〈ダイエル・クシー〉

 パシフィカンが身につける純白の実服はあらゆる光素フォトニムに染まります。

 パシフィカ文学は、実服を真っ白なキャンパスに例える傾向がありますが、それは全覚文によって適切な行動を補助してもらう必要が生者にはあるからです。

 一方で、死した者にはその全覚言語オールセンスの加護が降りかかることはありません。全覚言語オールセンスに頼って初めて『人間』になれる弱きヒトの殻を捨てるとき、人は自由になるのです。

 そういった理由で、あらゆる光素フォトニムを吸収するヴァンタ・ブラックのスーツに身を包んだ一団がダイエル・クシーの葬儀にやってきていました。

 レベルGの最外縁部、厚い強化プラスチック窓を隔てて太平洋の海中に面したディープ・ブルー葬儀場で彼女の葬儀は執り行われていました。ナノマシン・エンバーミングで生前以上に生き生きとした死に化粧を施された彼女の遺骸を収めた棺の向こうには深遠な青が広がっていて、鯨たちが鎮魂歌を奏でていました。

 エン・バークもまたヴァンタ・ブラックの礼装に身を包み、葬儀場にやってきていました。しかし、その姿を見つけるや否や、ダイエル・クシーの母親、フェオドラ・クシーがやってきて、バークの前に立ちはだかったのです。

「あなたがエン・バークね」

 バークは一瞬答えに詰まりましたが、何も隠す理由は頭には浮かばなかったのでしょう。すぐにバークは答えました。

「そうです。この度は誠に――」

 バークの声はそこで途切れました。フェオドラの掌がバークの頬を穿っていました。

「一体どの面下げて来たのよ!」

 フェオドラはヒステリックな叫び声を上げました。

 バークは戸惑ったように一歩後ずさりしますが、踵を返して立ち去るようなことはしませんでした。

「あの子が死んだのはあなたのせいよ!」

 感情的なフェオドラの叫び声が、バークの耳を貫いていました。バークは少し俯くと、自分に言い聞かせるように小さく無声で言いました。

 パシフィカンたれ! パシフィカンたれ!

 一つ息を飲んだ後、バークは毅然とした表情でフェオドラの赤い顔をまっすぐと見返して言いました。

「いいえ、違います」冷静で、淡々とした口調です。

「ダイエル・クシーを殺したのは有害な全覚文です。今はまだその正体について、守秘義務故に詳細に明かすことはできませんが、近いうちにその正体を掴み、必ずや対策を練り、もう二度と、その被害者を出さないことを誓います」

 バークの物言いはまさしく建設的なものでした。パシフィカンらしい意見ではありますが、フェオドラのショートしかけの感情的な回路には油を注ぐだけでした。

「それでクシーは返ってくるの?」

 クシー家の親族たちがやってきて、感情に飲み込まれているフェオドラを抑え込もうとしました。その一方で、彼ら全員が同時に、バークに非難の目を向けていました。

 さすがに、バークもその目の色を理解していたようでした。

「殺したのは私ではありませんよ。全覚文です! 今はまだ警察の方で機密情報に設定されているために、何も共有できることはありませんが、ダイエルさんを殺したのは間違いなく――」

「もういいでしょう、エン・バーク捜査官」

 尚も論理的に反論しようとしていたバークの腕を掴んだのは、ファルシードでした。前時代的な出で立ちを好む彼も今日ばかりはヴァンタ・ブラックの礼装に身を包み、長髪は後ろで束ねて整えていました。

「ファルシード……?」

「エン・バーク捜査官。人の感情に寄り添って言動を考える――それもまた、合理的パシフィックな意志決定、違いますか?」


 ファルシードがフェオドラをなだめ、エン・バークを連れ出す光景の一部始終を見ていた、同じくヴァンタ・ブラックに身を包む武田洋平は重い足をそれ以上式場に向けて進めることができませんでした。あの事件では、エン・バークは同じ職場のダイエル・クシーを個人的に誘い、あの場にいたことになっています。武田にその責任の一端があることをフェオドラが知っていた可能性は著しく低いですが、自分もまた、招かざる客であると考えたのでしょう。彼はその場で踵を返しました。

