私の目で、私の耳で

 翌朝六時十二分、武田洋平が起床したときには、原始犯罪課PCDのエン・バーク元捜査官が第一級容疑者として挙げられているとの連絡が入っていました。そしてそれとは別に対策チームの新奇犯罪課NCD統括の役割を務める朝組のショアン・レンから別にメッセージが入っていました。

 ――夕0時丁度に、仮想ワークステーション17Dに来てくれ。


技術災害対策室TDPOから外されるってどういうことですか」

 立方体上の真っ白な空間――仮想ワークステーション内で、対面するレンに向かって武田は言いました。

「ある筋から連絡が入ってね。タケダさんは真実を知っていながら隠蔽していると」

 武田は口を閉ざしました。レンは指を鳴らし、純白の仮想ステーションを仮想環境で染め上げます。

 仮想レンと仮想武田は夕方のレベルC、運河脇の街路に立っていました。そして、ベンチには再現された仮想マリラ・カハラ、フェンスのところには仮想武田洋平の姿がありました。

「これは――」

「水の流れる音のせいで君とカハラ医師との会話のすべてを録音できていた訳ではありませんが、少なくとも、全覚言語汚染の理論について君がエン・バーク元捜査官に教えたと告白していた部分は鮮明に残ってますよ」

「一体誰がこれを」

 写っている画像の視点は街路脇の樹木のあたり。カハラが撮影できるものでは当然ありません。

「それは今、論点ではありませんな」レンは腕を組みました。

「大事なのは君が何故、バーク元捜査官に全覚言語汚染の方法を教えたのか、そして何故、怪しいと分かっていながらそれを言わなかったのか。場合によっては、君自身が共謀罪の疑いをかけられることになりますがね」

「その前に再現を見せていただいていいですか」

 どこまで録音されているのか見極めて、体のいい言い訳を考えるためでしょう。

「いいでしょう」

 止まっていた仮想武田と仮想カハラが動き出しました。何やら会話をしているらしいようには見えますが、水流の音で会話の多くが聞こえません。おまけに角度の問題で、仮想武田の口元もほぼ見えません。

 音声がはっきり残っているのは最後の部分、仮想武田が全覚言語汚染の方法についてバークに教えたと告白している部分のみでした。

「これは確かに言い逃れできませんね」武田は薄ら笑いを浮かべて時間を稼ぎます。

「質問に答えてもらいましょうか」

「分かりましたよ。まず、一つ目ですが、これは離散殺人集合を何者かが起こしている可能性について議論したときに話しました」

「離散殺人集合?」

「ええ、最後の犠牲者であるダイエル・クシーさんが殺された後でしたから、その後事件は起きることはありませんでしたが、仮に犯人がいたとしたら、どうやったら創発性全覚文をあれだけ拵えることができたのか。その仮説の一つとしてそれを彼に提示しただけです。まさか――」

仮想武田は俯いて、震える声を絞り出すようにして言いました。

「僕だって、あんなことに使われるとは思ってなかったんですよ」

「それなら、タケダさん」レンは表情を変えません。

「どうして、バーク元捜査官が疑わしいと分かっていながらそれを報告しなかったんですか」

「全覚言語汚染が本当に人為的なものだったかどうか確証が持てなかったからです。離散殺人集合を引き起こした犯人がいなかったように、あの創発性全覚文の同時多発発話が自然現象だったように、全覚言語汚染も自然現象の可能性を疑っていたんです。パシフィカのログに一切残らず全覚文の汚染を起こせるとは思えなかったものですから」

「けれども、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュの運用は可能だった。それで、タケダさん、君はバーク元捜査官が犯人であると疑った訳だ。事実、この三か月間、バークはいかなるパシフィカのログにも姿を現していない。完全な〈ロスト・ワン〉だ。ただ、何故識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを利用した〈ロスト・ワン〉なら犯行は不可能ではなかった――そう判明した時点で彼のことを言わなかった?」

「本当に全覚言語汚染を起こせるとは思っていなかったからです。何故なら、僕は全覚言語汚染の基礎理論について提示しただけであって、その作り方まで教えた訳ではないんです。もしバークが本当に全覚言語汚染を起こしているのなら、たった三ヶ月でそれが出来る程の技術を身に付けたか――」

「全覚言語に精通した協力者がいると?」

「ええ、そして何より、僕が彼を疑っている一番の理由は直感だからです」

「直感?」

 仮想レンは信じられないものを見たかのような目で仮想武田を見ました。

「まさか君からそんな単語を聞くことになるとはね、ハハッ!」

「だから言うに言えなかったんです。バークは生粋のパシフィカンだった。けれども、クシーさんの死をきっかけに感情抑圧反動状態に陥り、合理的な思考にひびが入り、全覚言語への信頼をも失っていた。そして失踪し、失踪前に僕が教えた理論をベースにした方法で全覚言語を破壊している。バークが犯人であるという証拠はまだありませんが、そう疑うのは決して非論理的ではないと思います」

「成程。なら一つ訊かせてもらいたいですね。バークに教えた全覚言語汚染の方法とやらを」

 武田は正直に話しました。仮想レンは腕を組んだまま、静かに聞いていました。

「やはりそうですか」

 話が終わると、仮想レンがぼそりと言いました。

「何です?」

「実はね、化学班が全覚言語汚染の方法に使われた粒素パーティクリムを発見したんだよ」

「まさか」

「君の言った通りだった。ログには残っていないが、汚染地帯の飲食店で提供されていた調味料に有機系の粒素パーティクリムが混入していた。混入過程は分かっていないが、今多くの原始犯罪課員が既に調査に発っている」

