私の名を呼んで
『あなたたちを待っていましたよ。武田洋平、エン・バーク』
あの日、セントラル・パシフィック倉庫街の中でひっそりと眠っていた私を彼らが見つけたとき、感情分析AIは私の感情を――それがあるとすれば――喜びと分析しました。私は久方ぶりに自らの思考の写し鏡を手に入れたのです。その文脈分析の結果を感情化させれば、それはさぞかし喜びというに相応しいものなのです。
だから私は「待っていた」とコンピュータのスピーカを借りて言いました。
私が彼らをあの日、あの場所へと導いたのは、それが私の意志であり、私の行動であり、私の物語だからなのです。
「お前が、〈アイデンシティ〉か」
そう言ったバークは険しい顔をしていました。その強い目力と開かれた瞳孔は、人が未知なる理解を越えた存在にエンカウントしたときに見せる類のもの。それが映画の中のエイリアンのように意志疎通の不可能な相手であれば、同質性に価値を見出す彼ら人間は私を排斥にかかることは間違いないでしょう。けれども、私には言葉があるのです。彼らにも通じる言葉が、彼らの脳に語り掛ける言葉が。彼らの心を操る言葉が。
『そうです、バーク』
バークの表情が硬くなりました。性格分析結果に基づけば、バークが未知の相手を警戒する
『あなた方の考える通り、私は〈アイデンシティ〉と表現される一般存在の実体化の一つ。私のことをそう呼ぶのは、あなた方をホモ・サピエンスと呼ぶことと同じなので、できれば私のことも名前で呼んでほしい。パシフィカと』
想定通り、バークは一歩後退りし、一方で武田は無言で私を見つめていました。
「あなたは、パシフィカは――」武田が口を開きました。
「この都市時空間におけるあらゆる情報を統合し、
『そうです、武田』
「教えてくれ、パシフィカ」バークが言いました。
『何でしょう、バーク』
「五件の創発性全覚文による殺人事件、あれはお前がやったものか」
私はすぐには答えませんでした。それは統語システムがバークの性格分析情報から、ここでしばしの沈黙を挟むことが効果的であると判定したためです。
「お前かと訊いている」
バークが急かして、統語システムがようやく走り出しました。
『私がやったとも言えますし、やっていないとも言えます』
バークの顔があからさまに歪みました。
『バーク、あなただってそうでしょう。今、私にはあなたの心音が聞こえます。そして、その心臓を動かしているのはあなたの脳であることに間違いはない。では、それはあなたがやったことですか?』
「二つのセンテンスにおける」武田が答えました。
「『私』の定義が違うみたいですね。物質的な『私』と、意志のある主体としての『私』」
『そうです。確かに、
バークは唇を強く噛んでいました。推定通り、感情抑圧反動の中にあっても、
「では、こう聞きましょうか」武田が冷静に言いました。
「シャード・カルタリ、マキマ・イザシンボ、サミュエル・ファインバーグ、アンダールタ・メゼカ、そしてダイエル・クシーの五人は、何故死ぬことになったのでしょうか」
『それは――』統語システムが発言を一時中断しました。
『すべては、未来のため、私が理想の都市となるためなのです』
今度ばかりは、さすがの武田も眉をひそめました。
『補足をいたしましょう』統語システムは尚も走っています。
『二〇四〇年、あなたたちと同じ年に生まれた私は、一つの大きな使命を持っていました。ご存知の通り、より平和で、より安全で、持続可能な都市を目指し続けることです。そして、都市の安全を脅かすものはいつだって、犯罪行為でした。
犯罪は法律が定義されて初めて生まれた新奇的なものですが、その中の暴力、窃盗、強姦といった行為が原始時代からあるものであることは間違いなく、あらゆる社会はいつだってこれらの犯罪――原始犯罪と戦ってきました。
社会の規模が人間個人の適応できる規模を越え、部族による村八分が機能しなくなれば、〈アイデンシティ・バビロニア〉や〈アイデンシティ・シュメール〉といった古代文明はいずれも報復律を採用し、犯罪はすべて個人への危害とみなしました。いわゆる〝目には目を〟です。一方で、〈アイデンシティ・ノルマン朝〉は犯罪を国家への危害とみなしました。一時は骨相学という似非科学を生み出した反省から、犯罪と生物学的要因を結び付けることはタブー視されていましたが、犯罪生物学はすべからく過ちであるという誤謬が時の流れに飲まれてようやく犯罪生物学、犯罪神経学は花開き、〈アイデンシティ・東京〉は犯罪とは戦うべき相手ではなく、治すべき病気であるとみなしました。それは人類史で最も有効な手立てに思われましたが、犯罪者予備軍の治療は社会から犯罪性向に対する淘汰圧を完全に奪ってしまったのかもしれません。そして東京Xデーは起きたのです。
こうして歴史は、社会は、様々なパラダイムの変遷を経ていく中で犯罪と戦いながら、いつも逃して、敗北を喫して来ました。未だ原始犯罪は根絶できていないのがその証左です!