『あれ、帰っちゃうんですか』

 その背中に残念がる女性の声が投げかけられ、彼は振り返りました。

 南脇にあるモジュール建造物の二階テラスの柵の合間から両足を投げ出してぷらぷらと遊ばせている黒いシルエット――死者の印――がそこにいました。

「そんな、まさか――」

顔のテクスチャも含め、個人を特定できる特徴量はすべて黒く塗り潰されていましたが、その少し砕けた話し方とシルエットの体格とから、武田はその正体に気が付いたようでした。

『タケダさん、わざわざありがとうございます。弔いに来てくれて、

「そんな、ダイエル・クシー準捜査官なのか……!」

『いいえ、元準捜査官です』

 顔のない黒いシルエットはけたけたと笑いました。


「随分と失礼なことをしていたものだ。ありがとう、ファルシード」

 ファルシードと、彼に連れられて葬儀場を離れたバークは、近辺の臨海公園のベンチに腰掛けて、一面の強化プラスチック窓の向こうに広がる遠大な青の深さに魅入っていました。

「いえ、俺がもっと警備にコストをかけていれば、クシーさんが犯人と俺の間に入ることもなかった。まさか俺を庇う形で死んでしまうとは」

「いや、犯人が超音波を放ったことは誰もが最初気が付かなかった。あのままなら、死んでいたのはあなただ」

「あの違法な人工器官は犯人が?」

 いや、とバークは首を横に振りました。

「出所はパシフィカ中央大学らしい。人工器官の研究をしていた学生が個人的に作ったもののようだ。どうやら倫理観に難のある人物で、高校時代に人工器官に殺傷能力を持たせるよう改造しようとした過去がある人間だった」

「まさか、二件目の被害者、マキマ・イザシンボ……?」

「彼と今回の犯人の具体的な関係は調査中です」

「犯行をせしめたのも、四件の事件と同じ?」

「間違いなくあれは創発性全覚文だった」バークが歯噛みしながら言いました。

「やはり」ファルシードはバークの横顔に目をやりました。

「非公開情報だから全容を話すことはできないが、あの創発性全覚文は信念の優先順位に影響する、極めて危険な有害性全覚文。だから、犯人は不整脈誘発音素フォニムを他人に使ったらどうなるか実験したくなり、クシーもまた、自分の死がメンターである私にどれだけ心的インパクトを与えるか実験したくなった」

「二番目の事件と同じですね。生身の人間の耐久度を実験したくなり、同期をテラスから突き落としたという」

「ええ。よくご存じで」

 バークはそれ以上続けませんでした。ファルシードが一つ咳払いを挟んでから言います。

「失礼を承知で言わせてもらうが、バーク捜査官、あなたは感情抑圧反動では」

「そうだ」バークは動揺を見せることなく、淡々と言いました。

「医者にもそう診断された。合理的パシフィックにせねば、と考えるあまり、判断基準を見誤っていたようだ。何とも無様極まりない」

「クシーさんの死の真相をこれからも追っていくのですか」

「どうだかな」皮肉めいた口調でバークは笑いました。

「一応今は停職中となっているが、復帰したところで捜査担当は外されるだろう」

「それは分かっていますよ。俺が訊いているのは、あなたが個人的に捜査を続けるつもりかということです」

 バークは思わずファルシードに目をやりました。

「どういうつもりだ」

「警戒しないでくださいよ」ファルシードは、大げさに両手を上げて降参の素振りを見せました。

「俺だって、真実を知りたいんです」

「自由意志の重要性と全覚文依存の危険性を訴えるためのエビデンスに採用するためか」

「その気持ちが全くないことは、否定しません」

 ファルシードは潔く認めました。バークはきまり悪そうに後頭部をかきました。

「ただ、目の前で人がなくなった――それは俺にとっても変わらぬ事実なんですよ。あなたと違って、亡くなったクシーさんとは旧知の仲ではありませんが、だとしても俺にとってのあの事件は衝撃的なものであることに変わりはないんです」

「だとしたら、どうして原始犯罪課PCDを当てにしない? 私は停職中だ」

「これはあくまで俺の予想ですが、犯人はいない、と思ってます」

「誰かが仕組んだものではないと?」

「PCDと新奇犯罪課NCDがタッグを組んで事件に取り組んで、既に四件もの有害全覚文の発話があった。ここまで有害全覚文が自由に暴れているのは、警察も苦労している証でしょう。そして、警察がかつて、解決に苦労した有害全覚文も、犯人はいなかった」

