無知の知

増田朋美

第一章

無知の知

第一章

その日もなんだか意味がないと思ってしまうのは私だけだろうか。

今日も、なぜかわからないけれど、憂鬱でむなしくて、何もしないまま一日が終わってしまう。それが、後藤彩恵には非常に不愉快というか、むなしいというか、そういう事だと思ってしまうのだ。なんで、こんなにむなしい日々が過ぎていくのだろう。

彩恵の旧姓は、水口彩恵といった。確か、水口を名乗っていたころは、もっと元気で明るくて、おてんばな少女だった事を彩恵は自分で知っている。すべては、結婚してからである。結婚して水口の姓から、後藤の姓に代わってから、なぜかすべてがおかしくなってしまったような気がする。

彩恵はもともと、音楽学校に行っていて、ピアノを専攻していたのだった。それは自分を知っている誰でも承知している。有名なピアニストの先生にも師事したし、コンクールに応募したりすることもあった。もちろん入賞するということは、ほかの子に譲り渡していたが、彩恵はピアノを弾くということが、生きがいというほど、ピアノをやっていた。そして、音楽学校の最終学年となった年、彼女に

縁談が持ち込まれたのだ。つまるところ、見合いである。これは、ちょうど、就職氷河期と言われたころであったためで、彼女が就職に不自由しないように、彼女の両親が仕組んだものであった。こうして彩恵は、就職を経験しないで、後藤健太郎という会社員の男性と結婚したのであった。健太郎は、有能なサラリーマンで、彼女が暮らしていくには申し分のない収入もあった。なので、二人は、結婚して、すぐに小さいながらも家を買い、それぞれ納得のいく生活を始めようと気合を入れたのだが、、、。彩恵は、それにこたえることはできなかったのかもしれない。

その日も、家事も何もできないで、部屋の中でゴロゴロしていると、夫の健太郎が、彼女にこういった。

「彩恵、一寸、病院行ってきたらどうだ。最近は、精神科に頼ることも珍しいことじゃないよ。逆に、鬱になったときが、ちゃんと見てもらえて治療のチャンスかもしれない。ちょっとだけでいいから、行ってみろよ。」

近くで、七歳になったばかりの、息子の峰雄君が、一人でブロックで遊んでいるのが何とも哀れだった。本当なら、母親の彩恵と一緒に遊んでいてもいいはずだ。彩恵が何もしないでいるのは、ある意味ではネグレクトという虐待にあたるのかもしれなかった。峰雄君の世話は、ほとんど健太郎が担当していることになっている。

「なあ、峰雄だってこれから、二年生になるんだし、お前が何もしないで家にいるだけじゃ、対応しきれなくなってくることも出てくるよ。だから、そうなる前に、病院にいった方が良い。親というのはある意味そうならなきゃいけないこともあるよ。」

健太郎は親切心でそういっているのだが、彩恵はそのそうならなきゃいけないという言葉が何より嫌いだった。健太郎は、そういうことをよく使うのだ。彩恵は、そういう教訓的なことがなぜかあまり好きではなかった。

「そうだけどあたし。」

「そうだけどじゃない。お前が何もしないせいで、被害を受けているのは、お前だけじゃないんだ。」

と、健太郎はきっぱりといった。夫が、そんな風にきつく言うのは久しぶりで、彩恵はちょっと怖くなり、すごすご行くことにした。

「それじゃあ、行ってくるわ。まあ大したことはないと思うけど。」

彩恵は、スマートフォンを開いて、富士市精神科と検索してみる。手っ取り早く、一番近くにあった影浦医院のサイトを開いて、ネット予約のサイトを開いて、申し込むのボタンをタップした。幸い、午前中の11時から11時30分の枠が空いていた。そして、動きにくくなってしまった体を無理やり動かして、彩恵は、影浦医院に向かって歩いていった。車に乗る必要はなかった。すぐに歩いて行ける距離であったので、暑い日であっても歩いて行けたのである。

影浦医院は、病院というより、一つの小さな家のような感じの建物だった。精神科というと気軽に入れるように工夫されていることが多いが、影浦医院も、その一つであった。建物に入ると、受付があって、誰も待っていない待合室があった。彩恵は、受付にネットで予約した後藤彩恵ですがというと、受付はちゃんと心得てくれたようで、はいおかけになってお待ちくださいと言った。

彩恵が、待合室のイスに座って、じゃあ、本でも読もうかなと思っていたところ、前方に合った扉が

ガラガラとあいた。何だろうと思ってそこを見ると、ひとりの女性と一人の男性が出てきた。多分、女性が患者さんだろう。いかにもつらそうな感じである。男性のほうが、椅子に座るように促したりしているので、たぶん彼女の看護人だと思われる。女性は、カバンを持っていたが、部屋から出るときにカバンを持ち直してその拍子に財布が落ちてしまった。

