2
数時間の後、掃除を終えた二人は縁側で庭を眺めていた。時刻は既に午後四時を回る頃であり、陽が徐々に山の影へと隠れようとしている。この時間から何かを始めるには、もう遅い。あと一時間ほどで彼女の生は終わってしまうのだから。
それでも、彼女は満足したように笑顔でオレンジ色に染まりつつある空を眺める。
「はあ、久しぶりに動いたから疲れたわね」
「何言ってんだよ、疲れない体になったはずだぜ?」
「こういうのは気持ちの問題なの。天使さんったら、そういうことは知らないのね」
「ケッ、言うじゃねぇか」
ブスッと不機嫌そうに言葉を吐く男に、彼女はいたずらっぽく微笑む。だが男の顔を見たその時、彼女は何かを思い出したように、慌てて立ち上がる。
「ああ、しまったわ。お墓の掃除を忘れてた!」
「お墓?」
不意に立ち上がった彼女の顔を、男はキョトンと見つめる。
「そうよ、主人のお墓。あの子たち、きっとお墓参りにすら行ってないでしょうから、とても心配だわ……でも、今から掃除するのでは、とても間に合わないわ。ああ、どうしましょう」
「まぁ落ち着けよ。そうだな……」
立ち上がった男はチラリと柱時計へ視線を移す。そして、まだ余裕があると踏んだ男は、ぐーっと背伸びをした。
「うーし……それじゃ、行くとするかね」
「え?」
「え、じゃねぇよ。墓に行くんだろ?」
「え、ええ。でも、もうこんな時間ですし」
そう言うと、彼女も男と同様に柱時計を確認する。時刻はもう午後四時を過ぎており、もしこのまま墓へ向かったとしても、掃除の途中で命尽きる可能性があるのだ。それでは、死ぬに死にきれない。
だが、男はそれを重々承知で墓に行くことを決めた。男には何か、間に合うという算段があるらしい。
「掃除なんか要らねぇよ。死者には想いが届けば、それで良いんだ。掃除しても、またいつかは汚れちまうけどよ、想いは褪せることなく、いつでも綺麗なままで届くんだぜ。今回は手を合わせるだけで良いだろ」
「そう、かしら……」
「そうだよ。この俺が言うんだから間違いねぇ」
やけに自信ありげに
そして、少しだけ思案を重ねた彼女は、ふぅ、と軽く息を吐く。
「天使さんがそう
「ハッ、元よりそのつもりだよ。じゃ、もうちょっと近くに来い……よし、それじゃ行くぞ」
「ええ」
また男が指を鳴らすと、この古い家から二人の姿は消え去る。清掃されたこの家には、彼女が住んでいた痕跡すらも無くなっていた。まるで、ここには元々誰も住んでいなかったかのように。
さて、その一方で二人は、既に周囲は薄暗くなっている墓場へと到着した。着地の際に少し足を
「おいおい、大丈夫かよ」
「平気よ。それに、ここで転んでもどうせ逝くのですから、同じことですし……あら?」
精いっぱいの強がりを言いつつ、墓石へと視線を落とす。すると彼女は、荒れ果てていると想像していた墓が、綺麗に掃除されていることに気が付いた。掃除どころか、丁寧に花も供えられ、線香の煙が微かに周囲へと漂っている。
「誰か来たのかしら。……ああ、そういえば今日は、主人の命日じゃないの。自分のことばかり考えちゃって、すっかり忘れていたわ」
「なんだそりゃ、そいつはひでぇな」
「ふふ、すみませんね。でも、そう……子どもたちは、ちゃんと覚えていたのね。これなら安心して逝けるわね」
「……」
心の底から安堵したような、とても優しい笑みを浮かべ、彼女は静かに手を合わせる。夜を待ち望む鈴虫たちが、少し先走ったように辺りで鳴き始め、彼女の祈りを自然の合唱が彩る。
「なぁ、一つ聞いていいか」
「……何かしら、天使さん?」
目を開け、少し神妙な面持ちの男へと向き直る。
「そいつは、悪魔みたいなヤツだったんだろ? だったらどうして、そんなに祈れる。想える。俺にはそれが、とんと理解できねぇんだ」
