私は聞いています

 識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを利用した全覚言語汚染は可能である――その事実が技術災害対策室TDPOに共有されると、様々なところで議論が紛糾し、あらゆる分析が施されました。しかし犯人を絞るための決定的な情報はなく、議論は平行線をたどるばかりでした。

 乱立する説の中でも最も説得力を持っていたのが、彼の者が〈ロスト・ワン〉であるというものでした。

 あらゆるパブリックエリアは複数の観測機器の観測下にあります。そのような超監視社会のパシフィカにおいて、監視からの――束縛からの解放を望む社会の外れ者こそ彼ら〈ロスト・ワン〉です。

 とはいえ、パブリックエリアで監視カメラの死角が存在しないこのパシフィカで、ログから完全に姿を消すことは困難を極めます。それゆえに、最大多数派の妥協的〈ロスト・ワン〉たちはあらゆるログからの消失を成し遂げるのではなく、全覚言語オールセンスからの解放を――パシフィカによる支配からの解放を主目的としていました。それはあるいはオフラインの旧型〈スマート・アイ〉の利用による、あらゆる副現実インフォメーションからの解放であったり、〈理性の声に耳を傾けよ〉の影響を受けずに極夜帯で酔いつぶれるといった些細な反抗に過ぎませんでした。

 その〈ロスト・ワン〉の頭目とされている人間こそ、エイワ・ベックという自称テッククリエイターです。ベックは光学とパターン認識に高い技術を持つ人間で、パシフィカの各種解析装置を攪乱する多くの仮想柄を提供していることで名を知られています。しかし、そう名乗る者と思しき人物はもう長いこと、私は見てもいませんし、その足音すら聞いていません。今でも時折仮想柄の新作が公開されますが、それが同一人物によるものなのかすら把握できていない状況です。

 ベックという人物についての情報が共有されると、セワンはその人物こそ今回の犯人かと言いました。もちろん、その可能性はありました。ただ、ベックがロストしてから二十余年、彼は一度も私に直接的な攻撃を仕掛けてきたことはありませんでした。もちろん、ベックが技術的な面で何らかのサポートをしている可能性は高いでしょう。しかし、断定のための材料はどこにもなく、議論の方向は漂流するばかり。今夕はそれ以上の成果を得られなかったようです。

 夜0時八分。新奇犯罪課NCDのビルから出てきた武田洋平に向かって歩いて来る一人の女性がいました。

「タケダさん」

 武田は彼女の姿を認めると眉を上げました。

「カハラさん」

「ちょっと、お時間よろしいでしょうか」


 武田とカハラの二人はビルから歩いてすぐの運河脇のベンチに腰かけていました。海面上レベルの自然光区レベルCは水平線に沈みゆく太陽の金色の雫が広がったように赤く輝いていて、運河の波間にその煌めきが宝石のように散りばめられています。

「私、この全覚言語汚染を引き起こした犯人が、分かる気がするんです」

 カハラの突然の告白に、武田は驚く様子を見せませんでした。ゆっくりと首を回し、カハラの横顔に目を向けます。

「私はエン・バークの主治医で、彼は典型的な感情抑圧反動の症状を呈していました」

 武田は何も言いません。無言で続きを待っていました。

「感情抑圧反動は」カハラは続けます。

「合理主義者程、陥ったときの反動が大きいものです。つまり、彼のような終身名誉パシフィカンこそ、最もノン・パシフィックな存在になるリスクも大きいということを意味しているんです。ねえ、タケダさん、今回の犯人の候補は絞られているんですか」

