私から逃げられると思っているの

 原始犯罪課PCDの管理官シュルク・セワンの元に届いた鑑識チームからの報告によれば、パシフィカ中央大学のプライベートな研究モジュール棟の一角から、全覚言語汚染に使われていた調味料と同じ組成の化学物質が見つかったとのことでした。その一室はエイドリアン・チェンの粒素パーティクリム研究施設で、エン・バークによる全覚言語汚染に手を貸していたことは明らかでした。

 新奇犯罪課NCDの全覚言語研究者たちはその一方を聞いたとき、多くが度肝を抜かされていました。全覚言語学にとって、エイドリアン・チェンはその黎明期から携わると同時、その暗黒面を制御する方法を見つけた同分野の権威です。その彼がよりにもよって、全覚言語オールセンスへの不信を煽る行為に手を差し伸べていたのが理解できなかったようです。

 しかし、逮捕当日、NCD本部ビル十七階のカンファレンスルームで行われていた捜査会議で、ショアン・レンがその解釈について話しました。

「エイドリアン・チェン容疑者は全覚言語系の創始者の一人です。それを推し進めることこそあれ、それを破滅に導くなど、あり得ないはずです。しかし、既にエン・バーク元捜査官のログから分かる通り、マイケル・マクファデン教授がチェン容疑者を何らかの理由で殺そうとし、それを実行しようとしたことは明らかです。しかし、チェン容疑者によれば、マクファデン教授がチェン容疑者を襲おうと近づいたとき、チェン容疑者は未だ覚えたことのないような殺人衝動を身に覚え、初対面だったマクファデン教授を殺害したとのことです。つまり、チェン容疑者は有害全覚文の影響を受けて人を殺し、以降、その罪悪感から有害全覚文の規制研究にシフトしたと考えられます。実際に、このマクファデン教授が行方不明になった時期と、チェン容疑者が研究の方向性をπラジアン180°変えた時期が一致することからも、この解釈に大きく破綻する点はありません」

「でも」一人の黒服が言いました。

「その話に破綻がないことは同意しますが、一体どうやってチェン容疑者はエン・バークとコンタクトを取っていたんです?」

 その問いがくるや否や、レンはにたりと笑った。

「いいですねえ、その質問を待っていたんですよ、ハハッ! チェン容疑者は今でも生身の眼球にコンタクトディスプレイだけを搭載していることから、それを外してしまえばプライベートエリアでバークと接触してもログには残りません。問題はどうやってプライベートエリア内で二人がコンタクトを取っているかですが、チェン容疑者のコンタクトを介して残されていたログの中で、昼間に一時間程空白だった時間帯があったんです」

 レンは仮想二次元スクリーンにチェン容疑者のスケジュールグラフを表示しました。コンタクトを介したログが残されている時間帯は青く塗られ、そうでない時間は空白になっています。日ごとのパターンは共通で眠る時間帯が空白で、起きている時間帯が青く塗られているその中で、一日だけ昼間に空白の一時間がありました。

「この日、チェン容疑者は全覚言語学会に出席していたことが分かっています。会場はミッドオーシャンホテル。その参加者の〈スマート・アイ〉を介したログで度々チェン容疑者が見つかっています。彼がそこにいたのは間違いありません。しかし、その空白の一時間にチェン容疑者の姿はどなたのログにも残っていません。ホテルそのものはプライベートエリアですから監視カメラは不十分で、チェン容疑者はホテル内を自由にうろつくことができました。そしてこの日こそ、エン・バーク元捜査官がこのパシフィカのログから姿を消した翌日――つまり、エン・バークとの接触のチャンスはここにあったのです」


 武田洋平とマリラ・カハラの二人はオートモービルを駆って、ミッドオーシャンホテルへと向かっていました。

「ちょっと、止めて」

 突然、カハラが武田と彼女自身の〈リュシャン〉だけが認識できる指向声でオートモービルを止めました。

「あれを見て」

 カハラが指さした先に、オートモービルに乗った黒服たちの姿がありました。その中にはシュルク・セワンの姿もありました。

「あの方向ってもしやミッドオーシャンホテルよね?」

「ええ、そうでしょうね。彼らも、エン・バークがホテル内に潜伏していると読んでいるんでしょう。それなら、やはりこの線は当たりのようです。バークがチェンに接触できるのは、全覚言語学会にかなかった訳です。それに、全覚言語汚染を起こした粒素パーティクリムという証拠を押さえた以上、彼らは法人所有のプライベートエリアの捜査に乗り切るための令状を手にしているはずです。……アルジ!」

