QCV
夕七時三分、
本社はパシフィカの例に漏れず、純白の無機質で立方体型モジュールからなっていましたが、扉一枚をくぐったエントランスは内装を実物の木で拵えていて、白色であるはずの壁には仮想の竹林が投影されていました。
「エン・バーク殿。3Eへようこそおいでくださいました」
そう言って出迎えてくれたのは、〈モミジ〉と名乗る3Eの案内役AIです。〈リュシャン〉ベースのAIのようでしたが、エン・バークの前に現れた仮想体の彼女は朱く燃えるようなキモノに身を包み、裾を床に擦りながら歩いていました。
要件はすべてバークの〈リュシャン〉が〈モミジ〉に話しました。〈モミジ〉は仮想竹林の中の道を縫うようにバークを案内しました。
案内されたのは、枯山水の中にある藁葺の小さな小屋でした。
「私はこれで」
〈モミジ〉が去ると、小屋の反対側から和楽器の音色が聞こえてきました。
『筝という日本の伝統的な楽器ですよ』バークの〈リュシャン〉が補足しました。
小屋の裏手に回ると、その縁側で、筝とやらを奏でるアジア系の和装の男性がいました。彼はバークに気が付くと、弦を弾いて歓迎の音色を奏でます。
「3Eのエンジニア、トウショウ・ギオンですね。PCDのエン・バークです」
ギオンは握手に応じました。
「休憩中に申し訳ない」
バークが軽く一礼すると、控えめにギオンは笑いました。
「休憩中だなんてとんでもない、私はこれでも仕事中ですよ」
バークは眉をひそめました。ギオンが続けます。
「この仮想筝は、コーディングのためのインタフェースです。本物の筝の腕前はともかく、音色が微かなニュアンスを反映するように、私が本当にコーディングしたいものを音素によって記述できるのです」
「脳波コーディングではなく」
「脳波コーディングには雑念というリスクは常に付きまといますからね。最近のトレンドはアーティスティック・コーディングです。楽器を演奏したり、筆を取ったり――そういった芸術的発露を媒体にコーディングするエンジニアが増えておりますし、訓練を積む必要がありますが、慣れれば一番生産性が高いんですよ。それで、本日は一体どういうご用件で?」
「あなたが開発した全覚文発話AIについて話を伺いたく」
筝コーディングのエンジニア、トウショウ・ギオンの開発した全覚文自動発話AI〈ヤオヨロズ〉の特徴は全覚素のランダムなばら撒きでした。様々な刺激をばらまき、偶然による力を使って全覚文を発見します。とても効率的な方法ではありませんが、数打てば当たるを体現したようなAIです。正統な進化型のAIでは見つけられない全覚文を偶然見つける確率は明らかに高く、数こそ少なかれ、全覚文の新しい地平を切り開く可能性のあるAIでした。そして実際に、突然変異が進化に大きな可能性をもたらしたように、〈ヤオヨロズ〉も
今回の創発性全覚文四件のうち、三件でこの〈ヤオヨロズ〉が発した刺激が創発性全覚文の有害素として機能していました。最多です。〈ヤオヨロズ〉がこの離散殺人集合に最も関与している――バークがそう考えるのは至って
「――でも、創発性全覚文のすべての全覚素を〈ヤオヨロズ〉が作った訳ではないじゃないですか」
彼は棘のある声色で言いました。主観的にも客観的にも、バークが〈ヤオヨロズ〉を疑っていることは明白で、パシフィカンたるギオンにとってもそれは心地の良い事態ではありませんでした。
「その創発性全覚文の構成素をこの〈ヤオヨロズ〉が作っていたことは認めましょう。〈ヤオヨロズ〉はその性質上、全覚文としての体をなしながら、人間の選択行動に全く寄与しない構成素や潜伏全覚文を多く作り出します。けれども、その潜伏全覚文が有害な創発性全覚文の構成素として機能していた――それはただの偶然です。全覚文の発話AI同士は協力して全覚文を作ることはしません。それぞれが別個に全覚素となる刺激を放ち、その結合として全覚文を発話する。今回の一件は、私たちの潜伏全覚文が別の発話AIに利用された――そういうことになります」