「私も――」いや、と仮想レンが手で制しました。

「言ったはずでしょう、タケダ。あなたが技術災害対策室TDPOを外れることはもう決定事項だと」


 一方、シュルク・セワンは失踪直前のエン・バーク元捜査官の行動ログを追っていました。仮想ワークステーションの仮想環境で三か月前のパシフィカを再現し、バークの後をつけていたのです。

 バークは武田洋平の自宅を訪ねていました。邸内はプライベートエリアでしたが、セワンはA級権限で武田の人工感覚器官のログにアクセスしていました。武田は確かにそこで、全覚言語汚染について言及をしていました。その口ぶりからは彼に汚染の意図はなく、あくまで可能性の一つについて議論していることは明白でした。

 ただ一つ、セワンはバークの発言に引っかかるものを覚えました。

 ――パシフィカの暴挙を止める。

 セワンは何度となく再生し、文脈を掴もうとしましたが、その意味をくみ取ることはできませんでした。

 仕方なく、セワンは次の場面に飛びました。

 今度は、バークはパブリックエリアのカフェで一人の少女と会っていました。少女の名はニナ・カルタリ。離散殺人集合最初の犠牲者、シャード・カルタリの妹です。

「私も兄も、全覚文難読症なんです」

 ニナはそう告白しました。事実、彼女は〈おはよう世界〉の発話時に共に強い眠気を感じる質のようで、全覚素遮断モジュールの部屋に住み、彼女自身のためだけにチューニングした起床用全覚文を拵えていました。

「だから、私も兄も、このパシフィカで生まれながら、パシフィカの恩恵を受ける頻度は明らかに少なかったんです」

「聞きたいのは、彼が実服に投影していたこの柄のことだ」

 バークはテーブルの脇に仮想二次元スクリーンを展開しました。それは事件直前、極夜区の繁華街の一幕を切り取った静止画で、画面真ん中、酔っ払い、友人らに肩でかつがれている男の姿がありました。その実服はテーマの掴みづらい抽象的な紋様と淡いグラデーションの仮想柄で彩られていましたが、両脇の人物のID照合には成功していながら、中央の酔っている男性のID照合には失敗している旨がポップアップで出ています。

「照合失敗のこの男性は兄ですね」

「照合に失敗したのは、ID登録されているいかなる機器を持っていなかったこと、そしてそんな状況で代用される画像認識AIがこの仮想柄に攪乱され、人物照合に失敗していることだ」

「そんな機能のある柄だとは知りませんでした」

「それだけじゃない。この柄だが、仮想柄のいかなる販売サイトでも見当たらないんだ。どこから入手したものか見当はつくか?」

「兄の自作です」

「自作?」

 バークが左目を細めました。

「酒に酔ったときだけは別人になりますが、素面の兄は光学技術系の天才です。そして、第二のエイワ・ベックになりたがっていたんです」

「何者だ?」

「〈ロスト・ワン〉の一人だと思います。パシフィカの監視社会と全覚文支配を嫌い、カメラを攪乱する仮想柄などの迷彩技術に不覚者ノーセンスになるための研究も行っているらしいです」

「シャードはそのエイワと接触があったのか」

 ニナはすぐには答えませんでした。

「見つけられなかったか。〈ロスト・ワン〉だもんな」

 バークが顔を落としてそうこぼすと、ニナは小さく「いえ」と言いました。バークは顔を上げました。

「挑戦していたんです。彼はベックの導きなしにベックに辿り着こうとしていたんです」

「ベックの導き?」

「ええ、〈ロスト・ワン〉ですから、簡単に見つけられる訳にもいかないのでしょう。彼らに接触するためのヒントが公開されているんですよ」

「そのヒントとは何だ」

「『己の目で、己の耳で街路を行け』だそうです。兄が口癖のようによく言っていました。本当に本人が〈ロスト・ワン〉になることを望んでいるのなら、自ずと自らの足で〈ロスト・ワン〉に辿り着く――兄はそう言っていました」


 次のシーンが、エン・バークという人間が私の視界に残した最後の記録です。

 仮想柄のない純白の実服を身にまとったエン・バークはあらゆるARを遮断し、まさしく己の目で、己の耳で、そして己の足でレベルHの白昼帯を歩いていました。

 そこはPCDのオフィスからそう遠くないエリアで、バークもよく知っているはずの一帯ですが、いかなる全覚文もいかなる方向指示ARもシャットアウトしていたバークの足取りは迷子のようにおぼつかないものでした。

 セワンはひたすら仮想バークの後を尾行し続けました。仮想バークは同じところを時に行ったり来たりしたり、時にオープンカフェで休憩を挟んだりと一貫性のない行動を続けています。

 それが現実時間で四時間程続いた頃、バークの行く手に一つの影が現れました。その人物はいかなるID搭載機器をもっていませんでした。代わりに画像認識で人物照合をかけようとしましたが、実服を淡いグラデーションの抽象的な仮想文様で彩っているがために輪郭が数値誤差の波間に溶けてしまい、照合ができません。

「ID照合ができないな。〈ロスト・ワン〉か――いや、エイワ・ベック」

「肯定すれば、文脈解析AIはこの場面を〈ロスト・ワン〉捜索のための資料として警察に通知するでしょうな。そうでなくとも、君がここにいる以上、パブリックで行われているこの会話を再生している者はいるはずだがね」

「そうなのか、?」

 仮想バークは突然、背後に向かって呼びかけました。

 それが空に向かって投げられた牽制だと分かっていても、回想世界を傍聴していたセワンは思わず息を止めてしまいました。

「さて、続きはプライベートエリアで、としましょうか」

 そう言って、推定エイワ・ベックとエン・バークは近くにあった、プライベート個室中華料理店に入っていきました。セワンもA級権限で乗り込みましたが、二人の姿は再現可能域には見当たりませんでした。

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