Chapter 2

仮想ファルシード

「素晴らしい! 君は人類の希望だ!」

 原始犯罪を駆逐する。それが私の使命ですから。


 * * *


 よく教育されたパシフィカ人は、強烈なイデオロギーの提唱者の信奉者であっても、その脇の甘さを見逃したりはしません。それは歴史上の多くの過ちへの反省であり、人間の陥りやすい誤謬の罠への恐怖でもありました。

 総選挙を来月に控えていたパシフィカでは公開仮想討論会・質問会が盛んに行われていました。

 その中でも一番の人気を博していたのが、〈シェン・ルー〉の開発元でもあるチュンリー・インテリジェンスが配信する体感型仮想討論会〈ジャッジメント〉です。

 たとえば、その日、自由意志党の支持を表明していたルタン・クライーヌは〈ジャッジメント〉に参加していました。

 不定形床が椅子の形に変化し、クライーヌがそこに座ると、たちまち周囲の風景は一変し、彼は横並びにされた被告たちに審判を下す裁判長の立場にいました。

 クライーヌが見下ろすと、証言台の後ろに仮想法廷の被告人たち――各党の代表者が並んでいるのが見えました。

 西から、中期最適党MTOPの党首にして現首相グロ・ビーと、最大野党都市永続党ダイアスパーティの党首サスティーナ・ブルシテ。そして三人目に、ここ数ヶ月で急激に勢力を伸ばしつつある自由意志党の党首ファルシードの姿がありました。

 いずれも、AIが演じる仮想体です。しかし、〈ジャッジメント〉が利用している人格模倣AI〈サイ・ファン〉は行動パターンはもちろん、イデオロギーと深層心理の学習に特化したモデルであり、政治家の表情、言動――ありとあらゆるログを学習させることで、本人さながらの政治談議ができるまでになっていたのです。

「開廷!」

 天からの神々しく響く声によって、〈ジャッジメント〉は始まります。

「パシフィカという巨大な塊が太平洋を航行することにより、年間で漁獲高を上回る海生生物を死に追いやっている問題についてはどうお考えか」

 実服の代わりに重厚な質感の仮想ローブを見にまとったクライーヌは党首たちにそう投げかけました。

 仮想グロ・ビーが間髪入れずに挙手しました。彼女が七年もの任期を経ても支持率が60パーセント以上確保できているのは、彼女は社会問題を網羅的に分析することに長けているからでした。そして、いかなる会話補助AIなしでも、どのような分野の質問にも真摯に即答できる頭の回転の良さもパシフィカ人の信頼を掴む理由の一つだったのです。

 ビーはお世辞にも整った顔立ちとは言えず、そこには国家元首という言葉に負けそうな程に覇気の欠片も見られません。原始的なバイアスに塗れた人間なら間違いなく、貧乏な家庭の主婦――四半世紀前まで存在していた、家事を専門とする妻――とみなすことでしょう。けれども、パシフィカ人はあくまで合理的パシフィックで、小手先の美醜と話術の巧みさには騙されないのです。

 今回のクライーヌの質問は間違いなく解決の難しい難題でありましたが、クライーヌの視線は即座に挙手したビーには向けられていませんでした。

「ファルシード……」

 彼は一言でいえば、浮浪者――半世紀前まで存在していた、特定の住居を持たない流れ者――の恰好をしていました。破けたデニム生地のパンツに、しわのシャツ、無精ひげのある彫の深い顔立ちにまとわりつく、長くうねる。昔の映画のアウトローな出で立ちとは不釣り合いな、優等生的な挙手の仕草。

 クライーヌは彼を指名しました。

 クライーヌはファルシードと話すために〈ジャッジメント〉をプレイしていたのです。

「問題って何だ」ファルシードが口を開きました。

「それを問題と捉えるのは、現状と異なる理想的な状況を思い浮かべていて、それとのギャップを感じているからだろ」

 ファルシードは質問に質問を返してきました。公開仮想討論会では極力逆質問は行わないよう、人格模倣AIは選択的にその傾向を弾きやすいようパラメータは調整されているはずですが、それでもファルシードは逆質問を選びました。

