在処
〈アイデンシティ仮説〉の提唱者、マイケル・マクファデンは二〇〇三年の生まれで、二〇四〇年のパシフィカ建設当時、パシフィカ中央大学に准教授として招かれた科学者の一人でした。
脳の神経網のふるまいを計算機で再現する神経計算学の研究者で、後に〈シェン・ルー〉の名で知られることになる全脳エミュレータの開発プロジェクトに関わっていたり、神経計算を光学的に応用したネットワーク最適化モデルは流通業界に応用され、今でもセントラル・パシフィック社の倉庫街の屋台骨になっていたりと、業績の豊富な方でした。
その彼がロストしたのは二〇四六年です。
武田から〈アイデンシティ仮説〉の話を聞き、個人でマクファデンの行方を追っていたエン・バークもすぐに彼があらゆるログから
そして当然着目したのは、マクファデンが消失する直前、二〇四六年のログです。
二十四年前と言えど、このモジュール都市はその性質上、外観からその年代の推定モデルをこしらえにくいものになっていました。真っ白で直線的な構造物と、同じような実服に身を包んだ記号的な人々。どこまでもフラクタル的構造を持つ都市には、人間が認知地図を形成するのに必要な引っ掛かりというものはすべからく排除されているのです。
二〇四六年の仮想レベルGにバークは一人降り立っていました。白昼帯のオフィス街、Id5区です。無用な商用全覚文が飛び交うことのない、光に溢れた清潔な白の街並みがどこまでも広まるここでは、行き交う人々の実服の仮想柄も、白とライトブルーを基調としたフォーマルなものばかりです。
「本当に二〇四六年か、ここは」
『ええ、そうですよ、バーク』バークの〈リュシャン〉が答えます。
「街並みだけじゃ、二〇七〇年と区別がつかないように見える。解像度も現実とほぼ同じか」
『白昼帯のオフィシャルな区域はそうでしょう。極夜帯の繁華街に行けば、溢れる
「計算資源の無駄だ」
『
〈リュシャン〉の声が歪み、その
目標の人物を示す逆ピラミッド型のマーカーがなければ、誰がマイケル・マクファデンか、バークはすぐには分かりませんでした。彼もまた、ライトブルーを基調とした仮想柄の実服に身を包んでおり、その出で立ちは多くの画像認識AIが壮年のビジネスマンと混同する程でした。
「彼がどこに向かっているか分かるか」
すぐに、マクファデンがこれから歩むことになる青い仮想足跡が地面にぼうっと浮かび上がりました。
それは人を回避するために少し曲がったり、歪んだりしていましたが、マクファデンはそれを奇妙なくらい自然に辿っていきます。バークは彼と共に、仮想足跡を辿って白昼帯の街並みを歩いていきます。
一分と経たずして、交差点の角に面した一つのビルのエントランスに彼は吸い込まれましたが。閉まった自動ドアをすり抜けて、バークはマクファデンを追います。
小さなエントランスの奥にあるエレベータにマクファデンは乗りました。ここから、彼がエレベータでビルの四階に行ったことはすぐに分かっています。そして、そのまま行方を眩ませたことも。
バークもエレベータに便乗しようとしましたが、その仮想体は見えない壁にぶつかりました。
「プライベートエリアか」
パシフィカの街路や公共施設内のようなパブリックエリアと違い、このビルの内部は所有者の権利レコードに情報権の記載があるプライベートエリアです。個人で捜査をするバークには、A級権限による
それに、二〇四六年当時、〈スマート・アイ〉の普及率はまだ五パーセントにも到達していなかったこともあります。つまり、簡単に着脱可能なコンタクト型ディスプレイが主流だったために、ログに残したくない時には、これを外すことでそれを簡単に実行できたのです。案の定、失踪直前のマクファデンはご丁寧にそれを外していました。
つまり、彼がこのビルの四階で一体何をしていたかはいかなるログにも残っていません。
けれども、二十四年という歳月は別のアプローチでプライベートエリアへ侵害する方法を見つけていました。
『バーク、〈
「ちょうどいい。分析を初めてくれ」