「あの、お財布落としましたよ。」

と、彩恵が言うと、

「ああ、すみません。ありがとうございます。」

と、男性が急いでその財布を拾い上げて女性に渡した。

「すごくお優しいんですね。なんだか理想的なご主人じゃない。」

と彩恵が思わずつぶやくと、

「いいえ、ご主人ではありませんよ。僕はただ、彼女の付き添いで来ているんです。ただ、彼女が車の運転ができないので、それでお手伝いをと思いましてね。ほら、薬の関係で、車が運転できないこともあるでしょう。」

と、男性が言った。

「そうなんですか。まあ、それはすごいですね。」

彩恵は、そういって男性を観察した。夫でもなければ、どんな間柄なんだろう。そこが興味深い所だ。彼は、なぜ、この女性の通院の手伝いをしているのか。兄弟とか、親子という間からではなさそうである。其れなら、介護ヘルパーとかそういうものだろうか?でもヘルパーは、65歳以上のお年寄りでなければできなかったはずでは?

「ええ、まあすごいと言っても大したことありませんよ。本来彼女の付き添いは弟さんがやる事だったんですが、今日はどうしても切り離せない用事があって僕が付き添っているんです。」

と、男性は、そういうことを説明した。

「じゃ、じゃあ、親せきの方とか、そういう間柄ですか?」

と、彩恵が聞くと、

「いいえ、親戚とかじゃありません。僕のピアノ教室の生徒さんです。それだけのことですよ。」

と、男性は答えた。

「ピアノ教室の生徒さんって、よほど親しい間柄なんですねえ!」

彩恵は驚いてそういうと、

「いやいや、まず初めに、診察を受けてもらわなければいけませんから、そのための手伝いは誰かがしなければならないでしょうしね。それは、必要なことですから、僕が手伝いますよ。」

と、男性は言った。

「そうなんですねえ。でもいいなあ。そういう風に手伝ってくれる人がいるって、幸せなことですよ。それは、すごいことじゃないですか。」

そうしている間に、受付が須藤有希さんと名前を呼んだため、女性は、受付に向かった。そして、診察料を払って、次回の診察の予約を取る。

「次回は、弟さんが一緒に来てくださるのでしょうか?」

受け付けがそう聞くと、

「いいえ、まだわかりません。最近弟は店の仕事が忙しいみたいで、なかなか、私の付き添いまでできないんですよ。」

と、須藤有希さんは答えた。

「そうなんですか。できればご家族と一緒に来てもらいたいんですけど。」

受付がそういうと、

「いいえ、仕方ないじゃないですか。一人一人事情はあるんですから、マーシー先生にお願いします。それに、先生がちゃんと、家族には伝えてくれてありますから大丈夫です。」

と有希は言う。日本では、家族以外の人が付き添いをするというのは、あまり一般的ではないらしい。欧米では手伝い人を雇うということは、珍しいことではないのだが、、、。

「それでは、次回は、二週間後の火曜日ですね。できるだけ、ご家族と一緒に来てもらうようにしてください。」

受付はそういって、有希をもういいですよという顔で、待合室へ戻らせた。マーシーと呼ばれた男性が、じゃあ行きましょうかと言って、二人は、軽く彩恵に会釈して、病院の入り口を出ていった。同時に、彩恵も、呼ばれて診察室へ入る。

彩恵が、診察室から出ると、次の患者が待っていた。こうして、多くの患者が待ってるんだなあと彩恵はちょっと感慨深いものを感じながら、受付で診察料を払った。彩恵は、薬の処方箋を受付から渡された。薬はどこでもらったらいいのかと聞くと、隣にある薬局でもらうか、近くにドラッグストアがありますという返事だった。彩恵は隣の薬局に行くのはちょっと恥ずかしくて、受付に教えてもらった、ドラッグストアに行った。

ドラッグストアの処方箋受付は、ストアの奥にあった。多分、プライバシーを配慮してそうしてくれてあるんだろう。彩恵は、そこへ行き、薬剤師に処方箋を渡して、待合室のイスに座る。