「〈あらゆる声に耳を傾けるな〉だな」

 バークが言うと、ファルシードは強く頷きました。

「あの有害全覚文は――人類が最初に遭遇した創発性全覚文は、全覚言語環境ASLEという生態系が生み出した自然現象だった。故に犯人は見つからず、その発話を禁じる対症療法でしか解決することはできなかった。けれども、人類は自然に創発される全覚文に精通した訳じゃない。第二の悪童症候群は必ず生まれる――俺はそう思っていたんです。そして、今回、新たなる創発性全覚文が牙を向いた。俺の考えでは、五件の事件に、創発性全覚文は四つある」

 バークは黙ったままファルシードが話すのを横目に眺めていました。ファルシードは続けます。

「今回の事件もまた、四種の創発性全覚文の発話制限をかければ解決するだろう。だが、これらが本当に自然現象であり、犯人がいないとなれば、次に現れる未知の創発性全覚文はどうやって食い止めるんだ? また牙を向くのを待ってから、その発話制限をかけるのか?」

「その方法では少なからず被害者が出る。根本的な解決をする必要がある」

「そうだ」

「ただ、どうやってやるんだ。創発現象は予測も制御も難しいと聞くが」

「けれども、全覚言語系の意志を――その物語を聞くことはできる」

「全覚言語系の、意志? 物語?」

 バークは首を傾げました。

「どういう意味だ」

「タケダ博士には話しましたがね、というより、タケダ博士がその可能性に気が付いた訳ですが、一連の事件――あるいは現象の、真実を掴めるかもしれないそうです」


「一体、あなたのは何者ですか」

 二階テラスからふわりと舞い降りてきた真黒なシルエット――ダイエル・クシー元準捜査官に向かって武田は問いかけました。

『それを今、知らなければならない理由を論理的パシフィックに説明していただけます?』

 武田が一瞬言葉に詰まったのを見て、シルエットはけたけたと笑います。

『強いていうならば、私の主はダイエル・クシー準捜査官ですね』

「どういうことですか」

『うら若くして死んだ乙女の無念ということでどうでしょう』

「いい加減にすべきです」

 珍しく武田が語気を強めました。

「主が誰かは分かりませんが、これは死者への冒涜です」

『これを冒涜だと感じているのはあなたの方でしょう? だって、私は何も感じない。死んでいるんだもん。むしろ、あなたたち生者の側が勝手に色んなものにタブーというレッテルをAR広告みたいにぺたぺた張り付けたんじゃない。そして、それを理由なく信じてる。受けいれてる。理由もなくね。非合理的な(ノン・パシフィック)! そうやって、〈サイ・ファン〉を死者再現から政治家再現のニッチに追いやった訳ですが、今度は〈シルエット・クシー〉はどこに追いやられるんですかね』

「分かりました。あなたの言う通りだ」武田は肩の力を抜きました。

「この際、あなたが何者であるか、あなたを作った主が何者であるかは置いておきましょう。それで、僕に声をかけた理由は何ですか」

『あなたの身の上話を聞いてみたいんですよ』

シルエットのクシーはステップを刻みながら武田の周囲を一周します。

「それを聞いてどうするんです」

『武田洋平、あなたはとても〝パシフィック〟な人じゃないですか』

 尚もゆっくりと武田の周りを歩きながら、シルエットは続けます。

『あなたがここに来たのは十五のとき、既にアイデンティティの形成が終わっている頃ですが、あなたは移住者にしてはとてもよくこの街に適応した。移住者の半数が五年以内にパシフィカを去る中でね』

「どこから僕のデータを?」

『三年前、あなたは一躍時の人になり、多くのメディアに露出しましたね。あなたの人生の断片の多くがそのときパブリックな環境に流れ込んだんですよ。東京Xデーの生存者、今度はパシフィカXデーを食い止める、って』

「ひどいレトリックですね」

『低級なコピーライターAIの成果物に噛み付くのはやめてくださいよ、武田さん』

「それで」武田は無視しました。

「その断片からでは知り得ないどんな情報を知りたいんです? ダイエル・クシー元準捜査官」

『あなたは確かに〝パシフィック〟ですが、それは言動を学習するだけの表面的な性格分析AIが導き出した短絡的な結論です』

「本当の僕は違うと?」

『私は知りたいんですよ。本当の、武田洋平を』

「僕は何も隠していませんよ」

 武田は身の潔白を証明するかのように、両手を広げて見せました。

『いいえ、あなたは過去に何度も〝ネーミム〟という単語をパブリックで使ったことがありますね。ただ、これはあなたが使いうるあらゆる言葉の辞書にもスラングにもない言葉。でも、意味の推定は容易い。光素フォトニム書記素グラフィムと同じ命名法。言うなれば、名素ネーミム。洋平という名はあなたにとっての全覚文ですか?』