「守秘義務があるので」武田はそう予防線を引きましたが、直後にぼそりとこぼしました。

「けれども、TDPOからは一連の全覚言語汚染について公式に何も発表していないという事実は確かにありますね」

「〈ロスト・ワン〉の犯行なら、尚更発表するはずですものね」

 武田は目を見開きました。「今、〈ロスト・ワン〉って」

「分かってますよ」カハラは武田に向かって微笑みました。

「このパシフィカで行方不明と言ったら二択しかないでしょう。人知れずプライベートエリアで死んだか、〈ロスト・ワン〉になったか」

「つまり、あなたは――」武田が歯切れ悪く言いました。

「エン・バークこそこの全覚言語汚染の首謀者であり、また彼が同時に〈ロスト・ワン〉である――そう考えている訳ですね」

「ええ」カハラは強く頷きました。

「もし本当にそうであれば、彼の主治医として、彼の病理を真剣に治療したいとそう考えているんです」

「主治医として? 彼を治療したいと?」

 武田が訊き返すと、一瞬間を置いてからカハラは答えました。

「いえ。これは私自身の問題です。私は彼を助けたいんです」

 武田は一つ大きく息を吸いました。

「……いいでしょう。あなたの思いに免じて、話せることをお伝えしましょうか。カハラさん、まず最初に全覚言語オールセンスを汚染させる方法をご存知ですか」

 カハラは首を横に振りました。「いえ」

「全覚言語系の進化の評価軸を狂わせるんですよ」

「評価軸?」

「全覚言語系は二つのAIから成り立っています。音素フォニム光素フォトニム速素ヴェロシティム――これら様々な全覚素を用いて全覚文を作り上げる発話AI、それら全覚文の発話ログと人間たちの行動パターンを統計的に、あるいは神経学的に分析し、その効果を抽出する評価AI。進化論で言えば、前者が淘汰される側の生物種、後者が淘汰する側の淘汰圧――環境ということになります」

「ということは、発話ログに残らない手製の全覚文を使えばいいということですね。それも、不特定多数の人間の行動パターンに作用させるような。そうすれば、適切な評価ができなくなる」

「ええ」武田は頷きました。

「でも、どうやって全覚文の発話を? パシフィカ搭載の全覚素の放射設備を使えばログが残るし、直接人工感覚器官に刺激を送れば回避はできますが、情報の送信ログが――」

「もっとアナログな方法ですよ」

 はっとしたようにカハラは口を開けました。

「非人工の感覚器官に対して、指向性の刺激を送ればいい、ということですね」

「ええ、もちろん、使えるものは限られています。光素フォニムならほぼ全員が搭載している〈スマート・アイ〉のログに残りますから評価AIに補足されますし、音素フォニムだって〈スマート・イヤー〉の普及率を考えれば現実的ではない」

「味覚」

 ぽつり、とカハラが言いました。

 武田は何も言わず、曖昧な笑みを浮かべていただけでした。けれども、カハラはそれを肯定を受け取ったようでした。

「人工舌の普及率は著しく低いし、栄養管理も食べ物の栄養分析を直接行うのではなく、〈スマート・アイ〉の画像分析を利用するのが主流。それなら、味覚に影響を与える化学物質の混入をして、それで人間の行動に影響を与えることが――」

 そこでカハラは言葉を詰まらせました。顔をしかめて武田を見ます。

「そんなことできますか」

「唐辛子を入れれば、水分の摂取行動の頻度を有意に増やすことができます」

「あ」カハラは目を丸くしました。

「何も、全員の行動を変える必要はないんですね。たまたま唐辛子が平均的に過剰に摂取された空間と、〈理性の声に耳を傾けよ〉の発話ログが重なれば、評価AIは〈理性〉の効果として、水分摂取量を増やす働きがあると見積もるかもしれないと」

「ええ。そして不特定多数の人が入る飲食店は基本的にパブリックエリア扱いですが、建物内すべてがパブリックではない。ログに一切残らず、そのような人間行動に作用を与える物質を混入することはできます」

「一ついいでしょうか」

 カハラが恐る恐る訊きました。

「何でしょう」

「基本的な理論は分かりました。ただ、そのような全覚言語汚染を狙って引き起こせる粒素パーティクリムは本当にあるのでしょうか」

「それは分かりません。ただ、既知の全覚素は氷山の一角です。存在しないことを証明するのは不可能です」

「それでは、犯人はどうやってこの方法を見出したんですか。全覚言語オールセンスに精通した人間ということになります」

「あるいは、そのような者から入れ知恵を受けていたか」

 カハラが口を閉ざしました。彼女は何かを言おうとしましたが、しばし口元が震えて言葉が出てきませんでした。武田は辛抱強く待っていました。

 運河の先で水門が開き、水が音を立てて流れ始めます。ようやくカハラが震える声で言いました。

「それはつまり、犯人に入れ知恵をしていたのは、あなた、ということですか」

 武田は何も言わず、静かにベンチから立ち上がりました。ゆっくりと運河脇のフェンスまで数歩進んで、波間に揺れる太陽の雫を眺めました。

「これをあなたにお伝えすべきかどうかなのか、僕には分かりません。でも、僕に自由意志がないのだとしたら、そんな決定論に従うのなら、これもまた導きということになるんです」

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