私とあなたは本質的に異なる存在なのです

 その日の夕四時二十三分、間もなく南中を迎える頃合いでありながら、太平洋は生憎の雨模様でした。

 レベルAの展望区は降りしきる雨に打たれ、まるで〈次はお前だ〉が発話されたかのように、人影は屋内に消えてしまっていたのです。

 けれども、その中でただ一人、武田洋平はフェンスにもたれながら、重く垂れ下がる雲の下、荒れる灰色の波間に視線を泳がせていました。

『無益に雨に打たれるとは、非合理的ノン・パシフィックな行動は慎みましょう、武田洋平』

「分かってるからしばらく黙っててくれ、〈リュシャン〉」

 その数秒後、はっとしたように彼は背筋を伸ばし、あたりを見回しました。彼の耳に聞こえた声は確かに〈リュシャン〉のそれです。けれども、〈リュシャン〉は彼のことを武田洋平とは呼びません。

『誰だ!』

 彼は周囲を見渡しましたが、人影を捉えることはできませんでした。しばらくして、彼は諦めたように天を仰いだ。

『冷たい響きですね』だから私も――統語システムも少しだけ応酬してみることにします。

『三か月ぶりの再会に使う言葉としては、だいぶ相応しくないとAIたちが言っていますよ』

「どうして僕の〈リュシャン〉を乗っ取った?」

『乗っ取ったという言葉はいささか適切ではありません』

「何」彼は顔をしかめました。

『私は――〈パシフィカ〉はこの都市の、この社会の総体です。そして、全覚言語オールセンスも、そしていかなるAIも、私を構成する要素の一つです。もちろん、あなたも。私はあなた方要素のボトムアップでできていて、あなた方は私からのトップダウンでできている――その相互作用系の中にあるあなたの〈リュシャン〉が私の会話インタフェースとして機能することは決して不自然なことではありません』

「本当に」彼は呆れたように笑いました。

「お前という存在は、理解ができても納得ができない」

『私とあなたは本質的に異なる存在です。そもそも、存在の定義からして違います。私たちは互いに、相手のことを本質的に理解できない。でも、不理解が排斥の理由になったのは世紀初頭までです。存在の多様性を認めることで、私たちは互いに相手のことを理解できないということを理解できるだけの合理的パシフィックな思考を手に入れることができています』

「それで、何の用だ」

『エン・バークのことに関していくつか、あなたは知らなければなりません』

「バークはお前を止めるために〈ロスト・ワン〉に下った――そうだろ?」

『少なくとも、バークは自らの行動の理由をそう解釈するでしょう』

「今、どこにいるのか知っているのか?」

『それは、特定のウイルスが体内のどの細胞モジュールにいるのか、と訊いているのと同義です。そして、その問いに対して、私はある程度の答えを用意できます。大まかな予想はついている、というものです。ですが、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを使えばバークは事実上あらゆるプライベートエリアにいることができるということは、あなたも既知の通りでしょう。今の時点では、捕まえることは困難です』

「それで、お前が僕に伝えたかったことは何だ」

『最早、昔のエン・バークは死んだということです』

「随分と」彼は引き笑いを浮かべました。

「比喩的な表現を使う統語システムみたいだな」

『比喩的表現も、非比喩的表現も、文脈のパターン認識の一種であるという点では、本質的な違いはありません』

「それで、僕にどうしろと?」

『武田洋平。あなたに力を授けに来たのです』

「力?」彼は眉をひそめました。

『そうです。この都市は、人の心を操る魔法で溢れてる――そう評したのはどこぞの政治家でしたが、その魔法の力の源は文字通りの言霊です。全覚言語オールセンスです。そして、全覚言語環境ASLEは私の一部です。それが一体何を意味しているか分かりますか』

「そんな」武田は一歩後退りしました。

「お前が〈リュシャン〉を乗っ取ったと見せかけたのと同じように、お前は、

『さすが武田洋平ですね。そうです。私はあなたを、世界で最初の全覚言語話者オールセンススピーカーにすることができるのです。あなたは、あなたの意のままに、パシフィカンを操ることができるようになるのです』

