私に盾突く不届き者は確かにいるのです

 レベルGF12区の全覚文汚染現象に関して、新奇犯罪課NCDの画像分析エンジニアがその現象が始まる二時間程前の映像ログに不自然な歪みがあったことを発見したのは、事件の二日後の朝六時五十三分でした。

 そしてちょうど出勤してきた夕組の武田と、同じく夕組へ切り替わったセワンの二人がその時刻の仮想F12区に降り立つことになりました。

「極夜帯でこの人通りとは、店の存続も怪しいですね」

 周囲を見渡しながらセワンは言いました。

「仮想環境の時間は夕七時十分ですからね。ちょうど朝組の夜遊びも完全に捌けてきた頃でしょう。あと一時間もすれば夕組がぞろぞろとやってきますよ」

 武田とセワンは全覚文の再現をすべてオフにし、光素系全覚文を弾いていました。極夜帯らしからぬ無機質で殺風景な街並みを時折真っ白な実服の人が往来するだけの空間が二人の前には広がっています。

「ARも全覚文も弾くと、人間がすべて記号に思えますね」

 不気味そうにセワンが言います。

「僕たちもその一部です」

 武田が言います。

 程無くして、不自然な偏光現象が観測された地点にやってきました。ブロック内を縦断する幅5メートル程の非主要道で、人影は全くありません。

「さすがに、人影が全くないのはおかしいですね」武田が眉をひそめました。

「そんなことがほとんど起きないようモジュールは配置され、〈ユイ〉もルートを形成するはずなのに」

「〈縄張りの外に出るな〉が発話されている可能性は」

「どうだ、〈リュシャン〉」武田は天蓋に向かって話しかけました。

『発話ログを見ましたが、人の経路選択行動に影響を与える全覚文は〈理性の声に耳を傾けよ〉以外にありません。〈縄張りの外に出るな〉の発話は半径百メートル以内、前一時間以内には確認できません』

「異常事態ですね」セワンが唇を噛みました。

「あとは、外的デバイスによる全覚文の発話が行われた可能性があります」

「外的デバイス?」セワンが振り返り、鼻筋に皺を寄せました。

「全覚文の発話を行う携帯型のデバイスですよ。基本的に全覚文はパシフィカ各地に搭載された種々の刺激放射器と拡張感覚器官への情報送信によって行われますが、それを行う機械ですよ」

「そんなものがあるのですか」

「とは言っても、携帯型デバイスで放射できる刺激には限りがありますから、発話させられる全覚文の種類も絞られますけどね。それに、そんなに高度なものではないですよ、これは。例えば、音素系全覚文に限って言えば、既存の楽器だけで発話できる全覚文――いや、全覚もある訳です」

「それなら、発話AIのログに残らず〈縄張りの外に出るな〉を発話できると」

「基本は光素フォトニム粒素パーティクリムの複合系全覚文ですからね。まあ、それらの勾配を勾配素グラディエンティムとして昇華させるのが難しいのですが、高度な気流分析AIとその分析結果に紐づいて放射を行える光線銃にアロマがあれば不可能ではないでしょう。〈リュシャン〉、粒素パーティクリムの――科学物質の観測ログはないか。〈縄張りの外に出るな〉の構成素となる有機物の痕跡は」

『残念ながら』武田の〈リュシャン〉は即答しました。

『観測機能を備えたモービルやドローンの類は不在でした』

「ちょうどそのタイミングを狙ったみたいですね」セワンが眉間に皺を寄せました。

「それなら」武田はすぐに頭を切り替え、〈リュシャン〉に命じます。

「〈縄張りの外に出るな〉の発話があったかどうか、それともたまたま人通りが途絶えていたのか、統計分析によって明らかにしてみましょうか」


 仮想武田と仮想セワンは青白い仮想レベルGの上空百メートルに浮かんでいました。その天蓋は地上三十メートルしかありませんが、レベルGを俯瞰するために天蓋を透過させた仮想レベルGを拵えていたのです。

 様々なログデータを統合して作られた人間の位置情報が赤い点として次々と仮想レベルGの街路にプロットされていきます。十秒と経たずして、赤い点の波はレベルG全域を覆いました。人工密度は武田の目には均一には見えなかったことでしょうが、それが密なところと疎なところが半砂漠地域の植物相タイガーブッシュのように幾何学的なパターンを形成していました。

