第二章

第二章

彩恵は、今日も病院にいった。病院に行くというのは、もちろん、鬱の症状を診てもらうという目的もあるのだけれど、それとはまた別の目標があった。

その日の前日は、台風がどうのとニュースで言っていた。何とも九州のほうが、爆風域になるらしいと盛んに報道されていた。幸い、静岡県に台風は来なかったので、特に雨戸を閉めたりする必要もなく、普通に、生活していればそれでよいとされる天気だった。多少の雨は降ったが、九州のように避難指示が出たとか、そういうことはなかった。

彩恵が、病院に入ってみると、マーシーや有希の姿はなかった。あれ、予約制だから、必ず来ているはずなのに、何か用事でもあって、変更したのかしらと彩恵が思っていると、診察室から、少しばかり疲労した顔をしているマーシーと、いつもとは違った顔をしている有希が現れたのでびっくりする。

「あ、マーシーさん。こんにちは。」

と、彩恵は急いでマーシーに声をかけてみたが、マーシーは、

「今日は、一寸有希さんの様子がおかしいので、お話するのはやめていただきたいのですが。」

といった。一体どうしたの?と、彩恵が聞くと、マーシーはとりあえず有希を待合室のイスに座らせて、

「いえ、こういうことは、精神的な病気のひとはそうなっちゃうんです。」

とだけ答えた。彩恵は有希の顔を見る。彼女は、何もしゃべらないで、静かにしている。以前あったときの、明るい彼女ではない。何だか呆然としているというか、もっと端的な表現を使えば、魂の抜け殻のような感じなのである。受付のお姉さんも、それをわかっているようで、会計するときに、彼女の名を呼ばずに、直接マーシーに、会計を頼みに来た。

「ありがとうございます。せっかくですから、福祉タクシーを手配しましょうか?有希さんが外の様子を見て、パニックになるといけないから。」

と、受付係がそういうと、マーシーは、そうですねお願いしますとだけ言った。福祉タクシーというものは、車いすに乗っている人間が使用するものだと彩恵は思っていたが、多分、有希が精神障碍者手帳か何か持っていたので、それで利用できるのだろうと思い直した。

「じゃあ、お薬は?」

と、マーシーが言うと、

「ええ、こちらで、郵送しますから、今日はとりあえず安全に彼女を帰してあげてください。」

受付係はそういった。

「わかりました。まあ入院するほどの大暴れじゃなくてよかったですね。昨日の台風は、ほんと、九州では、大災害になっているようですから。そこで、サバイバーズ何とかというのでしょうか。そんな気持ちになってしまったんでしょう。まったく、九州で起きている事なのに、テレビは、すぐ近くで起きているように報道するから困るんですよね。だから、テレビが嫌いという人もいっぱいいるでしょうね。」

と、マーシーはそういって、有希を慰める。こういうときに、ダメだとか、そういう言葉は使ってはいけない。こういう症状を示した時は、まずはじめに、しっかり受け止めるのが大切なのだ。

「それでは、よろしくお願いします。もう少ししたら、タクシー会社が来るはずです。もし、眠るようなことが在りましたら、連絡くださいね。注射薬は、非常に強力で、眠くなることが多いものですから。」

受付係は、そういって、マーシーに診察料の領収書をわたした。マーシーはありがとうございましたとだけ言って、有希を椅子から立ち上がらせて、病院を出ていった。彩恵が診察室に呼ばれたのは、マーシーたちが出ていった後だった。

