第57話 『神様の気まぐれ : Art』 鳥兎子さん

〇作品 『神様の気まぐれ : Art』

 https://kakuyomu.jp/works/16817139556979256652

 

〇作者 鳥兎子さん


【作品の状態】

 短編。完結済!


【セルフレイティング】

 なし。


【作品を見つけた経緯】

 私の『色彩と西洋絵画』(論文みたいなものです)を読んで下さった方で、どういう作品を書いていらっしゃるのか訪問したところ、この作品を見つけました。


【ざっくりと内容説明】

 写真と絵画のお話です。


【感想】

 主人公である絵茉は商業カメラマンです。

 彼女は紫陽花園で紫陽花を撮っていると、天パで丸眼鏡をかけ、デジカメを持った男性に声を掛けられるのです。どうやら彼も紫陽花を撮っていたのですが、上手く撮れなかったため、同じくカメラを構えていた絵茉に声を掛けたようでした。

 絵茉は、面倒そうに対応しつつも自分が撮った写真を見せると、彼はパッと顔を明るくしてこう言うのです。「これなら、描けそうだ」と。

 彼は、油絵画家だったのです。


 その先の展開は是非本編をご覧になっていただきたいのですが、この作品では三つのことが対立する構造になっています。


 まずは名前。主人公の絵茉と、油絵画家の男である映伴あきとも。これは本文中でも解説されますが、カメラマンの絵茉の名前には「絵」があり、画家である映伴の名前には「映る」という字があります。お互いが、名前とは反対のことをしていることがここで分かると思います。


 また、絵茉が選ばなかった「絵の道」と、映伴が選んだ「絵の道」。

 作中でははっきりとは書かれていませんが、絵茉は元々画家を目指していたようなのです。しかし、あることを理由に辞めてしまう。それが二つ目の対立です。


 そして「写真」と「絵画」。


 これらの対立構造が、『神様の気まぐれ : Art』の中心に据えられた考えるべき点であり、興味深さと面白さを引き立てているものだと私は思っています。


 ここで少し作品の内容から離れて、「写真」と「絵画」についてちょっと語ってみようと思います。


 あるとき、YouTubeでハリウッドスターの肖像画を色鉛筆でリアルに描くという動画を見たときのことです。私は単純に「すごい」と思ったのですが、知人は同じ動画を見て「それを絵で表現する理由って何?」と問いました。


 言われてみれば、その通りです。

 カメラのなかった時代であれば、写実的な絵は意味を持ったでしょう。

 しかし今はカメラがあり、スマホにも付いているので誰もが手軽に良質な写真(画素数の意味で)を撮ることができます。しかも調べてみると、それらの絵の題材は元々は「写真」。写真を見ながら真似して描いて、そこにどんな意味があるのか、というのです。


 もちろん、その絵を見て感動をする人がいるのですから、その絵に価値があることは間違いありません。絵の技術を学ぶために見ている人もいるかもしれませんが、中には純粋にその絵を楽しんでいる方がいるのも事実です。

 しかし知人の言う通り、写真で良いものを絵として描いたものに惹かれるというのは確かに不思議なことです。


 これを語るには書籍一冊分書けるんじゃないかと思う程長くなってしまうので、とりあえずこの辺で終わりにしておきますが、『神様の気まぐれ : Art』という作品はそういう意味で、「写真」と「絵画」という似て非なるものの魅了が、短くそして良い角度で語られていると思います。


 また絵茉の視点で描かれているので、カメラが好きな方は専門用語もちらほらと出て来るので楽しめるのではないでしょうか。

 気になる方は読んでみてください。


 今日は『神様の気まぐれ : Art』をご紹介しました。

 それでは次回、またお会いしましょう。

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