 武田が中空に向かって指向声で呼びかけると、武田とカハラの内耳に仮想ワークステーションで〈イーグル・アイ〉を起動するアルジ・クワッカの声が響きます。

『ちょうど許可が降りたところ。黒服たちの進む街路の監視カメラの視点から、私は街路を見下ろしている。〈ユイ〉のルート選択傾向の逆行分析と彼らの街路選択ログに基づけば、彼らがミッドオーシャンホテルに向かう確率は推定七十二パーセント』

〈イーグル・アイ〉は視覚野に送る視覚情報を、本人の〈スマート・アイ〉の網膜が受容したものから、監視カメラが受け取るものに差し替えるアプリケーションです。感覚行動フィードバックシステムがまるで機能しなくなるために、起動者は運動神経をロックされるものの、こうして俯瞰的に街路を自在に眺めることができるようになるのです。

「アルジ、黒服たちの追跡ルートを構築できるか。もちろん、尾行に気付かれないように」

『任せて』

 クワッカは尾行時の隠密度関数を基に計算した完全尾行ルートと〈ユイ〉が弾き出した最短時間経路ルートとのパレート折衷案を計算させました。

「〈ユイ〉のルート探索システムにそこまでの機能があるとは知らなかった。いつの間にアップデートを」

 カハラがぼそりとこぼします。

「いいや」と武田は静かに首を横に振りました。

「この手の機能は個人利用には解放されていません」

「どういうことなの」カハラが首を傾げました。

「パシフィカ中央大学のライセンスです。アルジの一連のサポートは、研究用の計算資源と権限が割り振られています」

『申請をごまかすの面倒だったんだから。今度こそディファー連れて行ってね』

 空からクワッカが言いました。分かってる、と武田が頷きます。武田はただちに〈リュシャン〉にスケジューリングと予約を代行させました。

『今、あなたたちのオートモービルの経路情報を上書きする』

 そのルートは、当の武田やカハラからは尾行しているのとは到底思えないものでした。

 黒服たちが曲がった角で曲がることはほぼなく、黒服を見失うことも多々。けれども、武田たちが交差点を横切るのは、決まって黒服がそこを横切った直後でした。

 レベルC、海面上区を覆うドームまでの支柱ビルの一つがミッドオーシャンホテルです。客室数も平均価格もパシフィカの最大値。物理的環境が存分に拵えられた外国人向けの高級ホテルです。レベルAの展望階層への直通エレベータも拵えられています。

 武田とカハラを乗せたオートモービルはレベルCの地上部、樹木が繁茂する緑地の上を行くハイウェイを駆けていました。無数の支柱群が望める中、ミッドオーシャンホテルが近づきつつあります。

 程無くして二人がエントランス前に横づけしたとき、黒服たちはロビーに消えたところでした。

 黒服たちは既に捜査令状に基づく一定の館内捜査権限を得ていました。彼らは躊躇う様子もなく、けれども緊迫した様子も見せず、ロビーから伸びる何本もの廊下のうち、彼らは皆同じ方向へと進みました。

「既にエン・バークの潜伏している部屋は突き止めているってことね」

 カハラが目を細めながら言います。

「なら、私たちも後を追いましょう」


 武田とカハラが黒服たちの後をつけている間、クワッカは仮想ミッドオーシャンホテルのモデルを拵えて、バークの部屋の存在範囲を絞っていました。黒服たちが全員同じルートを選択していることから、バークの潜伏先を判定できているとして、そのルートが最短距離となる部屋集合を求めていました。そしてもちろん、同時に、エン・バークの逃走経路集合の導出も忘れずに。

 二十五階に辿り着いた黒服たちが突然一帯に散会しました。ある者は別フロアへの階段に、ある者はエレベータに、ある者は曲がり角の影に。そして数名が一つの部屋の前に残りました。

 武田とカハラの二人は近づくことができませんでしたが、クワッカは既に計算を終えていました。

『自然界には創発のパターンが溢れているように、狭い建造物内に人が構える陣にもパターンというものがあるの』

 クワッカがそう言った直後、武田とカハラの視界に仮想ミッドオーシャンホテルの透過イメージが折り重なりました。目の前にあった現実のホテルの壁面が徐々に薄くなり、廊下や部屋といった多面体の辺だけがはっきりと写るようになりました。物陰にそれぞれ陣取る人のシルエットが赤く輝き、そしてエン・バークが潜んでいるはずの部屋の前にいくつものシルエットがあるのを二人は見つけました。