「あら、先ほどの方じゃないの。」

と、近くのイスに座っていた女性が声をかけた。先ほどの病院で会った須藤有希さんだ。隣にはマーシーさんも一緒にいる。

「あなたも隣の薬局では、受け付けない薬を処方されたの?私は、隣の薬局に行ったら、在庫のない薬があって、それでこっちに来させてもらったのよ。」

有希は、精神障害特有のおしゃべりを始めた。

「ええ、そういうわけじゃないんですけどね。隣の薬局に行くにはちょっと恥ずかしくて。」

「ああ、そうなのね。その気持ちわかる。この病院に来る人って最初はそういうこと言うのよ。でも安心して、優しい患者さんばかりだから。それはちょっと辛いわよねえ。だって、中には殺人をしたりする人もいるのは事実だし。其れと同じになるってのは、一寸悲しいかもしれないけど、その大半は、みんな心が傷ついて、優しい人ばかりだから。」

彩恵がそういうと、有希はにこやかに笑ってそういうことを言った。

「だから、何かあったら私に相談して。なんでも教えてあげるから。公費負担制度とか必要になったら、私、うまくとる方法とか、教えてあげる。」

有希は、そういって手帳を破り、そこに彼女の名前と住所、メールアドレス、電話番号を書いて彩恵に渡した。

「じゃあ、私も教えておくわ。私は今は名刺はないけど、名前は後藤彩恵。住所はここよ。」

と彩恵も、手帳を破って名前を書き、きれいに自身の名前と住所を書く。

「ああ、意外に近くに住んでるのね。彩恵さんは、宮島なのね。私は、宮島新田だから、私、うれしいわ。」

有希は、嬉しそうに言った。

「そうなんですか。マーシーさんも、宮島何ですか?」

彩恵が聞くと、

「ええ、マーシー先生は、うちのすぐ近くなのよ。だから帰りにバスに乗って、一緒に帰るの。ねえ、もしよかったら一緒に帰らない?」

と、有希はマーシーにも目配せして、そういうことを言った。

「ええ、かまいませんよ。有希さんが、彩恵さんの薬が処方させるのを待っていられたらの話ですけど。ご存じの通り、精神科の薬は、大量に処方されることが多いですから。」

マーシーがそんなことを言うと、ええ、わかったわ、と有希はにこやかに笑った。有希の薬が処方されるのには、30分近くかかった。一度に10錠近くの安定剤や副作用止めを飲むという。そんなに大量に、重い悪性腫瘍でもない限り飲むことはないと思われるのだが、精神科では当たり前だと有希は言った。

彩恵の薬が処方されるのはそのあとであった。まだ初診だから、薬は二つか三つくらいだけど、いずれ十とか二十とかそういうことになるわと有希が言った。なんだかそういうことはなりたくないなと彩恵は思うけれども、だったらとにかく、薬がいらないような振る舞いをすることねと有希がアドバイスをくれた。

「じゃあ、二本くらいバスが遅れますけど、帰りましょうか。」

と、マーシーと呼ばれた男性が、そういって、三人はドラッグストアを出た。バス停は、病院の前にある。そこまで戻って、暑いなと言いながらバスを待っていると、20分近く待って、バスがやっとやってきた。三人は急いでそれに乗り込む。バスはすいていて、三人並んで後部座席に乗った。

「彩恵さんはご家族は?実家暮らしなの?それとも一人暮らしなの?」

有希がそう聞いてきたので、

「ええ、夫が一人と、息子が一人いるわ。」

と、正直に答える。

「へえ、息子さんは何歳?」

と、有希が聞くと、

「ええ、七歳になったばかりよ。」

彩恵はまた正直に答えた。

「そうなのね。じゃあ小学校の一年生か。まだピカピカの一年生ってことね。いいわねえ、そのくらいの時が一番かわいいわよね。もうちょっと大きくなると、だんだん生意気になってきて、反抗期に突入しちゃうし、いやになっちゃうわ。」

「有希さん、あなただって、子供を持ったことないのに、そんなこと言わないほうがいいですよ。」

と、マーシーが注意した。

「あら、ごめんなさいねえ。私、新しい友達ができると、うれしくなって興奮しちゃうのよ。まあ、悪い癖だと思って大目に見て頂戴。」

有希はにこやかに笑っている。マーシーもまあしょうがないなあという顔をして、一寸ため息をついた。

「次は、宮島新田、宮島新田。お降りの方は、押し釦を押してください。」

と、車内アナウンスが流れた。有希は急いで押し釦を押した。そして、

「また何かあったら、会いに来て頂戴ね。メールもたくさんして。私、暇人だから、いつでもメールに対応できるから。」

と彩恵に言った。

「じゃあ、あたしたちここで降りるけど、また二週間後の火曜日に病院へ通うから。」

バスが止まると、有希はマーシーと一緒に、運賃箱に運賃を払って、にこやかに手を振って、バスを降りていった。そして、バスが再び走り出すまで、バス停で手を振っている。彩恵は、有希よりも、一緒にいたマーシーの静かな顔つきに、興味を抱いてしまった。有希さんが、病院に通うのはある意味当たり前のことだが、それを他人でありながら一生懸命やっている、マーシーさんに感慨を持ってしまう。