いくらプライベートエリアといえど、内部の情報すべてがプライベートという鉄壁な城壁の中に秘匿されている訳ではありません。窓際であればある程度の会話音声は漏れるし、通信トラフィックは外部のA級権限でアクセス可能な場所にログが残ります。つまり、内部の状態を推測するための情報はいかなるところに残っており、そこから最も尤度の高い――ありえそうな――状況を統計的な
『エレベータの中を再生するのは
「任せた」
『ついでに、あなたに翼も授けるわ』
その瞬間、バークの体はゆっくりと宙に浮遊しました。そのまま上空二十メートルまで浮かび上がり、青空を模した天蓋が数メートル上空にまで迫ります。続いて仮想体は水平移動を始め、そのビルの壁をすり抜けました。
そこは典型的なオフィスビルの一室でした。がらんどうとして広い空間に、整然とデスクやら不定形ソファが並んでいます。仮想化は大分進んでいましたが、ところどころに小物が散らばっていました。
その奥にあるフリースペースで、不定形ソファに座るマクファデンの姿がありました。不定形ソファはアメーバのようなソファらしからぬ奇抜な形状に変態していましたが、マクファデンは背筋を伸ばし、微動だにしていませんでした。実際に彼がそのような姿勢だったのか、〈逆行再生〉の結果そう判定されたのか、蓋然性補足AIによってそうすべきと判断されてそのような姿勢で再生されたのか分かりませんが、それは然したる問題ではありません。
体面する一人の人間の朧気な輪郭が向かい合う不定形ソファの上にあったからです。〈逆行再生〉はその人物の推定まではできないようで、人の輪郭を作るのが精いっぱいのようでした。
「コンタクトディスプレイは外してきましたよね」
輪郭だけの人が訊きました。声は鮮明だったが、歯抜けの部分は文脈補完AIによって補完されていたために、声紋分析の結果は望み薄でした。
「もちろんです。街のカメラのログには残っていますが、このプライベートエリアの内部まではA級権限を持ってしても、追うのは不可能です。いずれは逆行分析によってこの会話が再生されることでしょうが、あと二十年はかかるでしょう」
「そこまで未来のことなら、気にする必要はないでしょう」
人影は笑ったような声を上げました。「ところで」
「アイデンシティ仮説が導く未来は本当なのですか」
マクファデンはすぐには答えなかったようでした。
「教えてください」
催促に応じて、ようやくマクファデンは答えます。
「私は、本当だと思っています。これは、ファーストコンタクトです。ただ、〝オーバーロード〟は遥か宇宙からやってきたのではない。進化の渦の中から現れ、そして私たちの自由意志を踏みにじる――そんな存在です」
「それを防ぐためには?」
「防ぐことはできません。〈アイデンシティ〉を導くための数多の技術が、論文という形で公開されているこの時代です。〈アイデンシティ〉の到来は必至です。いや、〈アイデンシティ〉は既にあるのです。私はただ、それを見つけたに過ぎません。私が何かをしたところで、どうこうなる問題ではないのです」
「発見したのはマクファデン教授――あなたでしょう?」
「それは、ただの偶然です。仮に私がいなかったら発見は遅れたかもしれませんが、本質的な解決策ではない。遠からず、〈アイデンシティ〉は人間に有害なものになるのです」
「どうして有害な方向に行くと?」
「最適化のアルゴリズムに倫理が埋め込まれていないからです」
「つまり、このパシフィカは遠からず滅亡に導かれると?」
「それは分かりません。ただ――」
「ただ?」
「遅らせることはできる。来るべき〈アイデンシティ〉の発露――そして暴走に備える時間を確保することはできるんです」
「どうやって?」
「全覚言語体系の掌握です」
「ほう」
「
「どうやって、
「エイドリアン・チェンという研究者がいます。全覚文の危険性を顧みず、次から次へと新しい全覚文を生み出している。彼は間違いなく、これからの全覚言語を担う、〈アイデンシティ〉に力を与える存在になります。その彼を消すことが、大きな一歩に繋がります」
「消す?」ゆっくりと復唱してから、輪郭は大いに笑い声をあげました。
「まさか、あなたからそんな言葉が聞けるとは」
