発話履歴

 創発性全覚文を発見することは難しい。

 この三年、武田洋平がそう言った回数はログに残っているだけでも実に百二十七回にも及んでいます。

 けれども、既に見つけている創発性全覚文が他の時間、他の場所で発話されているかどうかを調べることは難しくない――そう言及した回数も三十四回。パシフィカにある刺激は無数あれど、特定の全覚素の組み合わせを探すのは単純な検索で済むからです。

 夜0時三十五分、既に定時は過ぎていましたが、レベルCの新奇犯罪課NCDオフィスの十三階、仮想ワークステーションで武田は、四機の四次元パシフィカのミニチュアと対峙していました。

〈スマート・アイ〉から視覚野に送る刺激にボストロム変換という逆射影を行うことで、それを処理した脳は空間があたかも四次元であるかのように擬似的に認識できるようになります。つまり、二地点を比較して見えるように、二時点を比較して見えるようになるのです。空間次元が三つと時間次元が一つ――その四次元パシフィカの俯瞰図が四つ、今彼の目の前にありました。

『タイムリミットは二十二分でセットしておくわ』

 武田の〈リュシャン〉が言いました。高次元視界は三次元世界で数十万年を生きてきたホモ・サピエンス種の脳に高い負荷をかけることになります。高次元酔いを起こせば、最悪の場合、二、三日は体躯の動作に支障を来します。三次元的な動きが平坦に思えて仕方なくなる、とは病院に担ぎ込まれた高次元酔いが口をそろえて言う言葉です。

「さあ、〈リュシャン〉、始めてくれ」

 それぞれの四次元パシフィカで、四つの創発性全覚文が過去に発話された地点、時点が同時にマッピングされ始めました。しかし、武田の予想に反して、どの四次元パシフィカにも発話履歴を示す赤い点は無数に散らばり、殺風景な半透明のパシフィカを赤く染め上げていたのです。

「これらの創発性全覚文は昔から発話されていたのか」

 一番古いものを見れば、〈逆は必ず真である〉の発話点の時間座標は実に十二年前を示していました。

「そしてそれは誰にも気づかれていなかった」

 武田が創発性全覚文を発見したのは三年前。もしや、と思ったのでしょう、彼は眉を上げました。それらの創発性全覚文は過去にも人を殺人犯に仕立て上げていたことがあったのではないかと。

 照合してくれ、と武田は〈リュシャン〉に頼みました。その返答まで数秒とかかりません。

『嬉しいお知らせか、悪いお知らせかはあなたの判断次第になるけれど』

〈リュシャン〉は珍しく前置きをしました。

『四件の創発性全覚文は、今まで誰一人人間を殺人犯に化かしていないわ』

「誰一人?」武田は眉をひそめました。

『ええ、すべて直近の発話で初めて牙を向いたみたい』

「全覚文同士の相互作用による文意喪失か」

 武田はぼそりとこぼしましたが、〈リュシャン〉ははっきりと拾っていました。

『創発性全覚文はデリケートで、他の全覚文の存在によって、容易く文意を喪失する――そうでしょう、ドクター・タケダ? 実に合理的パシフィックな判断です』

「話を聞ける者はあるか?」

『話を?』

「誰にも話していないだけで、創発性全覚文による意識への干渉を感じていた人がいるかもしれない。どの創発性全覚文でもいい、一番直近で、これらの全覚文の影響下にあったと思われる人をピックアップしてくれ」

『分かったわ』

〈リュシャン〉はすぐに四つの仮想四次元パシフィカの中から一つだけを大きくし、残り三つを高次元の隙間に折りたたみました。

 残った四次元パシフィカは創発性全覚文〈命賭けで〉の発話履歴の四次元プロットです。

 その拡大された四次元プロットを時間軸に沿ってみたときに、第四時間軸の最も大きい一点を〈リュシャン〉は明滅させました。三つの空間軸を読み解くと、そこはレベルDの倉庫街を示していました。

『彼を訪ねるのね』

「詳細を教えてくれ」

『セントラル・パシフィック社で働く夜組のオペレーター、ルタン・クライーヌよ』


 海面区のレベルDは多くの船舶ドックと倉庫街が広がる貿易レベルです。太平洋の貿易拠点としても機能するパシフィカの主要産業の中枢部分でもあります。

 居住区のあるレベルG~Iのフラクタル的モジュール都市とも、海面上区の緑地の上に林立する円柱型のオフィスビル林とも異なり、このレベルは圧倒的に物理的なテクスチャに満ちた街区となっています。それはひとえに、国外から運ばれてくる無数のコンテナにはAR規格が搭載されていないものも多く、また〈スマート・アイ〉はおろかコンタクトディスプレイすら搭載していない国外の船員が多く出入りするために、環境の仮想化は長らく座礁していたのです。