バスが見えなくなるまで、有希さんは手を振っていたが、彩恵はマーシーさんに返しているつもりで、手を振り続けていた。

そうしているうちに、バスは宮島のバス停にたどり着いた。彩恵もバスを降りた。どうせバス停一つの間隔だもの。数百メートルしかかからなかった。バスを降りると、彩恵はすぐに家に入った。其れと同時に、彩恵の夫である、健太郎がくたびれたスーツを脱ぎながら家に入ってきた。

「ただいまあ。」

彩恵は、何もない雰囲気で、健太郎に

「おかえりなさい。」

とだけ言った。

「私も今帰ってきたところなのよ。」

つづけてそういうと、健太郎は変な顔をした。

「そうか、ずいぶん遅かったな。俺は今日お前が病院に行くって言ったので、会社を早引けさせてもらったんだけど。」

「そうなの。」

「その顔では、あまり大したことのなさそうな顔だな。」

彩恵が相槌を打つと、健太郎は首を傾げた。

「病院で何と言われたんだ?」

「ええ、うつ病ですって。まあ、よくある事だから、気にしないで生活してくれって言われたわ。とりあえず抗うつ剤をもらってきたから、それで何とかするようにするわ。」

健太郎の声掛けに彩恵は平凡にそういうことを答えた。

「そうか。お前の顔を見ると、そんなに大したことはなさそうな顔だな。うつ病となると俺が家事にも協力しなくちゃならないかなとか思っていたんだけど、そういう事もなさそうだな。」

「ええ、いつも通りにできればそれでいいじゃないの。いつも通りが一番幸せだって、言っていたのはあなたでしょ。」

彩恵は、彼に対立するように言った。確かにそうだ。普通鬱になって病院に行くのなら、何かしら、生活スタイルを変えることを強いられるものなのだが、それがなさそうというのに夫は一番驚いているようであった。

「まあ、いいじゃないの。私は、こんなに元気なんだもの。安心してちょうだいね。」

と彩恵はそういって、洗濯物を取り込み始めた。健太郎は、鬱と診断されたら、しばらく会社を休もうかと思っていたと述べたが、彩恵はそれは必要ないといった。

「なんだか鬱と診断されて、喜んでいるというかむしろ楽しんでいるようだな。そんなに病院でいいことがあったのか?それとも、躁病になったのかもしれないな。」

と、健太郎は、不思議な顔をして彩恵を見ている。確か躁うつ病という疾患もあるにはあるが、彩恵はそれには当てはまらないと思っていた。

「まあいい、お昼過ぎたら、峰雄も帰ってくるだろうし、今日は、晩御飯は何かケンタッキーでも買ってこよう。」

彩恵の姿を見て、健太郎はそういうことを言った。それにかまわず彩恵は、にこやかに笑って、洗濯物をとりこみ続けていた。

しばらくして、峰雄が学校から帰ってきた。今日、お父さんが早く帰ってきたのにびっくりしたらしい。

玄関を入ってすぐに、なんでお父さんがいるの?と声をあげたくらいだ。健太郎が、お母さんが具合が悪くて、病院に行っていたんだよと説明すると、

「お母さん本当にそう?なんかそうは見えない。」

といった。

「それに、余計に元気になっているように見える。」

子どもらしく、峰雄は無邪気にそういうこと言う。健太郎は、本当に躁病になったのではないかと、彩恵を心配そうに見た。

「大丈夫よ。二人とも、変な顔して私の事見ないでよ。」

と、彩恵はそういって、さて、晩御飯の支度にとりかからなくちゃというが、今日は病院に行ったんだから休めと健太郎は言った。そして、今日は俺がケンタッキーでも買ってくるといった。彩恵はそんなことしなくていいと言い張ったが、まあ今日は一日寝ていた方が良いと、健太郎は彼女を布団に寝かせて、峰雄と二人でケンタッキー・フライド・チキンの店舗に向かった。二人が、買いに行っている間、彩恵はもう笑いたくてしょうがなかった。彼女は、なぜか、うれしい気持ちだったのだ。それは躁状態に陥ったのとはわけが違った。それは、なんというのか、よくわからないけれど、要するに一言で言えば恋というものに陥ったということになる。あのマーシーさんという人にもう一回会いたい。そのためなら何でもしよう。彩恵の中にそういう気持ちが芽生えて、それで何かすることに、喜びを感じるようになってしまったのであった。



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