私も彼を探しています

 レベルGのF12区で昏倒していたのは千名弱程でしたが、実際に急性アルコール中毒で医療モジュールに収容されたのは百名にも及びませんでした。ほとんどの人が〈あなたと共に歌いましょう〉で眠っていただけで、目覚めとともに医師らが簡単なヒアリングを行い、体調の問題がなさそうであればすぐに解放されたのです。

 武田とセワンもその作業を手伝っていました。〈あなたと共に歌いましょう〉の眠りから覚めた人々は往々にして錯乱していて、彼らの〈リュシャン〉に説得を試みさせていたものの、時にセワンの腕力が必要になることもあったのです。

 一方、武田は神経科医マリラ・カハラに同行し、汚染全覚文の受話者のヒアリングに同席していました。もっとも、汚染全覚文受話時の脳波データの提供に同意認証をもらうことが目的のほとんどではあったようですが。

 医療モジュールが元の病院の一部へと帰投を始めたのは、警報発令から実に十時間後のことでした。

 武田もその医療モジュールに乗り込ませてもらっていました。医療モジュールを縦断する廊下の椅子に座り込み、一息ついていると、隣いいですか、と声がかける者がいました。

「ああ、カハラさん」武田は顔の筋肉の緊張をほどきました。「お疲れ様です」

「タケダさんは新奇犯罪課NCDの方ですよね」

 カハラは単刀直入に訊きました。

「ええ、全覚言語管理局ASLAの研究員です」

「三か月前の離散殺人集合の捜査に関わっていた」

 武田は一瞬遅れて、緊張を隠すようにかすかに口角を上げました。「何故それを」

 カハラは隣の席に腰を下ろして、対面の真っ白な壁に目を向けたまま答えます。

「私、専門は全覚文性の神経症なんですよ」

「全覚文性の?」

「感情抑圧反動という症状はご存知で?」

「あまり詳しくはありませんが、名前くらいは」

「これは、パシフィカン特有のPTSDのようなものです。その中でも、特に合理的思考力と感情抑圧力の強い者に起きやすい」

「純パシフィカンの民族病みたいなものですね」

「国外からはそう思われていますよ。事実、そう診断された患者は国外にはいませんからね。それで、この感情抑圧反動ですが、何らかの刺激によって抑圧できない程の激情に晒された人が、その感情抑圧力を一時的に失うというものなんす」

「つまり、合理的な思考力を失ってより感情的になると」

「ええ」カハラは頷きました。

「あくまで一時的なものなので、適切なセッションを受けていれば一、二か月程で回復します。ただ、中にはそのままずるずると感情の渦に飲み込まれてしまう人もいるんです」

「ちょっと待ってください」武田が声を挟みました。

「今、何らかの刺激と言いましたが、具体的にはどんなものがあるんですか」

「そうですね」カハラは顎に手を当てました。

 武田は息を飲みましたカハラはその音を聞いてから、ゆっくりと武田の方へ首を回し、彼の瞳を覗き込みます。

「目の前で近しい人が殺されるのを目撃する、とか」

「まさか……」武田は呆然とした顔つきでカハラを見返しました。

「エン・バーク捜査官のことを、言っているんですか」

 カハラは何も答えませんでした。黙って、武田に目で訴えていました。

「僕は」その眼力に屈した武田は目を外しました。

「三か月前、創発性全覚文による殺人多発現象――離散殺人集合の捜査でバーク捜査官と共に事件を追っていました。一週間足らずの間で五人が死にました。発話制限によってそこでぴたりと止みましたが、奇妙な事件でした」

「けれども、あの全覚文には発話主体はなかったんでしょう? 自然災害のようなものだったって」

「ええ。個人、準人、法人の暴走でもなかった。僕たちは裁くべき、あるいは治すべき相手を見つけられなかったんです」

 滞っていたものをすべて吐き出すように言ってから、武田はカハラに目を向けました。

「カハラさん、あなたは感情抑圧反動に陥っていたバーク捜査官の主治医だったんですね」

 カハラは頷きませんでした。けれども、返事を待つまでもなく、武田はその事実に確信を持っているようでした。

「それで、一体僕に何を聞きたいんですか」心ばかり武田の声の張りが固くなります。

「僕は恐らく、あなたが知っている以上のことを知ってはいないでしょうから」

 水に打たれたように、カハラの視線がぶれました。

「あなたの気持ちは推察できますよ」武田はその表情に一瞥をくれてから言いました。

「主治医として、感情抑圧反動――不安定な状態にあった患者が三か月診察に来ないというのは気がかりでしょう」

「違うんです!」カハラが初めて声を張り上げました。その感傷的な響きに、今度は武田が眉を上げる番でした。

「私、エン・バークとは小学生以来の付き合いなんです」

「そうでしたか」武田は申し訳なさそうに俯きました。

「小学生時代のあの人のあだ名知っていますか?」

「いえ」

「終身名誉パシフィカン」武田は思わず吹き出しました。

「最早、悪口を越えて、畏怖の念を覚えていたんですね」

「ええ」カハラは顔を上げ、細めた目で淡く発光する天上を眺めながら言いました。

「誰もが憧れ、誰もが畏怖した徹底した合理主義者。常に正しい選択をすることにかけては、誰も彼に敵わなかった。タケダさんは、小学生のとき〈トロッコ問題〉クリアできましたか?」

「いや」と武田は首を横に振りました。

「僕がパシフィカのときには十五年前なので……そもそも受けたことがないんです。でも、話は聞いたことあります。トロッコ問題を利用して、倫理観に惑わされずに合理的思考を試されるかのVRですよね」

「質の悪いことに、レバーを変えた先にいるのはいつだって仲の良い人や好きな人なんですよ。小学生でそんなものができるような人はいません。皆が皆、怯えて、叫んで、感情の渦に飲まれて正しい選択ができなくなる。でも、彼だけは違った」

「迷わずレバーを引けたんですね」

「バーク少年は迷わず私をひき殺しました。そのせいで半年くらい本気で彼と口を利かなかったこともありましたが――」

 ふと武田がカハラの横顔を見ると、彼女は笑っていました。不随意筋の筋電は上昇していません。自然と彼女の感情が生み出した笑いでした。

「そのエン・バークとの再会が、私の診察室だったんです。笑っちゃうでしょう」

 武田は笑いませんでした。

「あなたは、主治医として、そして一個人として、バークさんの心配をされているんですね」

「そうです」カハラが武田の腕を掴みました。

「何か知っていることはありませんか」

 武田はそっとカハラの手を払いながら立ち上がりました。

「残念ながら、僕があなたに教えられる情報は何もありません。何故なら、僕も同じだからですよ。エン・バーク捜査官の行方を探しているのは」

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