彩恵は一人寂しく、診察を受けて、会計をして、病院を出ていった。そして、いつも通りの、ドラッグストアで、処方箋を渡して、薬ができてくれるのを待つ。

すると、待っている間に、薬剤師たちが、こんな会話をしているのを聞いた。

「これ、あの高野正志さんのですよね。」

と、聞こえてくるのである。

「ええ、名前は書いてあって、住所も書いてありますね。今度来るのは、二週間後よ。それまでに、傘がなければ困るでしょ。宅急便で送って差し上げましょう。」

と、男性の薬剤師の声が聞こえてきた。

「それでは、後藤彩恵さんどうぞ。」

と薬剤師が、彩恵を呼んだ。彩恵は、今回の薬は早いなと思いながら、急いで薬の引き渡し口に行く。

そして、薬について簡単な説明を受けて、とりあえずの生返事で説明を聞きながら、薬のお金を支払って、帰ろうとした。その時に、こんな事をおもいついた。

「あの、先ほどの傘は、どうなるのでしょうか。」

「どうなるって?ああ、あの傘ですか。ええ、宅急便で送り届けることにしました。幸い、柄の部分に住所も氏名も書いてありましたから。」

と、薬剤師は答える。

「それなら、私が、届けてもいいでしょうか。住所が書いてあるのなら、カーナビか何かでうちこめばいけると思いますので。」

彩恵は、薬剤師にそういうと、

「ああ、じゃあお願いします。高野さんの自宅住所を知っていらっしゃるなら、届けてほしいです。」

と、薬剤師は、彩恵に一本の傘を渡した。確かに、絵の部分に、高野正志、富士市鮫島と書かれた紙が貼られている。これなら、カーナビで住所を打ち込めば、すぐに行ける。彩恵は車に戻り、カーナビに住所を打ち込んだ。すると、車で15分程度走ったところに、マーシーの家がある事が分かった。

カーナビの言う通りに車を走らせると、高野と表札がある、一戸建ての小さな家が見えてきた。ああ、ここに住んでいるのか、と、彩恵は理解した。急いで家の前に車を止めて、インターフォンを押す。

「マーシーさん、さっきお忘れ物をしたでしょう。届けに来ました。」

と、彩恵は、インターフォンに向かってそういうと、一寸お待ちくださいと言って、玄関のドアがガチャンと開くのが見えた。

「ああ、すみません。わざわざ届けに来てくださって、本当にありがとうございます。」

そう言いながらマーシーが現れた。ちょっと疲れた顔をしているが、とりあえずそういうことは言える余裕はあるらしい。

「じゃあ、この傘どうぞ。」

彩恵は、マーシーに傘を渡した。

「ありがとうございます。」

と、マーシーは傘を受け取る。

「マーシーさん、先ほどの有希さんの付き添いで、大変だったんじゃありませんか?」

彩恵は、マーシーにちょっと労りの気持ちになって、そういうことを聞いた。

「ええ、まあそうですね。でも、そういうことは精神障害を持っている方であれば、よくある事ですから、心配はいりません。」

と、強気な顔をしてマーシーは応えるが、

「ええ、そうだけど、でも大変だったんじゃないの?普通に励ましても通じないんでしょう?」

彩恵はマーシーに聞いた。

「でも、誰かがそばについてあげなきゃいけないですから。精神障害というのはそういうものです。恐怖を感じると、人一倍怖いと感じてしまって、それのせいで何もできなくなってしまうというのが、精神障害というものです。だから、周りのひとが、しっかりしてあげなくちゃ。それは、周りの介助人の役目ですよね。」

と、マーシーはそう答える。

「でも、あんなふうに、献身的に介護しても、何も報酬ももらえないのでしょう?それではただ、マーシーさんが、こう言っては気の毒だけど、何もできない有希さんに、振り回されているように見えるけど?それはつらくないの?」

彩恵が聞くと、

「いいえ、それはありません。人間すべて生きなければなりませんから、支援が必要な人は、支援をする。それは、当たり前のことです。僕はただ、そのお手伝いをしているだけですよ。」

と、マーシーはきっぱりといった。

「そんな風にきっぱりいえるなんて、私にはとてもできないわ。時々、あるんじゃない?有希さんが余りにもわがままで、もうお手伝いなんかしたくないってこと。」

彩恵は、もう一回彼に聞くが、

「ええ、そうなんですけどね。でも、誰かがしなくちゃなりませんから。それは、しょうがないことじゃないですか。事実、僕が何かしなければ、有希さんは、何もできないんですよ。」

と、マーシーは答えた。

「でも。」

彩恵は、はっきりという。

「マーシーさんだけが手伝っているのを何もほめてもらわなくて、有希さんだけが色いろ手伝ってもらえるのは、不公平だと思うわ。」

「そんな不公平とか、そういう問題じゃないですよ。それは、もう有希さんが生きていくためにはしょうがないんですから。」

「あたしは、少なくとも、マーシーさんはもっと褒められてもいいと思うけど。ああして有希さんを病院に連れて行ったり、薬の手続きをしたりしているんだから。」

「それはないですよ。」

彩恵の話にマーシーは、はっきりといった。

「僕が報われたと感じたら、福祉としておしまいです。それは、もう仕方ないことなので、あきらめたほうが早い。」

「そうなのね、じゃあ、私だけでいいから、ほめさせてもらえないかしら。」

と、彩恵は、自分がどこにいるのかもわからずに、マーシーの肩へそっと手を伸ばした。でも、マーシーは彩恵がそういう行為をするのをお断りしますと言った。誰か付き合ってる人でもいるのかと思ったが、マーシーはそういうことはしませんとはっきり言った。