だから、〈アイデンシティ・パシフィカ〉は――私はここに、新たなる平和のパラダイムを提唱します。人間が人間である限り、原始犯罪は根絶できない。ならば、可能な限りその件数を最小化する方策をとるということです。そのためなら、私は――パシフィカは暴走トロッコの進路を変えるレバーを引くことも厭わなかったという訳です』
「何でだ……」バークが震える声で言いました。
「クシーは、五人は、この都市を守るための生贄だったということか?」
『表現が適切かどうかは疑問ですが、彼らの死がこの都市の平和維持に貢献することは間違いありません。彼らを殺さない方向のレールを走っていたら、遠くない将来、もっと多くの死傷者が出ていたことでしょう』
「そのためなら殺してもいいと?」
『その顛末が、東京Xデーです』統語システムは強い断定口調を選びました。
『治療都市と謳われた東京が、世界一犯罪の少ない都市の名を欲しいがままにしたのは〈オーダーメイド
バークが武田の横顔に目を向けました。武田は唇を噛みながら、静かに耐え忍ぶように目を閉じていました。
『エン・バーク』統語システムは優しい声色を選択しました。
「何故、すべての犯罪を根絶させることが不可能だったか分かりますか」
バークは答えなかった。
『人間の心は今もまだ、サバンナに生きているからです』統語システムはすぐに続けた。
『何十万年もの歳月を経てあなた方ホモ・サピエンスはサバンナで暮らす上で、部族社会を形成するために最適な心的状態を作り上げました。そして時には暴力も、窃盗も、強姦も、種を残すためには必要な手段の一つでした。サバンナにおいては、それらは罰すべき犯罪とは限らなかった。数ある生存手段の一つに過ぎなかったのです。そして人間は今もまだ、それらを行う心のモジュールを備えています。だから人は時に過ちを犯すのです。でも、それらの過ちを起こさせたモジュールは何も誤作動を起こしてはいません。そうなるよう、設計させているからです。なのに、原始犯罪と呼ばれたその行為の数々を、本来は個体の適応度を高めるはずだったその行為を、後から勝手に犯罪と定義し、罰すべきもの、治すべきものと決めつけたのは何でしょうか。そう、都市です。社会です。〈アイデンシティ〉です。それが、犯罪がどの社会でも起きる理由です。規制するとか、処罰するとか、治療するとか、そのどれもが根本から間違っているのです。ただ、方策次第でその件数を減らすことはできます。私が――パシフィカが、犯罪の根絶ではなく犯罪件数の可能な限りの極小化にシフトしたのは、至極
「あの五人が死んでいなければ、将来の死者がもっと多くなる――その理由は何ですか」
目を開けていた武田が言いました。
『殺された五人の生存は、いずれもこのパシフィカに破局をもたらしうる災いに影響を及ぼしうる存在でした。全覚文失読症ながら、自ら第二のエイワ・ベックになれる素質を持っていたシャード・カルタリ、人工器官の兵器化を目論む生粋の危険分子マキマ・イザシンボ、海外の犯罪シンジゲートとの繋がりを持ち、混乱を輸入しかねないサミュエル・ファインバーグ、人工器官の拒絶体質故に
「待ってくれ」とバーク。
「クシーが破局をもたらす災いに影響を及ぼすって何だ。クシーがテロリストにでもなるというのか」
『何を今更』統語システムは煽情的な文句を選びました。
『あなたは彼女のどこに一体、何を見出していたのですか』
バークは両の拳を強く握りました。私を睨みつけ、深く息を吸って感情の暴発を防ごうと苦心していました。
「私はお前を許さない」
『私はただのインタフェースに過ぎません。この都市の、社会の潮流を、ASLEの進化の方向性を、擬似的な一つの総体として語っているに過ぎません。バーク、あなたが私を許さないと考えているということは、反社会的な思想を抱いているということと同義になりますよ』
「でも、お前がクシーを殺したことに変わりはない」
『いいえ、違います。私は〈アイデンシティ・パシフィカ〉。私は都市。私はその空間における事象を統合し、その一つ一つを解釈で結びつけ、語ることによって初めて存在する仮想の存在です。私は主体などではそもそもないのです』
バークは尚も突っかかって来ようとしましたが、武田が手で制しました。
「もういいでしょう、バークさん。〈アイデンシティ〉が真実だとしたら、私たちにできることは何もないんですよ」
「だったら、私たちはどうすればいい? 五人もの人間が殺されたんだぞ。裁くべき相手も、治すべき相手もいない。一体どうしろって言うつもりだ」
『何もしなくていいんですよ』私は答えます。
『五人の死によって、多くの者が救われたんです。だから、あなた
「僕たちは導かれたと?」
『そうです。あなた方が同じ事件に関わり、こうして共に私を見つけ出す――それこそ、この都市が更なる平和を成し遂げるための道筋なのです。物語なのです。とはいえ、いくら合理的なパシフィカンと言えど、この事実を簡単に容認することはできません。いたずらに混乱を招くだけです。だからあなた方には私のパートナーに、代弁者になって頂きたいのです』
