を揺らしながら、あからさまにため息を吐いてみせます。
「勝手にすれば? あなたがここにいるということは、あなたはいつでも私を制圧できる――違うかしら」
「察しが良くて助かります」
ベックはそっと瓶を拾い上げ、銘柄にまじまじと目をやりました。
「前任はいい趣味のようですね」
「薬品臭いのは勘弁願うわ」
そう言うと、ブルームはグラスを取り出して、デスクを挟んで反対側にいるベック目掛け、デスクの上を滑らせて渡しました。
「アルコール慣れしていない人にとっては、ウイスキーは決して可読率の高いものではないのでね」
グラスを受け取りベックは言います。
「それで、何が目的なのかしら」
「プライバシーの保護ですよ。パブリックエリアとプライベートエリア――このパシフィカはそう二分されたはずなのに、今やプライベートエリアですらプライバシーは十分に保全されていません。〈スマート・アイ〉のログはA級権限で読み取られ、外からは〈
「暴走?」ブルームは鼻で笑いました。
「暴走しているのはあなたたちではなくて?」
「いえ、このままでは〈パシフィカ〉は間違いなく、人間の制御できない領域に突入してしまいます」
ブルームは呆れたように息を吐きました。
「この都市は、この国は――パシフィカは健全な民主主義国家よ。確かに、
「見えることが、存在することの必要十分条件ではありません」
「それってどういう――」
そのとき、再びブルームの〈リュシャン〉が会話を遮り、天井から開放声で言いました。
『
ブルームは直ちにベックを睨みました。
「〈ロスト・ワン〉。あなたたちはASLEをも乗っ取るつもりなのね。やってくれ――」
けれども、彼女は言葉をそこで切りました。
ベックの表情もまた、有害全覚文の発話を予期していないことを語っていたからです。
静寂を切り裂くように、〈リュシャン〉は続けます。
『ID照合不可の推定〈ロスト・ワン〉たちが恐怖に怯えて顔で散会していきます! 何者かが、ASLEに干渉しているようです!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます