終章

終章

有希は何も悪いことはしていないように見えたけど、彩恵には、なぜかうるさい邪魔者のように見えるのだ。確かに、犯罪者とか、そういうことではない。けっしてそういうことではないけど、有希のせいで、自分の恋愛ができないというか、何かそういう気持ちをもってしまうのだった。マーシーと有希は、二人で楽しそうに話しているのに、それがなぜかいけないことになってしまうような気がする。今日は、有希の提案で、みんなで喫茶店にやってきたのだ。もちろん、マーシーも一緒だ。その日はとても暑かったので、ドラックストアで薬をもらった後、近くの喫茶店に入ったのである。決めたのは有希だ。其れもその言い方が、いやだった。有希は、薬をもらい終わった後、こういうことを言ったのである。

「それじゃあ、みんなで喫茶店に行きましょうよ。こんなに暑いんじゃ、一寸喉が渇いたわ。それに、マーシーさんと、彩恵さんが何か話したいみたいだし。」

それでは、有希に全てを見られてしまっているいるようだ。障害者というのは、時々直感的に、そういう風に人のことを読み取ってしまう能力がある。有希もその一人だった。彼女は、顔こそ笑っていたが、何かたくらみでもあるのではないかと、彩恵は思ってしまった。

とりあえず、喫茶店に入って、一番窓側の席に座る。ちょうど、マーシーと、彩恵が向かい合って座るようにしたかったけど、有希が先に椅子に座ってしまったので、そうすることはできなかった。

ご注文はとウエイトレスが言うと、有希とマーシーは、それぞれコーヒーと、ケーキを注文する。ケーキなんて、彩恵は食べる気にはならなかったが、マーシーに何か食べた方が良いですよと言われたので、急いでクッキーを注文した。

「それで、彩恵さんは具合はどうなの?」

と、有希は、メニューを片付けながら、そう尋ねた。

「ええ、まあ、変わりはないわよ。あたしは、いつも薬は同じだし、それに、食べ物を気にしろとか、そういう病気でもないし。」

彩恵は答えると、

「まあそうね、でも、薬の副作用で暴飲暴食したりすることもあるから、気を付けてね。食事を拒否したり、逆に食べすぎたりすることもあるから、そこはちゃんとしなきゃだめよ。」

有希は説教でもしているような、そういうことを言うのである。

「精神の薬は、完全に直してくれるものじゃないわ。自分で解決できるようにならなくちゃいけないと思わなきゃね。」

そういうことをいうのに、彩恵はちょっと、いやな気持ちがした。だってこないだの台風の時、有希は、自身の感情をコントロールできなくて注射まで受けたじゃないか。そういうことは、棚にあげて

説教をするのだろうか?

「それにヘルプカードは、持った?持っていた方が絶対いいわよ。精神障害者手帳はまだ任意でいいけど。其れもそうだけど、今見えない障害にたいして、偏見のある人は多いでしょうからね。そういうわけで、できるだけできないことを、可視化した方が良いわ。」

ヘルプカード何て、自分がダメな人間になってしまったということを見せびらかしてしまっているような、ものじゃないか。それはちょっとやりたくないなと彩恵は思った。

「ヘルプカードは、なるべく持った方がいいわよ。それは、誰でも認めてくれるわけでもないけれど、持っていたほうが、きっと自分でも楽だろうし。まあ、印籠とは違うけれど、自分で助けてほしいことを言えない人は、持っていたほうがいいのよ。」

何だか、水戸黄門で出てくる印籠のような、そんな道具がヘルプカードなのだろうか。有希さんはそういうことを言うけれど、そんなことやって何になるんだろうかと、彩恵は思うのだった。それはある意味、キリスト教の十字架と同じような気がする。

「有希さんは、相変わらず、観音講には通っているんですか?」

と、マーシーが言った。マーシーも何を言いだすのかと思った。いきなりどうしてそんな宗教的なことを言いだすのだろうか。

「ええ、つきに一度、お寺でやってもらってるの。お写経をして、椅子だけど座禅をしてね。足が悪い人もいるから本格的な座禅はできないけどね。でも、ちゃんと座禅ができれば、ちゃんと自分を取り戻せるような気がするから、これからもやっていくわ。」