バークは額に手を当てました。
「別の発話AIに利用された、か……」
「ええ、そうです」
「他の八社のエンジニアも皆がそう言った」
ギオンの手の力が緩んで、仮想筝は落ち――ませんでした。空中に浮かんでだまま、ギオンの腹の前で浮遊しています。
この夕が始まる前の夜、朝とで夜組、朝組が八社を訪れ、それぞれの時間帯で働いていた発話AIのリードエンジニアを訪ねていました。しかし、いずれも返答は似たようなものでした。少なくとも、その会話ログを見たバークはそう思っていたようです。
「創発性全覚文の全覚素を作った九つの別個の発話AI。どれもこれも、作った全覚素を利用されたという。一体何にだ? 歪んだ性的快楽を引き起こし、興味に倫理を上書きさせるこの有害な創発性全覚文を発話した主体は一体何だ?」
バークが問うと、ギオンは頭を下げました。そこでようやく、自分が筝を手放していたことに気が付いたようでした。
「エンジニアの一人が嘘をついているのか」バークは続けます。
「環境に存在する全覚素を利用する形で全覚文を形成する類の発話AIなら可能だろう」
ギオンが顔を上げました。
「そういう方式――便乗型の発話AIもあります。マリアナ・スコープ社の〈フリー・ライダー〉、ボロノイ社の〈ダイアグラム〉、シンタックス社の〈ユヴェラ〉……」
ギオンが列挙を終えるまで、バークは何も言わずにいました。
「今挙げた中に、聞き覚えがある発話AIはありますか?」
「あった」
バークが口を開きました。捜査情報の機密レベルの問題で、他の八社の会社名とその発話AIの名を告げることはバークにはできません。
「その発話AIのエンジニアも偶然だ――そうおっしゃったんですよね」
ギオンはそう言うと、筝の弦に手を伸ばし、弾きました。
「ええ、そうです」
「それが本当か、確かめる方法はあります。
更にギオンは単発で何度も音を発しました。彼の目はバークの横の中空に向けられていました。ギオンの視界にだけ、仮想ディスプレイが表示され、プログラムが旋律をコードに変換したものが表示されているのです。
「当時のASLEを再現し、実験をしてみるんですよ。発話AIが本当に便乗しているか――相互作用下にあるかどうかは、相互作用していると疑わしき全覚素を取り除いてシミュレーションをやってみればいい。もちろん、全組み合わせですよ。今回の例でいえば、便乗型の発話AIたちが発した八つの全覚素――それに便乗しているかを調べるためには、八つすべてが欠けた、あるいは発された状態に設定し、すべての組み合わせにおいて、便乗していると思しき発話AIの発する全覚素、全覚文に変異がなければ、便乗は完全になかったと証明できるという訳です。そしてこれを、今度はすべての発話AIに対して適用する」
話しながら、ギオンはいくらか弦を弾いていました。しかし、それはバークの耳には旋律には聞こえません。
「検索をしていました」
弾き終えると同時、ギオンが言いました。
「全覚文相互作用交差検定量子アルゴリズムは簡単に見つかりました。社会技術省の公式アカウントがリポジトリに公開しているものですから、これを是非お使いください。ただ、ASLEを完全に再現した上で量子アルゴリズムを回す訳ですから、サーバー使用料は嵩むでしょう。そこだけご注意を」
ギオンは再び弦に手を伸ばし、今度は短い旋律を奏でました。それはバークの心の隙間からするりと入り込むような音色で、次の瞬間にはバークの〈リュシャン〉はそのメソッドをライブラリとして会得していました。
「ありがとうございます。ギオン、これで捜査は続けられる」
〈リュシャン〉――バークは〈リュシャン〉だけに聞こえる声で呼びかけました。
「テストを始めてくれ」
「もう実行しています。実行終了予定時刻は朝二時五十七分。待たずに寝ることをおすすめします」
バークは丁寧に礼を述べて、3E社を後にしました。
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