「そうです」武田はあっさりと認めました。

「イニシャルがLの人が法律家Lawyerになる確率が他のイニシャルの人より高いというのはある種の誤謬だったかもしれませんが、名前というものは、その人がアイデンティティ生成期に受けるあらゆる刺激の属性と相関があることを示してくれるのかもしれません」

『洋平が太平洋のど真ん中にいることは、名素ネーミムが示してくれると』

「僕はそう思ってます」

『随分と非論理的ノン・パシフィックなことを言うものですね』

「僕はその魔法の秘密を解き明かしたかったんです。何故、僕の贔屓球団はビジターで全然勝てなかったのか。何故、ホームを照らす青いライトは妻を失い絶望しかかった父の自殺を食い止めたのか。そして何故、僕、洋平は太平洋上で暮らす人生を歩むことになり、父、海人は文字通り海洋生物学者として生きることになり、そして母、美夜火ミヤビは――」

『夜を照らす美しい火となったのか、と。』

「ええ、そうです」

「それらはまだ、全覚言語オールセンスという名前が広まる前の世界の話です。けれども、あらゆる刺激は環境に満ち溢れていました。それが時に全覚文として機能していたことが過去一度もなかった――そうであるとは僕には思えません」

『セイラムの魔女狩りも、アパルトヘイトも、クメール・ルージュも、東京Xデー最初期に跋扈した放火魔症候群も、悪童症候群と同じく何らかの有害全覚文の仕業であると』

「そうです。人間の意志決定を左右するあらゆるものが広義の全覚文なんです」

『つまり武田さん、あなたは自由意志というものをとことん信じていないんですね』シルエットは足を止めると、嬉しそうに言いました。

『ファルシードという名素ネーミムからなる全覚文があなたに言い知れぬ嫌悪感を与える真の理由が分かりました。憧憬ですね』

「何を……」武田は眉をひそめました。

『だって、そうでしょう。あなたの話を聞いて、私は。あなたは個人を準人と同列視してる』

 シルエットは再び武田の周りを回り始めます。しかし、先程よりも距離を詰めて、じわじわと、隙を探るように。

『あなたは自分や家族が辿ってきた道が正しいものであったと自ら思わせるために、自由意志を蹂躙したいんですね。かつて、認知行動療法や〈オーダーメイド神経治療CNS〉により、犯罪者あるいは犯罪者予備軍を治療することで最も犯罪の少ない都市となっていた東京。けれどもそこで起きてしまった東京Xデーで母を失い、原始犯罪を憎んだあなたたち父と息子はこのパシフィカに安住の地を求めてやってきた。その過去を選んだのは自分たちではない。自分たちに選択肢はなかった。これは仕方のないことだったんだ、って。だから、自由意志を熱く語るファルシードが、意志一つで未来をさも変えられるかのように謳うファルシードが羨ましい。妬ましい!』

「あなたは何者なんですか!」

 武田は振り返り、背後にいるはずの黒いシルエットに向かって手を伸ばしました。けれども、その手は空を掴んでいました。

『私が誰か、十分なヒントは与えられているんじゃないですかね、武田さん』

 けたけたと笑う声が武田の背中に投げかけられました。

 恐る恐る振り返った彼の目には、二階のテラスから足を投げ出している黒いシルエットの姿が写りました。

「そうか」

 武田が納得したように呟きました。

「あなたは光素フォトニムであり、音素フォニムであり、ダイエル・クシーという名素ネーミムを持った全覚文」

名素ネーミムって何なんでしょうね。このシルエットを〈シェン・ルー〉みたいにぺりぺりと剥がして、中から生前と同じ姿の仮想ダイエル・クシーを出したとすれば、肉体を持たない以外の違いが分からなくなっちゃうのかな? それとも皮を剥いで剥いで残るのは虚ろなる空集合? さて、お話はこれくらいにしておいて、また冒涜だって怒られそうだけど、そろそろ成仏する時間ね』

 シルエットはテラスから身を投げ出しました。

武田は思わず目を閉じましたが、体躯が地面に打ち付けられる音はしませんでした。彼が目を開けると、そこには黒いシルエットは影も形もなくなっていました。

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