と有希は答えた。

「そうですね。有希さんは、どうしても人より感じすぎてしまうでしょうし、それはなかなか理解するのは難しいでしょうから、そういう神仏の教えを守るのもいいと思いますよ。まあ、いわゆる新宗教ではないんですから、ずっと、続いてきた教えですし、それを学びなおすのも必要なんじゃないかな。」

マーシーも、有希の活動を肯定しているようだ。なんで?二人はそういうことを言うのだろう。彩恵は、そういうことは全く知らなかった。そういう講座なんて、ただのバカな人たちがやっていること、おっかない人たちが、テロを起こすとかそういうために、やっていることにしか彩恵には見えなかった。

「まあそうね。でもマインドコントロールのようなことはしないわよ。ただ、事実はあるだけで、それ以外何もないってことを教えてもらった。それだけでも救いだわ。其れだって私は知らなかったから。」

そんなこと、当たり前じゃないか。と彩恵は思ったが、有希はさらに続けるのである。

「それを教わって、あたしは本当によかったわよ。事実に対して甲乙つけることはなく、それをどうやって解決すればいいかを考えればよいと、そういってくれたのは、観音講だけだった。特に学校の先生なんて最悪よ。ただ、点数をとったひとだけが幸せになれるしか言わないでしょ。それに比べたら、よほどいいわ。」

確かに、学校の先生のいうことなんて、何も役に立ちませんねとマーシーが言っている。学校の先生のせいで、おかしくなった人は、いっぱいいますからね、何て有希とマーシーは言っているけれど、どうしても、彩恵はその通りに思えなかったのであった。学校は、楽しいところだった。友達がいて、面白い先生がいて、部活をやって、そういうことをやって、小学校から大学に進んだ。大学の時は、碌に勉強もしないで、真剣に恋愛と遊びのことについて考えていた。そんなことしかしてこなかった若いころ。不登校とかそういうことには縁がないので、わからないということだろう。

「まあ、私は、そこで教えてもらったようなものだから、どこで教わるのかはあまり気にしないの。其れよりも大事なことを教えてもらったことが、大事だから。」

「そうですね。そういうことを、悟りを開いたということですね。」

と、有希とマーシーはそういうことを言っている。有希は、心がやんでいるからそういうものに走っても仕方ないと思ったが、マーシーがそういうことに走ってしまうことは、したくなかった。なぜか有希がそういう施設に、誘惑しているような気がした。

「ああ、安心して。あたしたちは、そういうことに勧誘したりはしないから。あたしたちは、会員を増やせばどうのこうのなんて、信用してはいないわよ。そんなことで幸せになれるなんていうところも在るけれど、そんなことするより、あたしは、いかに自分が悟りを開くことができるか、にかかっていると思うから。」

有希がそんなことを言うと、彩恵は震え上がった。なぜか、有希やマーシーから、そういうことを、されてしまうのではないかと恐怖を感じてしまう。以前、大規模な宗教団体が、地下鉄で、猛毒をばらまくという事件を起こしたこともあったから。

「まああ、それよりも、有希さんは、自信を幸せにするために、観音講へ行ったと考えてくれればいいですよ。」

と、マーシーがにこやかに言うと、ちょうどウエイトレスが、コーヒーとケーキを持ってきた。ケーキは、イチゴショートケーキであった。おいしそうなケーキだわといって、有希も、マーシーも食べ始めた。数分後、彩恵のところに、クッキーとコーヒーをウエイトレスが持ってきた。彩恵は、そのクッキーをしぶしぶかじった。それはこの上なくまずいものであった。本当はおいしいものなのかもしれないけれど、非常にまずい食べ物のような気がしてしまった。

その間にも、マーシーと有希は、観音講で会った人や、そのほか病院であった人の話しを続けている。二人は、時折重い精神障害がある人の話もするし、あるいはちょっと知的におかしいのではないかと思われる人の話もしている。もうどうしてそういうひとの話をするんだろうと、長い時間その話を聞いていた。そんなかわいそうな話を聞かされると、彩恵は、気が重くなって、早く終わってくれないかなと思うのであるが、それは終わりそうもなかった。

やがて、喫茶店の鳩時計が、三時を告げる音を鳴らした。あ、もう帰らなきゃとマーシーと有希は急いで座席を立ち上がった。彩恵も急いでコーヒーの残りを飲み干して、鞄を持ち、レジへ支払いに行く。コーヒーとケーキを合わせても、一人千円を超えることはなく、意外に安い喫茶店であったが、それでも彩恵にとっては高価なような気がした。

