私にすべてを委ねなさい

 退院日が決まったことを本人の口から聞いたアルジ・クワッカは心底安心したように顔の筋肉を緩めました。

「ごめんな、アルジ。また、ディファーに一人で行かせてしまった」

「いいの」とクワッカは首を横に振ります。

 実際、彼女は武田洋平と二人で行くよりも、一人の時の方がより天井の二次元惑星に没頭する傾向にありました。しかし、不可解なことに、クワッカは武田と一緒に行きたいと口にしていました。

「それで、最近のディファーはどうなんだ?」

 多くの文脈解析AIたちは武田のこの発言を文脈にそぐわないと判断しましたが、相手はアルジ・クワッカです。事実、目の前にいる人の見舞に来ていることなど抜け落ちてしまったかのように、彼女は嬉々として語り始めました。

「二次元惑星ディファーには今ね、三種の動物が繁栄しているの。モールス文字を発明し、それによってコミュニケーション手段と文明を発達させた社会的知性種族群。フェトゥサの子孫フェット・ララ・クーンがその代表例ね。彼らは幾つもの二次元都市を地表に作ってる。そしてそれらの都市連合のうち、最も中心に近い――つまり、捕食者から離れたところが最上位のカーストとなってる。次に、ナガルドン系の大型捕食種。彼らは跳べないことから、彼らの上位個体は自然に外縁部に寄る。彼らはむしろ数が多いと死にやすくなるから、自然に大型化、長寿化の自然淘汰が働いて、今や一個体がフェット・ララ・クーンの百倍程ね。そして最後に社会寄生種。モールス文字の模倣が楽故に、モールス文字紋を体表に出現させ、社会的知性種族を騙し、捕食する――ジョックレムのような連中ね。彼らのせいで、コミュニケーション種族たちは互いのコミュニケーションを図らなくなり、全体的に鎖国状態に――」

 それからも、しばらくクワッカの話は続きました。しかし、その話が佳境に差し掛かるにつれ、彼女の表情に翳りが差してきます。

「何か気になることがあったのか」

「ディファーのね、閉店が決まったの」

 クワッカが言うに、フェット・ララ・クーンら知性種族による都市連合は、都市外とのコミュニケーション時に複雑な暗号を用意することでジョックレムの危機を防いだ一方で、都市をも破壊する大型捕食動物ナガルドンの侵攻を防ぐことは簡単ではなかっとのことです。そこで彼らはナガルドンの侵攻を食い止めるため、その巨人に提案しました。

「再外縁の都市を給餌都市とします。あなたに定期的に『エサ』を与えます。侵攻をやめてください、って」

 武田はハッと息を飲みました。

「恐ろしいでしょう? 都市連合は中心程位の高いカースト。外縁部は立場の低い者たちのスラムでね。フェット・ララ・クーンたちは皆、より中心に近づけるよう日々努力してる。そして毎日、最もカーストの低い者が都市の外に放り出される。こうして、都市連合は社会的弱者を抱え続ける不利益を排出しつつ、都市の安全を守るようになったの。そして、店の運営母体はこれにNGを出した」

「弱者を切り捨てる社会、か」

 武田はそうぼそりとこぼすと、窓の外、対面のモジュールの壁面にあったカメラ越しに私を見ました。けれど、それが単なる非難の目ではないことに、表情分析AIたちは気づいていました。

 しばらくの間、二人の間に会話はありませんでした。沈黙に耐えかねたのは、珍しくクワッカの方でした。

「ごめんね、ヨウヘイ」

 武田はクワッカに向き直りました。

「どうしたんだ、突然」

「私が馬鹿だった」

「何を言ってるんだ」

「だって、一度ならず、二度も人が死んだ。私は関わるべきじゃなかった」

「典型的な確証バイアスだよ」

 武田は笑うことはしませんでした。真摯な顔つきで、クワッカが陥っている心的状態を的確に分析し、把握した上で優しく声をかけました。

 けれども、クワッカはその声を振りほどくように首を大きく横に振りました。

「そんなことは言われるまでもないの」

「心配いらないよ」武田は尚も口調を崩しません。

「自分が二度関わったら、二度も人が死んだ。パシフィカでは原始犯罪による死は非常に珍しい。それに連続して当たる確率は単純計算で天文学的確率に相当する。どんな訓練を受けたパシフィカンだって、そのバイアスには簡単に――」

!」

 珍しく、クワッカが吠えました。

「僕が? 一体何の話だ」

「バークがカハラを殺したことよ。責任を感じないの?」

「それは――」武田も唇を噛み締めました。

 武田は俯きました。そして、私だけに聞こえるように指向声で言いました。

『これもまた、お前の導きだと言うのか、〈パシフィカ〉』

『そもそも、私は何も導いてなどいません。これはすべて、あなた方の集合体である社会が決めたことです。フェット・ララ・クーンの社会が最外縁都市を給餌都市と決めたようにね。私はあなたたちの集合の代弁者に過ぎない――そのことをお忘れなく』