「でも私は、マーシーさんと続いて行けたらいいと思うわ。」

と彩恵は言った。

「いいえ、それは無理ですよ。僕は、この後ピアノレッスンもありますので、失礼します。」

静かにいうマーシーは、彩恵の手をもとにもどして、傘、ありがとうございましたと言って、部屋の

中にもどって行ってしまった。なんで、と彩恵は思う。あたしがこんなに好意を持っているのにな、と思うのだが、それは許されないことでもあった。

マーシーに「空振り」されてから、彩恵は、車に乗って家に帰った。そして、急に夕食の支度をしなければと思いだし、彩恵は、急いで冷蔵庫の中を見た。冷蔵庫にはいくつか食べ物が用意されている。多分、夫の健太郎が、作っておいてくれたものだろう。彩恵が、鬱になったからと言って、最近健太郎は、料理の本を見て、彩恵たちの食事を作ってくれているのだった。内容は漬物とか、豚肉の金山寺焼ような和風のものばかり。食品メーカーに勤めていた健太郎は、どうしてもそういうものになってしまうのである。

「ただいまア。」

彩恵が帰って来て数分後、健太郎が帰ってきた。

「なんだ、帰ってたのか。もっと遅くなるかもしれないと思っていたけど、良かったよ。」

そういうことを言う健太郎は、彩恵にとってちょっといやだなあという存在でもあった。

「今日の診察はどうだった?何か注意点でもあったかな?」

健太郎は彩恵に聞いてくる。なんだか、そんなこと言われても、意味はないと思うのであるが、とりえず彩恵は、

「ええ、まあ、いつもと変わらず、普通に診察してもらってきたわ。」

とだけ言った。

「そうか、それは良かったなあ。しかし、なんでお前、そんなふうに落ち込んだ顔しているんだよ。」

健太郎が聞いてくるので、彩恵は、もう顔に出てしまったのかとため息をついた。

「ため息ついていると、幸せが逃げていくっていうじゃないか。お前そろそろ、ご飯の支度もしてくれよ。少し、リハビリして、楽になったらどうなんだ?多少、気持ちを紛らわすことも必要なのかもしれないぞ。」

健太郎も健太郎なりに励ましてくれている。でも、彩恵は、何だかそれだけではもう足りないというか、嫌な気持ちになってしまうのだ。それをするなら、マーシーがするようにやってほしい。

「ほら、精神疾患で働けなくなるというやつは、結構多いじゃないか。そうならないように、家事をしたり、趣味を持ったりすることは、必要なのではないの?」

と、健太郎が言うけれど、彩恵は、そんな気にならなかった。そういう励まし方は、何も良いものを生まないのである。

「ちょっと私、病院から帰って疲れてるから、休ませて頂戴。ご飯は適当に食べておいて。マックも、モスもあるんだから、必要なものはみんな揃っているでしょ。」

と、彩恵は、健太郎の説教を振り払い、二階の部屋に行ってしまった。そして、自身の寝室に戻って、ドレッサーの前に座る。なんだかちょっと、自分の実なりは水ぼらしいように見える。化粧品も、大したブランド物のものを持っているわけではないし、洋服だって、Tシャツとジーンズばかりで、おしゃれなものは何もない。彩恵は、スマートフォンを出して、洋服の通販サイトを開いた。多少、自分の年齢には似合わないものもあったけど、彼女を着飾らせてくれる、服はたくさん売っている。彩恵は、その中から、黒いろのカットソーと、紺のスカートを買った。品物は一週間くらいして届いた。箱を開けて、中身を確認してみて、一寸試着してみると、彩恵はちょっと、女性らしくなったような気がした。夫の健太郎は、おしゃれをするようになったなんていい傾向だなと言っていた。彩恵は、余計にうれしくなって、もう一枚色違いで、カットソーを買った。

その数日後、診察の日がやってきた。この日は、台風も何も起こらなかった。病院に行っても、いつも通りに、有希とマーシーが待っていた。

「あら、彩恵さん。こないだは、大変だったわね。お宅ヘは被害はなかったのかしら?」

と、有希が彩恵に聞いてくる。まったくこないだの時は、落ち着かなくて注射まで打ってもらっていたのに、もうそれをころっと忘れているのか、と彩恵は、一寸彼女に対してあきれてしまった。