 夜二時十五分、オートモービルに乗ってコンテナ林の中を抜けていくと、やがて武田洋平の視界には何隻もの大型船舶が遠く見えるようになりました。その区画の中にあった一ブロックを占める程の、真っ黒な天蓋まで届く十階建てのビルこそセントラル・パシフィック社の本社です。

 そのビルの一室、仮想ワークステーションでルタン・クライーヌは武田を歓迎しました。

「仕事中にご迷惑おかけします」

 武田が軽く一礼すると、クライーヌは頭を振った。

「タケダさんはNCDの方でしょう。捜査に協力することはパシフィカ市民の義務です。幸い、私はオペレーターという身分ですから、基本の職務は各種運用AIの保守です。変な事態が起きなければ職務中でも対応はできます。それに、弊社は好効率的パシフィックな社風ですから、こういったことにも寛容なんです」

「お心遣いありがとうございます」

 頭を軽く下げながら、武田は〈リュシャン〉にだけ聞こえる声で言いました。

「性格分析を頼む』

『もうデータは集めているわ』

「――ところで」早速クライーヌは切り出します。

「ご用件とは何でしょうか。私はNCDのお世話になるような事態に遭った記憶もありませんし、何か大切な情報を持っているとも思えないんです」

「私たちはある全覚文を探しているんです」

「全覚文を?」

 クライーヌの声のトーンがかすかに上昇しました。パターン分析をする間もなく、その単語は彼の動揺を誘ったようでした。

「クライーヌさん、あなたはギャンブルはされますか」

「ギャンブル、ですか」ゆっくりと歯切れ悪く彼は復唱しました。

「友人に連れられてカジノに行ったことはありますが……」

「勝てましたか」

「若干負けました」

「楽しかったですか?」

「ギャンブラーの誤謬の誤謬を見るのを観測するのだけは、はい」

 武田は眉を上げました。「へえ」

 ギャンブラーの誤謬はその名の通り、ギャンブラーが陥りやすい認知の偏向です。コイントスで五回連続で裏が出たなら、表が出る――そう考えがちなのが人間で、これこそギャンブラーの誤謬と呼ばれるものです。パシフィカ人はこれらの誤謬の克服訓練を積んでいるためにこの手の罠に陥ることは有意に少ないですが、逆に誤謬を怖れるあまり、通常の誤謬とは逆の行動選択を取りがちになってしまう人もいます。つまり、五回連続で裏が出たなら、次は表が出るとは思ってはいけない――だから裏が出る。これこそ、ギャンブラーの誤謬の誤謬です。

 カジノでそれを観測していたということは、クライーヌはひどく冷静だったに違いありません。ギャンブルを好む傾向に欠け、まして何かに命を賭ける、だなんて馬鹿なことをするはずがない――既に〈リュシャン〉の性格分析モジュールはそう結論付け、武田に伝えていました。

「カジノはお好きではないのですね」

「〈理性〉に頼るまでもありません」

「それなら――」武田はそこで一旦呼吸を挟みました。その一瞬の間が、クライーヌの呼吸にも蓋をしました。

「命をベッティングすることにはどうお考えで?」

 クライーヌが目を見開きました。

『ひどく動揺してる』

 表情分析AIを起動していた〈リュシャン〉が武田の耳にささやきました。

『彼は間違いなく、を賭けた』

「あるんですね」

 武田がそう言うと、クライーヌは目を一旦反らし、逃げ場所を探すようにぐるりとさせてから、静かに頷きました。

「何があなたにあったのか、教えてくれませんか。私は探しているんです。あなたをそうさせた、未知の全覚文を」

 クライーヌは顔をあげました。

「やはり、あれは……全覚文だったのですか」


 ルタン・クライーヌは言いました。今から一ヶ月ほど前、彼は会社の同僚と賭けをしたと。それは今ピリオドで起きる事故件数という、褒められたものではない賭けでした。

 セントラル・パシフィック社の保有する倉庫では、多くのリフト型オートモービルが運行していますが、その航路が人の通行路と交差することは珍しくありません。何故なら通路を明示的に割り当てることは荷物の配置方法の集合を著しく狭めることと同じであり、人間の通り道とリフト型オートモービルの運行路とコンテナ置き場は都度最適化した方がより効率が良いからです。その思想のもと、神経計算学者のマクファデン教授がニューロンの軸索形成過程を模倣して作ったアルゴリズムで実現したものです。

 それでも、従事する人間が〈スマート・アイ〉移植率百パーセントのパシフィカ人であれば、AR経路ナビゲーターが絶対にリフト型モービルと接触しない経路を表示してくれるために、従いさえすれば接触事故を起こす心配はありません。けれども、海運業である以上、この倉庫には多国籍の船員が出入りすることが頻繁にあり、死者が出るような大惨事になったことはないとはいえ、この環境に慣れない国外の船員が時折接触事故を起こすことはありました。

 クライーヌは同じ職種の朝組のオペレーターと賭けをしていました。向こう二十三日間の接触件数が0か、1件以上か。過去三年分の統計から分析するに、これはどちらの選択肢でも勝率が五十パーセントという至極公平な賭けでした。そしてクライーヌは1件以上に賭けていました。

