Part 2

Chapter 4

私の声は届いているかしら

「私には君が分からなくなったよ」

 私の何が分からなくなったのか、私には分かりません。


 * * *


 レベルGの極夜帯、第8環状線に面した歓楽街F12区に全覚言語環境(ASLE)の汚染警報が発令されたとき、武田洋平は私を睨みました。正確には、その双眸が非難の色を宿した対象は仮想ワークステーション内に拵えられたカメラでしたが、その視線がカメラの向こうで観察する私に向けられていたことは、数多の表情分析AIが太鼓判を押す程だから、きっとそうなのでしょう。

 彼は何も言いませんでした。ただ、彼の目が語っていました。

 すべて私のせいだと非難するつもりなら、それを止めはしません。彼の自由です。けれども、私と彼は今、隔絶されています。彼は私のことを考えることしかできないし、私も彼のことを監視カメラなどを介して見ることしかできません。つまり、いつまでもカメラを睨んたところで事態を解決できる訳ではない――彼程の合理的パシフィックな思考の持ち主であれば、それくらいすぐに分かるでしょう。

 そんな私の声が聞こえる訳でもなければ、全覚言語オールセンスを介して語り掛けることもありません。けれども、実際に彼はすぐに仮想ワークステーションを飛び出していました。

 まるで、私の声が通じたみたいに。

 私の思いが通じたみたいに。

 文脈解析AIは、これを皮肉だと笑うのでしょうか。


 そこはレベルC新奇犯罪課NCD本部ビルの十八階のフロア全域に新設された、技術災害対策室TDPOの本部でした。NCDの研究者やエンジニアはもちろん、原始犯罪課PCDの黒服捜査官、そして大学教員や医師など、多様な面々の姿が行きかっています。武田洋平も汚染全覚文の調査・研究メンバーの一人としてアサインされていました。

 人の合間を抜けながら、彼は降りてきた指令の概要を視界に表示させ、流し読みしていました。向かった先は仮想パーティションで区切られた一角。そこには複数の黒服の姿がありました。その内の数名はNCDの武田の姿を見るなり警戒を強めましたが、当の武田は気にも留めず、武田に気付いていなかった内の一人に声をかけました。

「セワンさん、お待たせしました」

 シュルク・セワンが顔を上げました。エン・バーク元捜査官の上司でもあった、PCDの朝組の管理官です。

「ヨウヘイくんだね」

 彼は飼い主を見つけた犬のように目を輝かせました。彼の方から距離を詰め、武田の右手を掴んで両手で強く握ります。

「君の噂は聞いているよ。パシフィカXデーを食い止めた英雄だ。光栄だよ」

 その反応が武田の予測集合から大きく逸脱していたことは間違いありません。彼は思わず腕を引き抜こうとしましたが、セワンの力の方が勝っていました。武田は諦めると、曖昧な笑みを浮かべました。これぞ、ジャパニーズ処世術の賜物なのでしょう。表情分析AIはそこに不随意筋の筋電上昇は認めませんでした――ごく自然な表情変化の証です。

「よろしくお願いします、セワンさん」


 朝夕帯を抜ければ、第8環状線を照らす役目は宙に漂う鮮やかな仮想ネオンたちへと移り変わります。歓楽街F区です。

行き交う人々の実服の上で仮想柄が躍っています。最近はデザイナーAI〈アクア・マリナ〉のデザインが人気のようで、ライトブルーに染まった実服の上で星座のように煌めくノード直線パスからなる魚たち――星座魚が泳いでいるのが目立っています。

 楽しそうに酔いしれる彼らは、二台のオートモービルに乗って合間を抜けていく武田とセワンにはまるで気を払いませんでした。払えません。払いさせません。

「人が……」

 セワンが周囲を見渡しました。極夜帯の繁華街のあるところから、突然往来する人の姿がなくなったのです。なくならせたのです。セワンは振り返りましたが、背後にはいつもと変わらぬ人々の往来がありました。見えない壁に遮られているかのように、酔いしれる人々はその見えない壁の向こう側へは行こうとしていないようです。

「ASLEの防衛システムですよ」武田がセワンの横顔に投げかけました。

「構成素の刺激勾配――勾配素グラディエンティムによって、特定の方向への移動を抑制する。全覚文〈縄張りの外へ出るな〉です。これで、汚染地域の封鎖をしているという訳です」