 クライーヌはすぐには返答をしませんでした。彼のようなパシフィカ的支持者は、自分の支持する党がどこまで現実的に現実の問題に向き合っているかを、自分の信じる党が夢物語を語る中身のないカルト教団でないことを確認するためにこういう質問を行う傾向にあります。それを本当に問題と捉えているかは別の問題です。

 ファルシードの模倣AIはきっとそんな彼の目的を読み取っているかのように続けました。

「いいぜ。答えよう。こんな問題を掲げる人の多くが、無駄な殺生を滅ぼすべき悪だと根拠なく考えている。善とみなすべき合理的理由はないから、それは少なくとも仮説としては成り立つだろう。だが、彼らはどこを目指している? きっとこういうはずだ。漁獲以外のいかなる海生生物の殺生件数が0になることだ、とね」

 ファルシードは引き笑いをしました。

「それは本当に善か?」

 ファルシードは隣のブルシテ党首の肩に手を置きました。彼女は答えません。答えられなかったのです。今回クライーヌが実行している〈ジャッジメント〉では、指名された者以外は勝手に発言する権限を与えられていませんでした。その代わり、ファルシードの仕草を非難する目を仮想ブルシテ党首はぶつけました。

「恐らくは――過激な動物愛護主義者を除けば――持続可能な生態系の維持、それを善とみなすだろう。そうだろう、サスティーナ?」

 ファルシードはブルシテ党首に不敵な笑みを投げかけました。彼女はぷいと目を反らしました。

「その解が、殺生件数=0だとは限らないんだ。ロトカ・ヴォルテラの方程式は知っているかい? こいつは、捕食者と被食者の個体数変動を表す古典的な数理モデルだがね、その発見者の一人、ヴォルテラ博士は当時――第一次世界大戦後のアドリア海で起きた奇妙な現象をこの数理モデルで説明したんだ。

 戦争ともあれば、物資は減り漁業の継続も難しくなる。戦争が終われば、今まで捕っていなかった分、さぞ漁獲高が増えるだろう。漁師の多くはそう予想した。だが、漁獲高は減った。何故か。漁師が捕っていた被食者の増加は捕食者の増加をも招き、結果的に戦争後には被食者の数は減っているフェーズにあったからだ。

 つまり、迂闊に殺生をすべからく禁ずることは生態系の維持にとって最良かは分からない。故に、俺は迂闊に殺生件数=0を公約には掲げない。そんな虚言に騙される輩はパシフィカンに非ず! 俺が掲げるのは、海洋生物学への投資だ。お世辞にも、この百年、その分野は栄えていた学問とは言えない。全博士号取得者に占める相対的な割合は減り続けている。分野数の増加による効果を除去したとしても、明らかに斜陽な学問であることは否定できない。しかし、パシフィカはどこにある? 大洋のど真ん中だ。魚由来のたんぱく質をポルトガル、キリバス、日本に次いで摂取する我々パシフィカ人にとって、海は切っても切り離せない資源であり、環境であり、共に生きるべき盟友である。

 だから、パシフィカの航行が海洋生物を死に追いやっている事態については、その件数を減らすよう努力しよう。だが、0にするだなんて非現実的で非効率的で――ノン・パシフィックな公約は掲げない。だが、持続可能性を最大限に高め、海との共生をできるよう可能な限り投資をする――それは約束しよう」

 クライーヌはすっかり言葉を失い、それ以上質問を続けることなく〈ジャッジメント〉を終了させました。

 クライーヌが知る限りでは、そしてパシフィカのログに残る限りでは、その問題についてファルシードが発言した履歴はありませんでした。クライーヌはそんな話題を見つけ出し、それを質問したようですが、あろうことか仮想体ファルシードはビーと同じく迷うことなく挙手をし、クライーヌの問いに満足ゆく答えを返したのです。

 クライーヌにとっては、それで十分だったのでしょう。

 一人の支持者はまたもその信心を強め、仮想ワークステーションを後にしました。

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