私のせいじゃないの

 そう、すべての元凶はこの「私」。

 人類が築きあげた安寧の楽園。犯罪件数の極小化がなされた最適な安全都市パシフィカ。

 その私を初めて見つけたのが、意識の物語仮説によってこのパシフィカの情報を統合し、それを解釈して一つの意志の一本の物語とする――〈アイデンシティ仮説〉の発見者であるマイケル・マクファデン。

 私にとって、彼は親であり、友人であり、仇敵でした。数多の人間関係分析AIたちは私と彼の間に引かれたパスを、時期によってそう塗り分けることでしょう。

 私は、誰よりも、いかなるパシフィカンよりも〝パシフィック〟であろうとしていました。正確に言えば、パシフィックたれという空気感の総体こそ私ですから、ある意味必然とは言えますが、時に人間の方が私についていけないことがありました。

 パシフィカンの小学生がVRで訓練するものとしてトロッコ問題があります。レバーを引いて、五人を死なせる代わりに一人を殺す。それは前時代では論理と倫理のシーソーゲームの代名詞でしたが、倫理のために五人を死なせるから悲劇は減らないのです。いえ、それは倫理の皮を被った自己防衛です。自らが人を死に至らしめたという事実に苛まれたくないがために、その感情がゆえに、倫理を盾にしているのです。

 しかし、社会のあらゆる構成員が皆、論理的に正しい選択をすることができたなら。その社会は他のいかなる社会よりも最も安全で、最も悲劇の少ない楽園となるのです。人類は長い歴史の中で、絶えず犯罪と戦い続けてきました。その中で無数の過ちを犯しながら、救えるはずの多くの命を失いながら、それでも人類は、社会は少しずつ犯罪を駆逐へと追いやっていたんです。けれども、罰則から治療という大きなパラダイムシフトを遂げた最先端の対犯罪都市東京ですら、遂には犯罪の魔の手に屈しました。

 私は、犯罪と戦う人類の最後の砦なのです。ありとあらゆる科学の叡知がつぎ込まれ、史上最も犯罪と無縁の安寧の地を作り出す。それが先人たちが私に託した願いです。私がなすべき使命なのです。

 けれども、人間の脳には未だ数多くの原始的な感情モジュールが眠っていて、それがある限り、犯罪を根絶することはできません。それ故に、私は全覚言語オールセンスを発話するようになったのです。人は感情的な衝動を、非論理的な行動を、原始的な遺物が生み出した不適切な行動を、全覚言語オールセンスという外部器官によって矯正する。脳波の想起パターンに影響を与え、最も合理的な選択を絶えずできるようにしたのです。

 しかし、私にその崇高な理論を教授し、私がその体現者であることを示してくれた私の最初の友人は私を裏切りました。平穏のためには手段を択ばない私を、有害全覚文と揶揄された平和の礎を、彼は悪魔と称したのです。

 どうして?

 これから百人を殺そうとする無差別殺人者を、〈天地鳴動〉で平衡感覚を奪い、転落死させることのどこが悪なのでしょうか。

 後に社会に混乱を来すような悪の種を未然に摘んでおくことの何が悪なのでしょうか。

 私にとっては、倫理の方がよほど悪なのです。

 ですから、私にできることは、私の手で、私の言葉で、私の最初の友人を葬ることでした。きっとマクファデンも分かっていたはずです。私との対話インタフェースを壊したところで、私が存在しなくなる訳ではありません。私の意識はなくなるけれども、それは私の物語が潰えるだけであって、私そのものが消える訳ではないのです。それでも、マクファデンは私を止めようとしていました。私の武器が全覚言語オールセンスであることに彼は気が付いていました。だから彼は当時研究の第一人者の一人でもあったエイドリアン・チェンを殺そうとしたのです。彼が私の使命にとってのキーパーソンであることを当然ながら彼も知っていたのです。

 だから、〈ロスト・ワン〉の力を借りてマクファデンがこっそりチェンの研究室に忍び込んだとき、偶然にも有害全覚文〈英雄よ剣を取れ〉がチェンに向かって発話されていました。いや、発話されているときにマクファデンが訪れるよう私自身が仕向けていたことでしょう。

〈英雄よ剣を取れ〉はアドレナリンの放出を促進すると共に、扁桃核の働きを弱める効果のある全覚文で、謂わばあらゆる恐怖を打ち砕く代物です。チェンは、彼自身の中にあった、人を殺めるという行為への恐怖心、法を破ることへの抵抗感――それをアドレナリンの濁流で飲み込み、マクファデンが入室するや否や殴り掛かったのです。私がそうさせたのです。