「よく位置を特定できたな」

『合理的な組織の一番の弱点は、同じ程度の合理的思考力の持ち主に行動が筒抜けになること。彼らは合理的な捜査手法を使うのだから、最も捕縛確率が高くなる陣形を取るのは必然。そしてそうなれば、自然とエン・バークの逃走経路も見えてくる』

 その直後、エン・バークの推定潜伏居室から出てきた青いシルエットが廊下を行きます。

『言うまでもなく、エン・バークの最尤逃走経路』

 視界はすぐに時間次元を加えて四次元拡張され、エン・バークの予想逃走経路に群がる幾つもの赤いシルエットが二人の視界を横切ります。最大確率の仮想バークは一分と経たずに取り押さえられました。

『バークが無事に逃げおおせる確率なんて波にさらわれる小石のようなもの。でも、その合理性はバークを狙う第三者がいないという前提の上に成り立っている。カハラ、今からあなたに指示を出す。一般客を装って黒服を攪乱して』

「了解」

 武田と違い、セワン以外には顔の割れていないカハラがそっと黒服たちの方へと歩み始めました。しかし、すぐに足を止めました。

「どうした、カハラ」

 指向声で武田が呼びかけます。

「このルート、どうやって進めばいいの」

 カハラの前には廊下が続いています。しかし、カハラはそこに通路があることを認識できていないかのように立ち止まっていました。武田はすぐに気が付きました。

光素フォトニムベースの〈縄張りの外に出るな〉が発話されているのか。……クワッカ、準備は?」

『出来てる。マリラ・カハラ。今からあなたに強烈な光を浴びせるから覚悟して。眼は眩むけど、勾配素グラディエンティムが頼りの全覚文は非常にデリケートだから、強烈な絶対刺激で簡単に無効化できる――ってどこかの全覚言語オールセンス研究者が言ってたわ』

 カハラが頷いた直後、彼女の視神経に膨大な光の濁流が流れ込みました。ご丁寧に〈スマート・アイ〉のセーフティ光量調整回路をバイパスで回避して、勾配グラディエントを飲み込む絶対なまでの光量ルクスを注ぎ込みます。カハラは両眼を押さえ、人工声帯によって無声化された叫び声を上げ、よろめいて、そして〈縄張りの外に出るな〉が張っていた見えない壁を突き抜けました。

『お疲れ様』

 引き波のように光の濁流がカハラの視神経から引いていき、カハラの〈スマート・アイ〉が通常光量に高速暗順応をした一秒の後には、カハラは既に平然とクワッカに指定されたルートを歩き始めていました。

 一方、武田もまたクワッカから指示を受け、反対方向へと駆け出しました。

 エレベーターホール前にいた黒服の前を、カハラが通り過ぎました。その黒服はカハラの姿を目にするや否や、ひどくうろたえました。〈縄張りの外に出るな〉を破って人がいるとは思いもしなかったのです。カハラはその黒服を怪訝そうに見てから、けろっとした表情で言ってのけます。

「あのう、PCDの方ですよね、何かあったんですか?」


 カハラが黒服に話しかけて困惑させている最中、その少し離れたところから爆音が床を響かせました。エン・バークの潜伏していると思しき部屋の方からです。

 カハラの相手をしていた黒服は咄嗟に音のした方へ意識を向けましたが、その腕をカハラが掴みました。

「何の音ですか、これ」

「いや、これは――」

 黒服は明らかに狼狽していました。

 そのとき、クワッカの声がカハラの耳に響きました。

『今! その黒服を思い切り突き飛ばして!』

 カハラは柄にもなく――しかし合理的パシフィックに、恐怖に混乱する様を演じきって見せました。黒服の胸元を両腕で思い切り突き飛ばしました。彼がよろけたのと同時、カハラの視界の端でエレベータの扉が開くのが目に入りました。

 中から、武田がカハラに向かって指向声で呼びかけていました。

「カハラ! こっちに乗るんだ!」

 カハラは迷わず飛び乗り、武田に言われるがままに壁にぴたりと張り付きました。

「一体どういうこと?」

「僕たちの待ち人は自分からやってくるらしいさ」

 その直後、二人の耳に、騒ぎの音がより大きく聞こえました。武田はエレベータの開ボタンから手を放しました。

 閉まり行く扉の間を、一つのシルエットが滑り込みました。武田は迷わず展望フロアを押しました。レベルAの展望階層直通エレベータです。

 そのシルエットは立ち上がり、失礼と言いながら武田たちの方へ目をやり、そして固まりました。

「武田、カハラ。どうして」

「久しぶりですね、エン・バーク」

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