「あそこを見てください」

 ただ、セワンが指さした場所――F12区――だけが不自然な程に密度が疎になっていました。それも、急峻な密度勾配は綺麗な同心円を描いていたのです。

「円形脱毛症みたいですね」

「不適切な比喩はやめてください」

 との武田自身の発言とは対照的に、仮想武田は随意的な笑みを浮かべました。

「とはいえ、統計分析するまでもなく、このパターンは〈縄張りの外に出るな〉のそれに違いないでしょう」

『同感です、武田』〈リュシャン〉が言いました。


 仮想武田と仮想セワンは再び等身大の仮想レベルGの街路に戻っていました。彼らがいたその場所は、「円形脱毛症」の中心地です。

 その地点で不自然な偏光現象を観測したのは、その路地の天蓋部に埋め込まれた広角監視カメラでした。

 武田とセワンはそのカメラの映像に視点移動しました。

 次の瞬間、二人は真上から路地を見下ろしていました。円形の視界を東西に横断するように路地があり、その上下の半円をそれぞれ商店モジュールの壁面が覆い尽くしています。視界の数秒前まで路地の上にあったはずの仮想武田と仮想セワンのアバターは消えていました。

 数分間、息を潜めるように声を発さず、武田とセワンは路地を見下ろしていました。

 そのとき、視界上部、商店モジュールの三階の窓が開きました。中にいた誰かは〈縄張りの外に出るな〉の受話を免れていたようです。その人影は窓の外にかけていたプランターの植物に水をやり始めました。

 そのとき、それより少し下部、路面の一部がちらつきました。白い路面に浮かぶ微かな汚れのゲシュタルトが、水に揺蕩う墨汁のように静かに、されど確かに歪み始めたのです。

 そのゆっくりとした波打ちは上部の人が水やりを終え、建物の内部に引き上げるまでの間だけでした。窓が閉まると、その歪みは消え、路面の汚れはまるで今までの揺らめきが嘘のように確固として佇んでいました。

 武田とセワンはそれぞれ両隣の監視カメラに視点移動しました。パシフィカの監視カメラは同じ区画が最低二か所から見えるようになっています。画像をもとに三次元の仮想環境をつくるためです。二か所では不十分なことも多いのですが、後は空間補完系のAIがよしなに補完してくれるため、再現率九十五パーセント超の仮想再現環境を作ることができるのです。

 その歪みの位置が観測できたのは、西側の監視カメラの方も同様でした。そして、窓から人が水やりをしたのと同じ時間に、同じような路面の揺らめきが観測されていたのです。


「間違いありません、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュです」

 自分のデスク脇、宙に浮かぶ仮想二次元スクリーンに展開された〝歪み〟を見たダラン・セーガンは椅子を回すと、脇に立つ武田とセワンに向かってそう断言しました。技術災害対策室TDPOの一員で、仮想髪はないながら年齢不詳の中性的な顔立ちに少年のような体格――典型的な他性の外見でした。

「アンコンシャス・カモフラージュ」

 セワンがその響きをなぞるように言いました。

「人間が視界に入れたものを認識できる表示時間には閾値スレショールドがあるんです。約40ミリ秒程ですが、それ以下の時間しか投影されなかった画像を脳は確かに受け取りますが、認知はできない。これも原理は同じです。完全に見えないことを目指すのではなく、カメラそのものを騙すのではなく、その画像を分析する機能を騙すことに注力する。言わば妥協的な部分迷彩ですね。完璧な完全迷彩は今もSFの範疇ですから」

「じゃあ、これは一体」

「完全な迷彩を作るのではなく、観測機器が情報を処理する段階で、その処理から漏れる程度の誤差までは許容するというコンセプトのもと、世紀半ばから各国の軍隊が技術開発を進めてきたものです。観測機器や観測する人間の情報処理能力を徹底的に調べ上げ、それにのみ認知できないよう情報を改ざんする」

「つまりこれは」武田が言葉を継ぎました。

「完全な光学迷彩などでは端からなく、パシフィカの監視環境に適応して生まれた、パシフィカの監視網だけを掻い潜れる、対パシフィカ特化迷彩という訳ですね」

「さすが、タケダさん。ご名答です」

「でも、よく分かりましたね」

「上空の角度から人間が見たら明らかに迷彩が剥がれていると判別できるからですよ。こんな真上から人間が見ることがありますか。せいぜい画像認識AIや仮想環境再現AIが利用するばかり。今や人間が直に監視カメラの映像を見ることなんてほとんどありませんからね。この識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュ――言うなれば対パシフィカ迷彩は、通常では見ない角度から見ることで簡単に検出できるという訳です」

「よく、新奇犯罪課うちの画像分析エンジニアはこれを見つけられましたね」

「なんだ」驚いたようにセワンが声を上げました。

「見つけたのはうちの捜査官ではなかったか」

 すると、セーガンは鼻で笑いました。

「PCDの方々はツールを使っただけで満足しているじゃないですか。私どもも各技術の専門家を擁していますから、言ってさえくだされば知恵を貸せるのですがね」


 ダラン・セーガンによれば、いかなる迷彩であっても、完全光学迷彩が機能するのは、対する視点の、任意の二視点以下の場合だけだと言います。三視点以上を相手にする場合には、齟齬が生じて完全迷彩状態が崩れることがあるようです。