「僕は」武田は、今度はクワッカに向けて言います。

「なるべくしてなったと思ってる」

「どういうことよ」

「僕や君に未来を変える力があったと思うか?」

「それは……」クワッカは言い淀みました。

「言うなれば、こうなる運命だった――そう僕は思ってる」

「じゃあ、私とあなたが出会って、ここまで共に生きて来たのも、生まれる前から決まっていたとでも言うつもり?」

「カオス系は単に挙動の予測が難しいということだけを意味しているのであって、自由意志の存在を肯定しているものじゃないんだ」

「また自由意志!」

 クワッカの珍しい剣幕に、さすがの武田もびくりと体を震わせました。

「ねえヨウヘイ、どうしてあなたはそこまで自由意志を目の敵にするの」

「変えられない過去を不可抗力だとみなしたくなるのは何も奇特な選択じゃない」

「じゃあ、あなたと私が出会ったのも不可抗力だと言うつもり?」

 武田は何も答えませんでした。

「何なの。ひょっとして、あなたが私に愛してると言ってくれたのは、全覚文に唆されたからとでも言うつもりなの?」

 尚も武田は答えません。

 クワッカは悲痛そうに顔をゆがめ、立ち上がって部屋を後にしようとしました。

 けれども、去り際に彼女は一旦足を止め、ぼそりと声を置いていきました。

「私は純然たる〝パシフィカン〟じゃない。信じたいの。自らの選択も、あなたの選択も、全部互いの意志故のものだった、って」


 無事に退院した武田は一人、レベルAの展望デッキにいました。フェンスにもたれながら、満点の星空と、それを写す水面との境を眺めていました。

『今日の夜風は体に堪えそうですね、武田洋平』

 私が〈リュシャン〉の口を借りて言うと、武田は俯いたまま素っ気なく答えます。

「お前には関係ない、〈パシフィカ〉」

『あなたにも感情抑圧反動の傾向が見られますね。神経科の受診予約を手配しましょうか』

「主治医はマリラ・カハラで頼む」

〈リュシャン〉は明らかに言葉に詰まりました。

『やはり、あなたは神経科を受診すべきです』

「なあ、〈パシフィカ〉」

 彼は私を明示的に呼びました。

『何でしょう』と〈リュシャン〉が代弁します。

「カハラを殺したのはお前か」

 中々返答に困る質問です。

「何も主体とか、意識とかの話をしたい訳じゃない。バークがカハラを射殺したことに関して、お前自身がそれをどう解釈しているか聞きたいんだ」

『エン・バークは〈不覚者ノーセンス〉でした』

「カハラを撃ち殺したとき、?」

『妥当性の極めて高い推理です』

「バークは自らの意志で――自由意志でカハラの殺害を選択したのか」

『そうなるでしょう』

「どうしてだ。この世に蔓延るあらゆる原始犯罪を滅ぼしたい――その崇高な理念こそエン・バークにとっての第一義だったはず。やがて原始犯罪がお前の――〈アイデンシティ・パシフィカ〉という創発系の中で生じた意味のあるものだと分かっても、原始犯罪そのものに対する姿勢は変わらなかった。原始犯罪を完全に駆逐することは難しくても、少ないに越したことはない。なのに、バークは自らの手で原始犯罪に手を染めた。自らの理念をも裏切った」

『大層ご立腹ですね、武田洋平。それでも、あなたはまだ、エン・バークを連れ戻し、元に戻してみせると豪語するおつもりで?』

「いいや」

 武田は即答しました。そして、唇を噛み、両の拳を強く握って、声を押しつぶすようにして続けます。

「バークは越えてはいけない一線を越えた」

 そして、満天の星空を見上げます。

「僕たちはまだ、この星の数程の全覚文のうち、数える程しか見つけていない。でも、お前は違う」

『その通りです。私は既に名もなき無数の全覚文を発しています』

「あるいは、目的的に進化し、任意の全覚文を生み出すことができる。それらがあれば、バークを仕留めるのは難しくない――そうだろう、〈パシフィカ〉?」

『仰る通りです』

「これもまた、お前の描いた筋書き通りなのか。エン・バークを感情抑圧反動に追い込み、パシフィカの敵に、このパシフィカの更なる発展のための生贄に仕立て上げる」

『それが、社会の要請でした。敵のない世界に物語はありません。発展もありえません』

「そしてバークを仕留める役割は僕だと?」

『極めて妥当性の高い推理です』

 ふん、と武田は鼻先で笑いました。

「相変わらず、他人事みたいな言い方――お前が羨ましいよ」

『それで、あなたはどうするおつもりで? 先ほどの質問に――バークを元に戻したいかという質問に、あなたはいいえと答えましたが』

「今や、バークは完全に社会の敵となった。それを排除する以外に残された道はない。乗ってやるさ、お前の描いた筋書きに。僕のこの感情すら、お前の描いた筋書き通りなのだろう? だとしたら、僕はお前に反抗するつもりなんてない」

全覚言語話者オールセンススピーカーになる覚悟を決めたんですね』

「覚悟も何もない。僕にはそうする以外の選択肢がない。そこに僕の意志なんて関係ない。これは僕の運命だ」

『運命、ですか。あなたの自由意志はいずこへ』

「そんなもの、東京に置いてきたよ」

『分かりました』〈リュシャン〉が頷きます。

『空を見上げてください』

 武田は再び顔を上げました。

『暗黒に瞬く無数の煌めきの一つ一つが、いや、ここに見えていないすべての光が、今やあなたの味方となるでしょう。かつてあなたの師が警鐘を鳴らした〈次はお前だ〉も、多くの者の人生を壊した悪名高き〈神はあなたの中にいる〉、治安の要となる〈理性の声に耳を傾けよ〉、そしてあなたが発見した創発性全覚文たち〈あらゆる声に耳を傾けるな〉、〈逝き果てるまで〉、〈サイエンス・ファースト〉、〈命賭けで〉、〈逆は必ず真である〉。そして、名もなき無数の潜伏全覚文。これらがすべて、あなたの意志、そして声に反応して発話するよう全覚言語環境ASLEは目的的に進化します。さあ、武田洋平。今こそ、彼らの声に耳を傾けて、彼らの姿に目を凝らして、彼らの肌触りにそっと触れて、彼らの熱気を肌で感じるのです』

 武田は両手を大きく広げると、ゆっくりと目を閉じ、その肌で無数のささやきに耳を傾けました。


 そして今、ここに世界で最初の〈全覚言語話者オールセンススピーカー〉が誕生したのです。

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