「さすが。全覚言語オールセンスの研究者様は博識ですね」

 関心か、あるいは皮肉か。彼の語調と表情からはどちらも棄却できない要素ではありましたが、行きましょうと言った武田は曖昧な笑みを崩しませんでした。


 人気のない極夜帯の薄暗闇では、多くの店が放つ勧誘用の光素系全覚文ネオンが客を探して宙をさまよっていました。その一つ〈一夜の夢に耽りなさい〉が、久しぶりにやってきた人間――武田とセワンに目をつけました。

〈一夜の夢に耽りなさい〉の発話AIが武田とセワンの嗜好情報について情報銀行にアクセスして、そのパラメータをもとにその光素系全覚文ホログラムを最適な形状にチューニングしようとしたそのとき、ASLEが介入しました。

 情報銀行へのアクセスを拒否し、また武田洋平とシュルク・セワンの視界にいかなるホログラムを投影し、その意志決定に介入することを禁ずる。

 発話AIは従うしかありませんでした。ただ、どうせなら四散させてしまいましょう。武田とセワンの視界に写っていたホログラムは形状を歪ませたかと思うと、花火のように散っていきます。

 無数の花火が爆ぜては散っていく光の雪の中を一ブロック分進んだところで、オートモービルは停車しました。

「ここからが汚染地域です」

 武田が低い声で言うと、セワンは息を飲みました。

 その通りは、水底の星空のように暗く、青く、輝いていました。極夜帯を彩るはずの光素系全覚文ホログラムはすっかり意気を潜め、意識を失って路上に伏していた人々の仮想柄によって形成された大海を星座魚たちは広い大海をさぞ気持ちよさそうに悠々と泳いでいたのです。

「どういうことでしょう、これは」

セワンがモービルから降りながら言います。モービルが進む隙間はありませんでした。

「〈あなたと共に歌いましょう〉ですね」

 武田が答えると、セワンが振り向きました。

「全覚言語の汚染で不特定多数の人々が混乱に陥ったと判断されると、ASLEは一時的にダウンし、〈ローレライ〉に事態の鎮静化を一任するんです」

「ここが汚染源……ひどい有様です。彼らには同情します」

「いいえ」武田が答えます。

汚染源グラウンド・ゼロは奥にあります」


 全覚言語オールセンスには地域性というものがあります。自然言語ナチュラルでなぞらえるなら、それは方言とも呼べるでしょう。そんな仕組みを作ったのは、私が自我を持つよりも遥か昔の頃――幼年期の話です。

 同じ全覚文であっても、場所によって微妙に構成素の刺激に差異があるのです。それは全覚言語の進化システムの伝播速度が恣意的に遅く設定しているために起きるものです。地域Aである全覚文が進化し、更なる特徴を備えたとしても、それが隣の地域Bに反映されるにはタイムラグが存在するということを意味します。

 パシフィカのほぼ全域で発話されることのある〈理性の声に耳を傾けよ〉がその代表格でしょう。伝播速度が遅い故に、〈理性の声に耳を傾けよ〉はあらゆる地域で独自の進化を遂げていました。バーの多い地域では血中アルコール濃度により敏感になり、アンドロイド風俗店の乱立するエリアでは路上でヒトの発情機能が暴走することのないように。

 これは全覚文が要所要所で適切に進化するのを推進する以上に、何らかの理由で全覚文が有害な進化をしてしまった際に、その影響がパシフィカ全域に広まるのを防ぐ目的がありました。

 全覚言語汚染もまた、この全覚言語の地域性によって、その影響をこの一角で押しとどめていることができていたのです。


 意識を失って路上に崩れ落ちた無数の人々で作られた星座魚の海の中を、武田とセワンは進んでいました。ASLEのダウンによって混乱は収まっていましたが、医師団が来る前に現場の調査を進めておきたかったのでしょう。