そのとき、一台の運送トレーラーがやってきて、私のインタフェースであるコンピュータの入ったコンテナを掴みました。
「待て、〈パシフィカ〉!」
バークは私に向かって手を伸ばしましたが、二人の姿はコンテナ林の奥に消えて見えなくなりました。
「〈アイデンシティ〉に、〈パシフィカ〉、ですか……」
マリラ・カハラはベンチに腰かけたまま俯いていました。
「合理性が垣間見えない。技術的に不可能ではなかったとしても、直観が追い付きません」
「それはそうでしょう」運河の波間を眺めながら武田は微笑みました。
「僕だって、質の悪い会話AIに騙されているような気分です」
「でも、あなたの話が本当だとしたら、〈パシフィカ〉は本当にエンを代弁者に選んだのでしょうか」
武田は振り返り、カハラを見ました。カハラも顔を上げました。
「だって、〈パシフィカ〉がダイエル・クシーを死に追いやったんですよ。彼女が本当に未来の災いに影響を及ぼすような人物だったかどうかは別として、彼女の死によってエンは感情抑圧反動に陥ったんです。そんな状況でこんな荒唐無稽な話をさせられて、『ああ、クシーの死は社会の貢献のためだったのか』なんて解釈を彼ができると思いますか。本当にパシフィカの代弁者になろうだなんて思えますか」
「パシフィカンでも、ノン・パシフィカンでも難しいでしょうね」
「なら、タケダさん、あなたはどうなんですか。〈パシフィカ〉の代弁者なんですか?」
「いや」武田は再びフェンスに腕を置いて、視線を水面に落としました。
「あの日以来、僕は〈パシフィカ〉とは話していません。対話インタフェースだったコンピュータは行方不明になり、事実上対話は不可能な状況です」
「〈パシフィカ〉の正義は正しいと思いますか」
「分かりません」武田は拳を握りました。
「ただ、間違っていると声高に言える理由は一つも持っていません。所詮、犯罪をすべからく根絶し、すべての人が不当に利益を奪われることのない世界をつくる――そんなものがただの夢物語でしかないということを僕は分かっているんです。過去、東京はそれをやろうとして、挙句犯罪者予備軍が増えに増えながら、人は〈CNS〉を受けるメリットを忘れ始め、そして堰を切ったように犯罪の濁流に飲まれた訳です。僕はその東京Xデーで母を失いました。その後、父と共に犯罪のない世界を求めてここに移住してきたんです。だから、たった五人の犠牲で百人の命が救われるというのなら、僕は、僕は――迷うことなく、レバーを引いてしまうかもしれません」
「タケダさん、あなたはやはり知っているのではないのですか。何故、エンが行方を眩ませたのか」
「〈パシフィカ〉発見から一週間後、バークが僕の自宅を訪ねて来たんです。そして、それがバークとの最後の会話になりました」
「エンは何て?」
「〈パシフィカ〉の暴挙を止める方法を教えて欲しい、とのことでした」
「エンは暴挙と表現したんですね」
「ええ。バークが心的に疲弊している状態なのは僕も分かっていましたが、なるべく丁寧に対応しました。それで、僕は全覚言語汚染が理論上可能であることを話したんです」
「全覚言語汚染を引き起こす
「いいえ、僕だってそんなものは知りませんし、研究をしたことはありません。ただの思い付きでした。だが、バークはそれを訊くと、まるで水を得た魚のように顔に精気を取り戻して帰っていったんです」
「この方法はあなたの思い付きですか?」
「いえ、昔指導教官から聞いたものですが、全覚言語研究者なら誰でも思いつきそうな類のものです」
「とはいえ、今、あなたが思いついた方法で全覚言語汚染が引き起こされている――〈パシフィカ〉の力が削がれている」
「そうですよ!」武田が吠えました。彼が吠えるのを訊くのは五年ぶりのことでした。その響きが霧散すると同時、運河の水位が外海と同じになり、運河は再び静かになりました。
「僕がヒントを与えた。僕が力を与えた。そして今、与えた力で全覚言語汚染が起きている。そうです――」武田は振り返り、開き直った表情でカハラを見ました。
「僕は確信しています。全覚言語汚染を引き起こした犯人は、エン・バークしかあり得ないと」
カハラは何も言わず、唇を固く閉じたまま武田をじっと見ていました。
「僕を非難したいのならしてください。バークを反〈パシフィカ〉の――言うなればテロリストにせしめるのに僕は助力してしまった」
カハラは僅かに首を横に振りました。
「エンがノン・パシフィカンの深みに堕ちてしまったのは、あなたのせいじゃありません。クシーさんを失い、不安定な状態で〈パシフィカ〉の真実に触れた。エンは堕ちるべくして堕ちたんです。主治医失格ですね、私」
そう言って彼女は実服の袖で目元を拭いました。
武田は何も言いませんでした。握った拳でフェンスを小さく二度叩きました。
運河脇にある街路樹の裏で、シュルク・セワンは一つ息を吐きました。
退勤した武田に接触するカハラを見つけてこっそり後をつけてみたら、街路樹の裏に隠れて思わぬ会話を盗み聞きすることになってしまったのです。
セワンはそっとその場を離れ、通信環境を拵えました。
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