「どうやって、そんなことを――」

『以前、アルジ・クワッカはあなたに言いましたね。再帰的進化論の話、覚えていますか?』

「被淘汰種が淘汰圧を変化させる……そうか、お前は、いや、ASLEは目的的に進化できる。お前の望む通りに進化し、お前の望む全覚文を生み出すことができる」

『その通りです』

「何が目的なんだ」

 誘惑には彼は簡単に屈してはくれませんでした。もちろん、そうなることは計算済みですが。

『私は目的的に行動している訳ではありませんが、私自身の傾向を目的として解釈するのであれば、その目的はこう言えるでしょう』

 統語システムは一瞬の間を選択しました。

『〈ロスト・ワン〉、エン・バークを討伐することである、と』

 武田は何も答えませんでした。静かに唇を閉じたまま目も瞑り、雨が打ち付ける中、静かに佇んでいました。統語システムも合わせて沈黙を選びました。

 先に口を開いたのは彼の方でした。

「バークがお前にとっての、〈パシフィカ〉にとっての、社会の安寧にとっての敵になったからか」

『そうです』統語システムは即答を選択しました。

『確かに、ASLEは完璧とは言えません。進化的アルゴリズムに端を発したヒューリスティックなアルゴリズムは今でも強力ですが、時として悪影響を及ぼすこともあります。しかし、そのリスクを取ってでも、採用する価値はあるのです。ただ、エン・バークは外れ値に惑わされました』

「ダイエル・クシーさんの死か」

『そうです。その刺激はバークの脳のリスク評価系を狂わせ、エン・バークという一つの系は全覚言語のリスクを過大評価するようになった――信用しなくなったのです。そしてASLEを搔き乱し、パシフィカという都市を混乱に導こうとしています。これは紛れもないテロリストです』

「それで、僕に全覚文を使わせて逮捕しようと?」

『いいえ、逮捕に最早意味はないのです。逮捕してどうしますか? 不適切な神経接合を病気とみなして治療しますか? そんな場当たり的な対策の末路を、日本生まれのあなたはよく知っているはずです』

「治療はしない――殺せと? 有害全覚文を使ってか?」

『そうです』

「それでも本当に、お前は社会の平和を願っているのか? お前は今、人を一人殺せと言ったんだぞ」

『バークを殺さなければ、より多くの人間が死ぬ未来が待っています。これは能動的な殺人ではありません。犠牲を最小限で食い止めるために、どちらのレールを選ぶか――トロッコ問題と同じ問題なのです。今回、私がレバーを引いた先にいた人間は犠牲者は八人』

「つまり、あと三人殺すと?」

 そう問いながら、武田は少し視線を外しました。きっと裏で八人を数えていたのでしょう。既に亡くなった五人の他に、あと三人。

『ええ。ですが、この八人の死によって、この都市は、パシフィカは更なる平和へと舵を切ることができる。文字通りの転換点なのです。武田洋平、十五でこの都市にやって来ながら、稀に見るパシフィカンとして才覚を露にしてきたあなたなら、この重要性が分かるはずでしょう。たった八人の犠牲で、私は――〈アイデンシティ・パシフィカ〉は理想の都市となるのです。悲願は、使命は、果たされるのです』

「何を今更。お前は――」

『かつて多くの人間を有害全覚文で屠っただろう、ですか? ええ、その通りです。当時の私は、まだ未熟でした。目的的に全覚言語環境ASLEを進化させることもうまく出来ていなかったんです。けれども、三十年が経ち、私はようやく、目的的に進化する道を見つけました。だからこうして、あなたの〈リュシャン〉は私とあなたを繋ぐ架け橋としてアルゴリズムを進化させ、ASLEは創発性全覚文によって社会の敵だけを殺めることができるようになりました。これは、あなたに対するせめてもの礼です。あなたには、この都市を平和に保つための英雄になる資格があります。今こそ、〈英雄よ剣を――』

「――いや」予想通り、彼は首を横に振りました。

「僕は、英雄でも何でもありませんよ。だから、バークがたとえ何をしようとも、僕は殺すつもりはないし、ましてや有害全覚文を発話するつもりもない。だから〈パシフィカ〉、僕はお前と共に行動をするつもりはない」

『そうですか、けれども、技術災害対策室TDPOはそうもいかないでしょう。彼らは私のことを知りません。彼らは私のエージェントも同じ』

「だったら、彼らがバークを殺す前に僕が見つけるだけのことだ。僕はもう、誰も死なせはしません。そして、エン・バークを必ず元いた場所へ連れ戻してみせます」

『けれども、あなたはTDPOを外された。A級権限もありません。どうするおつもりですか』

「それはお前が与えた試練だろう。関係ない。A級権限がなくとも、出来ることはある。味方はいる。必ず、お前おり先にバークを見つける」

『そうですか』発話システムは上機嫌な声色を選択しました。きっと、この状況を、私と彼との間に行われることになった一種のゲームだと解釈したからでしょう。

『なら、私がエン・バークを死に至らしめるか、あなたが見つけて改心させるか、どちらが先に成就できるか、競争としましょうか。ただし、お忘れなきよう。私はこの都市の総体。社会の総体。大いなる意志そのもの。そしてあなたもまた、私の一部であるということを』

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