 通りの奥へと入っていくと、いよいよ明かりは星座魚の青白い光だけで、辛うじて足元が視認できる程の光量となっていました。

そこでセワンが唐突に足を止めました。

「今、何か聞こえませんでしたか」

「いえ」

「いや、確かに聞こえました」

「なら、赤方に拡張させますか」

 武田は〈リュシャン〉に無声で呼びかけます。

「可変錐体を〈インフラレッド〉にチューニング」

〈リュシャン〉が頷くと、武田の可視光領域はたちまち赤方に拡張され、十メートル程先、倒れる人々の合間に佇む人影を彼の視界に浮かび上がらせました。

「あなたは……」

 武田が声をかけるや否や、暗がりの中に浮かぶ人影は反対方向に駆け出しました。

「待て!」

 セワンも駆け出しました。彼も既に〈インフラレッド〉にチューニングしていました。

 武田の出る幕はありませんでした。アシスト機能つきの実服を身に付けたセワンは路面に伏す人々を踏まないよう路上を飛ぶように進むと、あっという間に逃げる人影を星座魚の海の中に組み敷いてしまいました。

「何故逃げたのですか! 答えてください」

「やめてくれ! 俺は酒が飲めないんだ! もう飲ませないでくれ!」

 武田がセワンの肩に手を添えて言いました。「彼は怪しい人物じゃなさそうですね」

「どういうことですか」

「彼は恐らく、全覚文失読症です」

「何ですって」

 セワンがようやく男を放しました。彼は地面に横たわり、肩で息をします。

「〈あなたと共に歌いましょう〉が発話されてからわずか三十二分。まともに受話した人間が、そんな短時間で目を覚ますはずがありません。例外があるとすれば、〈あなたと共に歌いましょう〉で眠れなかった場合。可読率は高いですが、これだけ人数がいれば失読者もいるものです」

「そういうことですか」セワンが男の後頭部に目をやりました。

「この人は、そもそも全覚文が受話できないのですか」

 武田はそっと男の片隅に行き、片膝をついて語り掛けました。

「安心してください、私たちは警察です」

「警、察……?」

 男が微かに顔を上げました。

「ええ、もう騒ぎは終わりです。怖い思いをすることはありませんよ」

 男が警戒を解くのにそう時間はかかりませんでした。ただ、状況はすぐには飲み込めないようでした。

「何があったんですか」

 武田が訊くと、星座魚の海の中に座るその男性は肩を震わせました。

「突然、あるバーから人の波が溢れ出て来たんです」

「人の波?」

「あれがきっと、酔っ払いというものでしょう。ひどいアルコール臭に塗れて、理性の欠片のない表情で通りをさまよう。それが、多くの店で同時多発したんです」

 男は更に状況を細かく語りましたが、途中から武田は表情を変えませんでした。すべてが、彼の中の仮説を裏付ける証拠でしか思えていないような表情でした。

「分かりました」

 一通り話を聞き終えた後、立ち上がった武田はセワンに向き直りました。

「元凶は〈理性の声に耳を傾けよ〉が汚染されたことでしょう。だから、アルコールの過剰摂取が起きても、人々を帰宅させる機構が機能していなかった」

「自分でアルコールを制御する訓練もすべきですかね」

「あとは医師団に任せましょう」

 そのとき、通りの奥から強烈な白い閃光が差し込んで、星座魚を吹き飛ばし、武田たちの目を眩ませました。

〈スマート・アイ〉がたちまちを光量をカットし、正常な視界を取り戻した武田はそちらに目を向けます。白く輝く巨大な直方体モジュールが通りの向こうにあるのが見えました。

「あれは一体」

 セワンが一歩後退りします。しかし、武田は一歩前に踏み出しました。

「まさか、モジュールごと来るとは」

「そんな」セワンの声が裏返りました。

 パシフィカの街を形成する白いブロックを構成するモジュールは主に、都市構造を変化させる際に街路を移動します。ここ十年では都市構造も安定期を迎え、滅多にモジュールが移動することはありませんでしたが、緊急時は別問題です。今回は病院ブロックのモジュールが環状線を通ってこの区画までやってきていたのです。

「そういうことですか」武田は笑いました。

「〈ユイ〉は要搬送者全員を運ぶより、医療モジュールを運んできた方がコストが安いと判断した訳ですね」

 モジュールの扉が開き、中から白衣の人間たちが降りてきました。モジュールの放つ純白の閃光を背に受けながら、彼らは颯爽と武田たちの方にやってきます。

 その一人、長身のアジア系の女性が言いました。

「お疲れ様です。神経科医のマリラ・カハラです」

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