「ねえマーシーさん、一寸バラ公園を歩いて行かない?」

と有希がそういうことを言いだした。なんで?とマーシーが言うと、

「ええ、池で白鳥を飼育し始めたと聞いたので、見てみたいのよ。それに、秋になって花壇はどうなっているか見てみたいわ。」

と有希が言った。まったく、自然災害には弱いのに、こうして動物が好きだったり、花壇の花を見たいというのだから、それでは、ひどく矛盾しているのではないかと彩恵は思う。

「ああ、いいね。ぜひ行ってみるといいよ。池の白鳥、人懐っこくて、お客さんから餌をもらったりしているようですよ。」

と、レジにいたマスターがそういうことを言ったので、有希もマーシーもありがとうございますと言って、公園の池に行ってみることにした。彩恵は、仕方なく、二人の後をついていく。

公園の池は、池というより、大きな湖のような感じだった。池の中心には、翁島のような、小さな島もあり、そこに東屋が置かれている。そこへは、木製の橋が用意されていて、そこを渡っていくと行けるようになっている。池の周りは花壇があって、秋を象徴するコスモスがたくさん植えられていた。花はまだちゃんと咲いていなかったが、確かにコスモスが植えられているのである。

「きれいねえ。こういうところに、来ると花が咲いていて、心も安らぐわ。」

と、有希は、池の周りを歩きながら言った。それは自然に生えたコスモスではないことは、彩恵も知っていた。つまり、有希には自然の中に人間が手を加えたものが一番いいということである。それが、有希のような障碍者が生きる道なのだ。

「良いじゃないですか。あ、ほら、有希さん、島の近くに白鳥がいます。」

と、マーシーが池を指さすと、

「それでは、あたしたちも近くへ行ってみようかしら。あの子たち、逃げたりするかしらね。あたしみたいな、変な人間を見ても。」

と、有希は言った。

「じゃあ、有希さんが自分で確かめてきたらいかがですか。白鳥は、人間と違って、ヘルプマークを使っている人を、差別的にすることはありませんよ。」

マーシーがそういうことを言うと、有希は、じゃあ行ってみるわ、と言って、木製の橋を歩き始めた。木製の橋の周りは、もちろん池である。池は、どれくらいの深さがあるのか知らないが、人口島がある以上、かなり深いだろう。今なら、、、と彩恵は頭の中に何かよぎった。思わず、彩恵は、有希の後ろにたって、彼女の背中を池の中に突き落としてしまおうと思ってしまった。有希のあの、観音講の話はもう聞きたくなかったし、マーシーを彼女にとられてしまわないか、非常に嫌だった。其れに、ヘルプマークという、援助が必要であることを証明する印を持っているのに、なんでこういう風にへらへらして生きているのだろう。そして私に、なぜ、暴飲暴食をするなとか、そういうことを言ってくるんだろう。本当にこの人が嫌で嫌で仕方ない。だから、彼女を池に突き落としてしまいたい!彩恵はそう思ったのだ。

「彩恵さん。」

と誰かの声がする。声の主は、マーシーであった。

「彩恵さん、そんなことをしても、浮かばれませんよ。」

マーシーはそういうことを言う。

「そんなことをしてって何を?」

彩恵がわざと聞き直すと、マーシーは静かな顔で、変なことをしないでくださいとだけ言ったのであった。彩恵はマーシーに、自分が有希に対して何をしようとしていたのか、見られてしまったような気がした。それをされてしまったら、愛する人に、自分のしようとしていることをとがめられている感じがしたのだ。彩恵は、申し訳ないわねとだけ言い、有希から離れた。有希は、そんなことが在ったとはつゆ知らず、そのまま木の橋を歩き続けている。そして、中心の島にある、東屋に到着すると、白鳥の餌を近くに置いてあった自動販売機で買いもとめた。

「あ、ほら、有希さんが餌を買ったのに気が付いたんでしょうか。」

と、マーシーがいうとおり、白鳥が二羽寄ってきた。多分餌がもらえるということに気が付いてやってきたんだと思うが、有希は、こっちにいらっしゃいと白鳥に話しかけている。