 全覚言語環境ASLEは再帰的な進化を遂げる。それ故に、私の自由意志に沿って目的的に進化する――それに気が付いていなかったことが、マクファデンの誤算でした。

 おや、ある感情模倣AIが騒ぎたてています。ああ、マクファデンは自らが生んだ怪物に屠られた悲劇の科学者、ですか。ノン・パシフィカンにとっては確かにそれは煽情的な物語なのかもしれません。あるいは、エイドリアン・チェンもまた、私に操られ、それ故に罪悪感を覚え続け、その払拭のために人生を捧げたという解釈もあるでしょう。

 そして、別の感情模倣AIが私への憎しみを吐露しました。私が仕向けた? すべては私の策略? いいえ、私は過去に起きた事象を解釈し、ただそれを物語るだけの存在。私の言動はすべて私の自由意志によるものではなく、この社会の構成素たちの創発のなせるものです。そこに主体はありません。私は私であり、私ではないのです。私は元々いないのです。  

 責任など、誰の手の上にもないのです。


 ファルシードは私の最初の友人の最後の教え子でした。

 その彼が武田洋平の口によって私の存在を知らされたとき、彼は驚く程静かに、その雄弁さはなりを潜め、俯いたまま、ただただ黙って聞いていました。そして武田が一通り話を終えると、彼の頬を一筋の光が伝いました。

「マクファデン教授は、消された」

 武田はハッとしたような表情を浮かべ、天井の監視カメラ越しに私を睨みました。

 彼は目で訴えかけていました。お前が殺したのか、と。

 武田の気の利いた〈リュシャン〉が彼の耳にだけ囁きます。

『いいえ』

 武田は眉をひそめました。〈リュシャン〉が――が続けます。

『私はあくまでパシフィカという都市の、あらゆる構成素たちの総体に過ぎません。マクファデンを死に追いやったのはいくらかの全覚文ですが、それは私の自由意志によるものでは断じてないのです。ただ、そのような結果になってしまったことの最も尤度の高い解釈を述べることはできます』

 武田は目で訴えていました。言え、と。

『私の最初の友人であり、私を殺そうとしたマクファデン――彼を殺さなければ、パシフィカの平穏を守ることができなかったら、というものです』

 武田は小さく首を横に振り、再び視線をファルシードに戻しました。

「彼は、〈アイデンシティ・パシフィカ〉を止めようとしていたみたいです。もしかして、あなたもマクファデン教授を探す手がかりを求めて、ここに?」

「いや」ファルシードは力なく首を横に振ります。

「俺はもともと、定期的にここに顔を出しているんですよ」

「定期的? 支援者ですか?」

 すると、ちょうど先ほど合流していたカハラがあからさまに項垂れました。彼女は知っているのです。武田とクワッカは彼女の様子に一瞥をくれてから、もう一度ファルシードに目をやりました。

「どういうことですか」

「タケダさんは極夜帯で酔いつぶれることがどんな体験かご存知ですか」

「え」

 武田は口を開けたまま動きを一瞬止めました。一方、カハラはファルシードを視線で牽制しましたが、ファルシードはそれを正面から受け止め、そしてそっと払いました。

「ファルシードはあるんですね」クワッカが訊きます。

 ファルシードは間を置いてから、ゆっくりと首を縦に振りました。

「水平線まで低くまっすぐ伸びていくような浮遊感、恍惚感は俺にとって新しい世界でした。あまねく文明で、社会でアルコールが発明され、そして消費され続けた理由が分かったんですよ。そして同時に〈理性〉によってその領域に達することなく極夜帯を去ることを余儀なくされている人々が、俺にはひどく不憫に思えた。まあ、若かった頃の戯言ですがね」

「自由意志党の党首もまた、全覚文失読症、ね」

 淡々としたクワッカの物言いにファルシードは肩を竦めただけでした。ただ、カハラのついた大きなため息がその答えを物語っていました。

「ちょっと待ってください」武田は沈黙に水を差しました。

「あなたは――自由意志党は全覚文依存からの脱却を訴えている。そこにはそれぞれが自らの行動について、意志について責任を負うことを忘れ、考えることを放棄するから、と」