「ええ、平気よ。うちのほうは、さほど雨も降らなかったし、風も吹かなかったわ。それに、台風が上陸したのは、九州のほうでしょ。だからこっちは全然平気よ。」

と彩恵は一般的な答えを出してあげた。

「そうね。でも、九州以外でも、台風の影響ですごい雨が降るって聞いたから。それはやっぱりわたしたちも備えておかなきゃだめだということじゃないかしら?」

有希の言い方は、一寸偉そうというか、いやな言い方だった。

「彩恵さんは、非常持ち出し袋作った?私は作ったわよ。一か月分の薬と、精神障害者手帳と、ヘルプカード、そして、浣腸と携帯トイレを入れてね。」

そんなこと、全然しなかった。彩恵は彼女に負けることが本当に嫌だと思った。そんなこと、今更言われなくても嫌になるし、それよりも、精神障害を持っている有希に対して、そういう気持ちを持ってしまうのだ。それは、障碍者への差別感情と言われるかもしれなかった。そういう感情が、膨れ上がってしまうと、何か事件に発展してしまうのかもしれない。

「それで有希さんは、あの時大暴れをしたの?」

彩恵が聞くと、

「ええ、そうなのよ。だってただでさえ非常時なのに、こういう世の中だからもっと怖くて、それで自分の感情が全部だめになったわ。恐怖ってそうなるのよね。」

と、有希は答えた。何他人事みたいにそういうことを言うのだろう。それでマーシーに助けてもらって、病院に来たじゃないか。それに感謝する言葉も一つもないなんて。

「まあ、それはしょうがないことだから、また台風に備えて非常食でも買っておくわ。」

有希がそういったときと同時に、看護師がやってきて、

「須藤さん今日は調子よさそうね。今から採血するから、一寸こっちへ来てくれますか?」

と有希に言った。看護師はもしもの時のために、と言って、マーシーにも一緒に来てくれるように頼んだ。わかりましたと言って、有希とマーシーは処置室に消えていった。

「まったく、何を考えているのかしら。有希さんは。マーシーさんに助けてもらったりして、本当に感謝しなきゃいけないと思うのに、何も感謝する気持ちが起こらないのかしらね。」

彩恵ははあとため息をついた。

病院の中には、雑誌もいくつか置いてある。待合室で、待っている人たちが退屈しないように置かれている雑誌なのだ。中には、精神障害に関連する雑誌もあった。何とも精神障碍者当事者のための雑誌のようである。彩恵はそれをとって読んでみた。其れには、災害の事とか、生きているのがつらいとか、そういう読者投稿がたくさん寄せられている。彩恵は、声に出して読むことはしなかったが、その雑誌に書いてある、読者投稿を読んでみた。

「私は、仕事が原因で、うつ病になってしまいました。鬱になってから、それまで仲の良かった家族が急に私の悪口を言い始めました。あの時こうしていれば、鬱にはならなかったとか、うるさい位に言ってきます。もう、私は今まで通りの家族に戻ることはできません。なので、もう死ぬしか無いとあきらめています。」

別の投稿にはこういうことが書いてある。

「うつ病になって13年たちました。でも、私の鬱は回復するどころかそれよりも悪化しています。理由は、最近異常な天気が続いているし、災害が頻発して、外へ出るのができないからです。いつどこで災害が起きるかわからない。そんなときに、私の心のよりどころになるものはありません。こんなに災害が多い世の中で、仕事をもって働くなんて、とてもできない。私は、もう死ぬしかないのです。」

そのほかの投稿も似たような感じだった。皆生きているのがつらい、死にたいという内容を数多く載せていた。しかし、疑問に思うことがある。彼女たちは、結婚していないのだろうか?本当にこの世に一人ぼっちなはずはないと思う。家族や親せきなどがいるのではないか?そういうひとたちに、感謝の言葉を述べるとかそういう投稿は全くないのである。精神障害を負うと、自分の事しか考えなくなってしまうのだろうか。先ほどの有希の話もそうだったけど、本当に自分の事ばっかりで、周りのひとに感謝という文字は全くなかった。だってマーシーがあれほど、感謝していたのに、なんでそれに気が付けないのか。支えてくれる家族には何も報酬もないのか。それではいけないじゃないか。と、彩恵は思ったのであるが、雑誌のほどんどの投稿には、なにもそういうものは載っていない。もちろん不安やストレスに対するアドバイスも載せられているが、家族に対してどうのという記述は何もなかった。

改めて有希が妬ましく見えた。




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