 しかし、二十二日と六時間が経過しても、接触事故は一件も起きていませんでした。当時、クライーヌは負けを確信してそうです。けれども、〈スマート・アイ〉の拡張機能〈俯瞰視点イーグル・アイ〉で倉庫が安全に稼働していることを確認していたクライーヌは突然、思い立ったと言うのです。

 

 リフト型オートモービルはときに数百キログラムの貨物を運ぶこともあります。軽い接触でも怪我では済まされないことは明白でした。そして、そんなことをすれば、クライーヌ自身が法的責任を負うということも。

 けれども、実際に、クライーヌはオペレーティングルームの設定をしていた仮想ワークステーションを飛び出していて、セントラル・パシフィック社のビルを抜け、オートモービルが駆ける倉庫の中を突き進んでいました。その様子はカメラのログにも残っています。その表情は百人中九十九人が「血相を変えて」と表現する類のものでした。

 クライーヌは歩いていた国外の船員を捕まえました。嘘の用件で話しかけ、足止めし、タイミングを計りました。船員のすぐ背後は、オートモービルの運行路であり、その十秒後にはその鉄塊が通過するはずでした。クライーヌはその船員を突き出そうと身構えました。

 そのとき、クライーヌの〈リュシャン〉が彼の耳にささやきかけたのです。

『職務を逸脱していますよ、クライーヌ。ただちに仮想ワークステーションに戻ってください』

 それで、クライーヌは我に返りました。オートモービルは船員のすぐ背後を通過していきました。


「あのとき、僕は本当に、どうかしていたとしか思えないんです」

 武田に向かって、懺悔するようにクライーヌは声を絞り出しました。

「僕は間違いなく、あの船員を殺そうとしていた。賭けに勝つために、はした金のために、自分の面子のために」

「何故、そんなことをしようと思い立ったんです?」

 武田が問うと、クライーヌは口を閉ざしました。

『彼の表情を分析するに』武田の〈リュシャン〉が彼の耳に囁きます。

『その理由を、彼自身が知りたがっているようです』

「分かってる」〈リュシャン〉だけに聞こえる指向声で武田は答えました。

「これは決して、自分自身の意志による行動ではないと、そう思っているんですね、クライーヌさん?」

 クライーヌははっとして顔を上げました。

「そうです。僕は――僕自身が、何らかの全覚文に操られていたと思っています。でも、確証がなかった。賭け事に勝つために命を軽視する? 命を賭けることを軽んじる全覚文なんて聞いたことはありませんし、それに僕は結局誰も殺すことはありませんでしたから、誰にも言えなかったんです。大ごとにせず、そのまま忘れてしまいたかった。でも、忘れられなかった。いろいろ調べて、この僕の行動を説明できる全覚文がないかをかたっぱしから探したんです。けれども、見つからなかった。見つけたくて、全覚文を信用できなくて、自由意志党の話を聞いた程です」

「自由意志党?」

「全覚文依存からの脱却を訴える――彼らの主張はともすれば反全覚文主義とも捉えられる。分かっているんです。本当は、僕はそれに縋りたかっただけなんです。有害全覚文が蔓延る時代は終わった。僕を全覚文が操った可能性なんて、本当はないんだと」

「ないことの証明はとても難しいことです」

 クライーヌの顔が歪みました。

「あるとでも言うおつもりですか?」

 彼の血圧が上がり、心拍数が高まり、語調が強くなりました。

全覚言語管理局ASLAに何故、全覚文の研究者や関連技術のエンジニアが多くいるかご存知でしょうか」

「知りません」

「既知の全覚文は氷山の一角だからです」

「でも、有害全覚文が起こした事件なんて、今や全然聞かないじゃないですか」

 クライーヌは離散殺人集合を知りませんでした。パシフィカにとって最早犯罪は過去の遺物であり、そもそも犯罪に興味を持つ人自体が少ないのです。

「それはただ単に、未知の有害全覚文が事件を起こした際に、警察が原因の全覚文を見つけられなかっただけかもしれません」

「見つけることは不可能なんですか」

「いいえ、方法は主に二つありますが、先日それとは異なる第三の方法で珍しい全覚文を発見しましてね。過去にも同じ全覚文が発話されていたかを調べていたんです」

「それって……」クライーヌは息を飲みました。

「そうです、あなたは確かに全覚文の影響を受けていました。それも強力で、とても有害な。だから、あなたは自分を責める必要はありません。詳細こそまだ言えませんが、あなたの話は大変参考になりました。一連の事件を解決する大きなヒントになりそうです。ありがとうございます」

 武田が手を差し出すと、クライーヌはその倍もの握力で強く握り返しました。

 ありがとうございます、ありがとうございます、とクライーヌは嗚咽混じりの声で何度も言い続けていました。

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