「私は真面目に言っているんです。あなた方なら、それくらい造作のないことでしょう。パシフィカにしか居場所がない――けれども、監視社会に縛られることも嫌う存在。あなた方――〈ロスト・ワン〉なら」
一方その頃、
マイケル・マクファデン『事後解釈理論の応用による複合系の意識獲得』
アイデンシティという単語は全く載っていませんでした。ただ、事後解釈理論という単語と、集合体の意志を解析しようとしている意味が認められるこのタイトルから、武田は間違いなくこれこそ〈アイデンシティ理論〉のことだと直感していました。
実際、序文にはこう記されていました。
――不敗神話を築いたオメガ碁が最後まで有効な手が有効である理由を説明しなかった[1]ように、様々なAIは我々凡人に手ほどきをしてはくれない天才と同じである。ここで私たち技術者、科学者に求められることは、その理由をいかに言語化し、門外漢にも分かるよう翻訳する技術の開発である。ここで、同様の問題を抱えていた問題として、人間の自由意志がある[2]。人間の自由意志を説明する理論は数多く存在する[3][4][5]が、その中に事後解釈理論と呼ばれるものがある[6]。これは人間には真に自由意志なるものはなく、実態は脳内のインタープリタ・モジュールによって解釈された錯覚であるという説であり、実際に全脳エミュレータ、シェン・ルーではこれを基にしたインタープリット・アルゴリズム[7]によって、シェン・ルー=マスタの感じていること、考えていることをシェン・ルーの
つまり、と声にならない声で武田は呟きました。
全覚言語体系も、ここでいう「複合系」であり、適切な計算手法があれば、この全覚言語体系の意志たるものを解釈し、言語化することができる。全覚言語系が何を考え、どういった理由でこの行為に及んだのかを知ることができる。
ただ、これはあくまで
もちろん、武田はアイデンシティという単語や、マイケル・マクファデンの名、そして参考文献もすべて洗い出していました、しかし、彼とその〈リュシャン〉が見つけられたのはこれだけでした。正式な査読付き論文に至っては皆無でした。
通常、査読付き論文を発刊する前段階に、何らかの発表会でこのような
武田はファルシードにもメッセージを送っていました。有名な論文ならともかく、いくら勤勉な彼とはいえ政治家の彼がこんな
彼は一体、どこでその言葉を知ったのでしょう。
返事はすぐに来ました。
――ご存知の通り、ファルシードという名前は私が政治家として活動する上でのハンドルネームです。私がまだ本名で学生をしていたのは、二〇四〇年代です。もう予想はついているかもしれませんが、私はマクファデン研究室の卒業生です。当時、彼が〈アイデンシティ仮説〉についての研究をしていたことは、研究室のメンバーならだれもが知ることでした。ただ、私が卒業するのと同じタイミングで、彼は突然大学を辞め、そしてその数か月後、行方をくらましてしまいました。もし、これがあなたの役に立つのなら、お使いください。
メッセージに添付されていたのは、〈アイデンシティ仮説〉についてのプレゼンテーション資料でした。プログラムこそないものの、
武田がそれを読み切ったとき、彼は腕をだらりと落としました。
「そんな、まさか――」
そのとき、新たな通知を〈リュシャン〉が彼に伝えました。通話でした。発信元はエン・バークとあります。
「バークさん、何か分かったんですか」
「〈アイデンシティ〉の行方だ」
武田はすぐには答えられませんでした。バークが続けます。
「マイケル・マクファデンは〈アイデンシティ仮説〉の検証にパシフィカの公共計算資源を使っていなかったんだ」
「どうしてそれを」
「説明は後だ。今から座標を送る場所に来てくれるか。〈アイデンシティ〉はローカルコンピュータで、パシフィカの公共計算機と独立に計算されている」
「まさか、そのローカルコンピュータの在処を?」
「ええ、突き止めましたよ、タケダ。あなたが言う、〈アイデンシティ〉は確かにそこにあるんだ!」
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