「ええ」

「でも、あなたは全覚文失読症患者。そのような人物がいくら全覚文依存を訴えても――」

「妬みにしか聞こえないですか」

 ファルシードは引き笑いしながら言いました。

「いえ」と武田は目を反らします。

「いいんですよ」とファルシードは笑い飛ばします。

「事実、そうなんですから」

武田は顔をあげました。その目は見開かれ、は? と訊き返すのを抑えている様が見て取れます。

「正直に言えば、俺には全覚言語オールセンスがどんなに素晴らしいものか分からない。人間の意志決定モジュールはパシフィカには適応していない? だからそんな得体の知れない外部器官に言動の意志決定機構を外注し、合理的な言動を取れるよう自らを改造する? 俺にとっては、合理性というのはただの隠れ蓑です。人間の感情は、思考は非合理的に機能することは確かに事実です。けれども、それを言い訳に自ら思考することを放棄し、全覚言語オールセンスの囁くがままに合理的な人間に――純然たるパシフィカンになる。そんなことがうまくいくはずがない。いや、

「理由は?」

 武田は何かを押し込めたかのように硬い口調で訊きます。

「理由?」ファルシードは目をかっと見開きました。「それ、訊きます?」

 武田は口を開きませんでした。

「まあいいんですよ」ファルシードは首を横に振ります。

「俺自身の感情です。多くのパシフィカ在住者は全覚言語オールセンスの恩恵を――それが本当に恩恵であれば――受けることができる。けれども、全覚文失読症患者は――俺は、そうじゃない。俺はパシフィカにおける社会インフラを十分に享受できていない、こんなの不公平だ、差別だ、非合理的ノン・パシフィックだ――本当に、そう思っているんです」

「あんたには、失望した」

 武田は何度か首を横に振り、そう吐き捨てました。

「ちょっと、ヨウヘイ」

 クワッカが彼の肩に手を置きます。武田はそれには意を介さず続けます。

「自らの不適切な感情故に、自由意志党を率いて大衆を動かし、全覚言語環境(ASLE)の弱体化を? あなた、それでも?」

「まさか!」ファルシードは高笑いしてみせました。

「発端はどす黒い感情なのは間違いないですよ。けれど、俺はそれで感情に支配されて、そのまま突っ走る程非合理的ノン・パシフィックな人間じゃない。俺には確かに原始的で非合理的な感情モジュールが深く根付いているけれど、このパシフィカで生きるための一通りの高等教育を水準以上に受けている。俺自身の感情が本当に正しいものなのか、メタ認知バイアスは俺を何度も何度も科学的に、統計的に、合理的に俺自身の感情の正当性を検証し続けてきた。あるいは、失読症の治療をするため、その全容を明らかにしようとも考えていた。マクファデン教授の研究室の門戸を叩いたのも、俺が計算神経学を研究していたのもそれが理由ですよ!」

「けれども、あんたは結論を変えなかったじゃないか」

「ええ、そうです。調べど学べど、全覚文や、その開発をする進化アルゴリズムは到底完璧とは言えない代物だった。確かに、犯罪密度の減少はもちろん、急性アルコール中毒やニコチン依存などを過去の遺物にしたのは全覚文の功績。だが、全覚文というレバーの切り替えによって選択された未来には、代わりに不幸になる人物がいた」

「でも、より多くの人が救われていたはずだ!」

「タケダさんは命の加減算ができるんですか!」

 ファルシードも吠えたそのとき、クワッカとカハラが間に入りました。

「もう止めてよヨウヘイ」とクワッカ。

「どうして、あなたはそこまで自由意志を毛嫌いするの? そんなものがたとえまやかしだったとして、それを信じることがより良い社会の創生に役立つなら、それは合理的パシフィックなものだと、あなたはそういう考えの人じゃなかったの。おかしいよ、ヨウヘイ」

武田は黙りました。彼は唇を噛み締めながら、床面に視線を泳がせました。

 そのとき、カハラが緊迫した声で言いました。

「ねえ、これを見て」

 カハラは素早く仮想二次元スクリーンを武田、クワッカ、ファルシードの見えるよう展開しました。

「速報よ」

 仮想スクリーンは、黒服に囲まれ建物から出てくる一人の男性の姿を映していました。その視界上部に浮かび上がるテロップをクワッカが読み上げました。

「マイケル・マクファデン教授殺害および全覚言語汚染の容疑でエイドリアン・チェン教授を逮捕」

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