 画像内に〝歪み〟が出現したときは既に二つの監視カメラの視界内に入っており、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュはそれに対して完全光学迷彩状態をキープしていたようでした。だが、隣接する商店モジュールから窓の外のプランターに水やりをするために人が出てきたことにより、視点数が三になり、監視カメラは〝歪み〟を捉えたのです。

「でも、それが本当なら、迷彩をまとった何者かはどうやってこの場にやってきて、どうやって消えたのでしょう」

 セーガンのもとを離れ、更なる分析のため仮想ワークステーションに向かう最中、セワンは武田に訊きました。

「街中にいた犯人が道中で識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを発動させた、という可能性はありませんか」

 武田の思い付きに、セワンは首を横に振りました。

「すぐに画像認識AIが〝ロスト〟を検出して、アラートが出ます。照合不可の人間でも同じですよ」

「ちなみに、直近のロスト件数は?」

「三年連続ゼロですね」

「ですよね」武田は口に手をやって考えました。すぐに彼は立ち止まりました。

「待ってください」

「どうしました」

識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュが完全光学迷彩を成立させられるのは二視点に対してまで。パシフィカ内で、一つ以下の監視カメラにしか映らない場所はありますか」

「パブリックエリアではゼロのはずです。最低二つのカメラの視角には入るように〈ユイ〉はモジュールは配置しているはず」

「ならプライベートエリアは?」

「それならいくらでもあるでしょう。プライベートなんだから――あ、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを発動させたままプライベートエリアに消えたと? 近隣のモジュールの中にいると?」

「あくまで可能性の一つですが」


 仮想レベルGの青白いパノラマの上空五十メートルから、仮想武田と仮想セワンは街路を見落としていました。

「〈リュシャン〉、位置情報マッピングを」

『はい』

 すぐに青白いパノラマに人間の位置情報が赤い点としてプロットされました。その中にぽっかりと空いた円形の空白地帯が二人の真下にありました。〈縄張りの外に出るな〉によって人が払われた跡です。

「セワンさん、四次元仮想空間にダイブした経験は?」

 セワンはあからさまに顔をしかめました。「一回だけ……」

「戻したんですね」

 武田が言うと、セワンは目を反らしました。

「大丈夫です」武田は一歩宙を歩いてセワンに近づきました。

「一回目で吐く人間は過半数ですが、その中で二回目にも吐く人間は十人に一人と言われています」

「分かりましたよ」

「では、〈リュシャン〉!」

『分かったわ』

〈リュシャン〉は武田とセワンの視覚野に流す情報を四次元へとボストロム変換し始めました。二人の視界に写っていた三次元の仮想レベルGに新たに時間軸が生まれ、人間の位置を示していた赤いプロットが時間の前後方向に伸びていきます。そして赤い線たちは、対応する人間の移動ログに合わせて空間の水平方向へと移動を始めました。

 程無くして、四次元の仮想レベルGは赤い無数のうねる線によって覆われました。〝歪み〟の観測地は無数の赤いうねりの中にぽっかりと空いた四次元球型の空洞として表現されています。そして、その四次元空洞球から、赤い断空間に囲まれた空白地帯が洞穴として何本も伸びていたのです。

「あの洞穴が、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを使ったまま通りうる動線ということになります」

 何本もの洞穴は分岐し、プライベートエリアに差し込んだり、別レベルへと行くエレベータへと繋がっていました。

「これだけ穴があるだなんて。本当に識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを維持したままパシフィカを移動できるとは」

「この分析を別レベルへと拡張してみますか」

『分かったわ』

 すぐに、円盤上だった仮想レベルGの上下に別レベルが付加されていき、時間断面で見ると、完全に三次元のパシフィカの姿そのものが見える四次元パシフィカが形成されました。

 そして、四次元空洞球から伸びる四次元洞穴は時間距離が長くなるにつれ、無数に分岐し、徐々に赤に変わって青の時空間――追跡が不可能になり、識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを外して堂々と街路を行けると推定される――が広がっていきました。そして、二十四時間もの時間距離が隔てたパシフィカは完全に青一色になっていました。

 武田とセワンは仮想環境を出て、仮想ワークステーションに戻ってきていました。セワンはすぐにバランスを崩しへたりこんだが、一分もすれば元通りに歩けるようになりました。

識閾下迷彩アンコンシャス・カモフラージュを使って、あの時、あの場所に行くのは、事実上誰でもできたってことですね」

 セワンは震える声で言いました。

「ええ、今回は離散殺人集合の時とは違う。全覚言語汚染を起こした犯人は――人間は、確かにいるんです」

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