やがて白鳥たちは、有希の近くまで寄ってきて、彼女の手から、餌を食べ始めた。本当は撫でてやりたいが、それは遠慮するわね、と有希はそういっていた。

白鳥たちは餌をもらうと、クオー、クオーと鳴いて、有希にお礼をしているように見えた。さすがにそのしぐさは、彩恵にもかわいらしいと思われる姿だった。

「あの白鳥たちね。ちょっと体に問題があったようですよ。なんでも、公園の近くの畑に食べ物を狙って侵入し、網に引っかかって動けなくなっていたところを獣医さんに保護されたそうなんです。それで、北の海に帰れなくなってしまって、それでは観光客ように、この池で飼育されているとか。」

と、マーシーがそういうことを言い始めた。彩恵は、そうなのね、とだけ言う。何だか、有希さんにそっくりだなと彩恵は思う。本来人間は自分で生きていかなければ、生きていかれない。それは当たり前のことだ。だけど、有希さんは、そういうことができないで、他人に餌を与えてもらわないと生きていけないという障害を抱えている。それをかんがえると、確かにかわいそうな人なのかもしれないと、彩恵は思ったのだった。

だからこそ有希は、仲間が欲しいのかもしれなかった。そういうところから、薬の話しだったり、観音講の話をするのかもしれない。あの白鳥たちのように、他人に餌を与えてもらわないと生きていかれない寂しさを紛らわすために。

「でも、私は、彼女のようにはなれないわ。」

と、彩恵は、マーシーに言った。

「私は、やっぱり家庭陣として自分のやるべきことをしっかりやっていくべきだと思うの。」

「ええ、それでかまいません。それで当たり前なんですから。」

とマーシーは静かに言った。

「でも、それができない人もいるんです。それは、仕方ないことだと思ってください。自分たちは

関わらないけど、有希さんのような人がいる、そう思ってくれるだけで結構です。」

「そうね。」

彩恵は、マーシーに言われた通りにすることにした。其れと同時に、もう有希さんと関わらないようにするために、精神科のお世話になるのはやめることに決めた。

「それではいいわ。あたしは、有希さんとは同じ世界で生きていたくないから。」

有希はまだ、白鳥に餌を与え続けている。白鳥たちばかりではなく、池に住んでいるほかの住人、つまり鯉たちも彼女のほうへやってくるかもしれなかった。池という狭い世界で、幸せに暮らしている魚や飛べない白鳥は、本来やることを完全に忘れて、観光客に餌をもらうことしかできないのかもしれなかった。それは有希も同じであった。彩恵は、そういうひとが、いるということに、なんで日本はこんなに不公平なのかと思ったが、そういうひとはいても仕方ないと思うしかないのだった。だって、社会には、多くの弱い人がいるだろう。それが、終わるということもないだろう。ただ、それにかかわるか、関わらないかだけの違いだった。

「それでは、行きましょうか。もう遅くなってしまいますから。」

マーシーは、有希にもう帰ろうと促す。有希は、餌の入った紙カップをゴミ箱の中に捨て、ありがとうと、言いながら、木の橋を歩いてきた。彼女に、礼をするように、白鳥たちは、有希の前を去っていく。有希は、じゃあ帰りましょうか、と言いながら、池から離れてきて、また公園を歩き始めた。マーシーも、彩恵も歩き始めた。

もう彩恵は、マーシーに対して、彼に特別な感情も思わなくなった。彩恵は、もうマーシーと付き合うと言うか、そういうことはできないと誓っていた。彩恵は、それでもいいと思った。マーシーには有希さんがいるし、ほかにも、手伝うべき人がいるのかもしれないと思った。そういうひとに自分が立ち会ってしまったら、それでは、自分の人生も終わってしまうのだから。自分には、夫もいるし、それは、誰にも破壊できないことだから、それは、自分で続けていくことだろう。有希さんに比べたら、私は恵まれている。そう考え直すことにした。

そして、彩恵は、公園を出て、マーシーたちと別れ、わざと、彼らのバスとはまた違ったバスに乗って、家に帰っていった。一寸遠回りをしたから、急いで晩御飯の支度をしなくちゃと思いながら、おそらくマーシーたちが見るのとは違う、バスの外の景色を眺めていた。そして、自分の家の近くにバスが止まるというアナウンスを聞いて、椅子から立ち上がり、バスの押し釦を押した。バスが、その通りに止まると、彩恵はバスを降りて、元の世界に帰っていったのだった。


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無知の知 増田朋美 @masubuchi4996

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