「あら、そんなの簡単じゃない。だって――――」
一瞬、強い風が吹き木の葉が舞う。それに驚いた鈴虫たちは一斉に鳴き止み、辺りは一転して静寂と漆黒に包まれる。
「愛するって、そういうことなの。理屈じゃないわ。……ふふ、やっぱりあなた、何にも知らないのね」
「……そうかい」
不愉快に思うでもなく、その表情を変えぬまま男は小さく呟く。通常ならば、男はこの時点で即座に彼女の命を絶っていたであろう。だが、そう愚弄されてもなお、橙と紺の混ざり合い紫に染まった空を見上げる。
「さて、そろそろ時間だな。最期に、神様へ祈りを……いいや、せっかくだ。さっきの説教の礼に、あと三十分だけ寿命を延ばしてやるよ」
「え、良いのですか?」
「良いも何も無ぇ、俺の気が変わらんうちに、さっさと行き先を言え」
「そう……でしたら」
急な提案であったが、彼女はすでにその答えを決めていたように、微塵も悩むことなく答える。
「『港の見える丘公園』に向かってくださらない?」
「港の、って……
目を見開く男に、彼女は微笑みながら言葉を紡ぐ。
「あそこはね、主人にプロポーズしてもらった、思い出の場所なの。最期にあそこの景色を見てから逝きたいわ」
「ほう? それはまたロマンチックな。いいか、三十分だけだからな。それ以上はもう、俺の権限では無理だ。絶対に逃げ出したりするなよ?」
「分かっていますよ。この期に及んで、そんな見苦しい真似をするものですか」
「そうかよ。そんじゃ、行くぜ」
そう言うと、男は先ほどと同じように指を鳴らす。その刹那、墓地からは人の気配が無くなり、二人がいたはずの場所に線香の煙が漂い始める。そして、誰もいなくなった墓地からは鈴虫たちの歌声が高らかに響き渡るのであった。
横浜市、港の見える丘公園――――
「さて、着いたぜ」
「ああ……懐かしいわね」
この公園にしては、珍しく人気のない日であった。別段、悪天候であった訳でも、ドラマなどにより封鎖されていた訳でもない。本当に、ただの偶然である。
しかし、これから旅立つ予定の彼女にとっては、それが大きな救いとなった。思い出の場所を、思いのままに独占できるのだから、こんな贅沢なことはない。故に彼女は、恍惚にも似た満面の笑みを浮かべる。
「あの時も、このくらいの時間帯だったかしらね。主人ったらとても緊張してしまって、その花壇に
「そりゃ、お気の毒にな。しかしなぁ……そこで断ってたら、そいつの悪魔のような姿を見ずに済んだだろうに。残念だったな」
「なによ、結婚したことに後悔なんてしてないわ。理不尽で、融通利かないところもあったけど、それでも私の愛した人であることには変わりないんだから。それにね」
ベンチを見つけ、彼女はゆっくりと腰かける。軽く息を吐き、そろそろ星が瞬こうかという空を見上げながら、話を続ける。
「ここが、全ての始まりだったから。あの人のお陰で私は色んな世界を見て回れたし、子どもが産まれてからも、家族であちこち旅行してね。喧嘩も多かったけど、その分、笑顔も多かったかな」
「……そうかい」
男もまた、話を聞きながら彼女の隣へ座る。最期のその瞬間まで、せめて話だけでもゆっくり聞いてやろうと考えたのかもしれない。だが、そんな男の様子を気に留めることなく、彼女は饒舌に語る。
「あの人はね、口は達者だったけどエスコートは下手でね。初めて銀座でデートした時なんか、手も繋がずに一人で先に行っちゃって……帰りは大喧嘩だったわ。それも、楽しかった思い出の一つ、なのですけどね」
「そうか」
「子どもが産まれてからは、山にも登ったし、海にも入ったし。色々な場所で、主人と、家族と……過ごして……」
空を見上げる彼女の目から、一粒の涙が零れ落ちる。それだけではなく、声は詰まり、体を震わせる。たくさんの家族との思い出を走馬灯のように過らせ、彼女は俯き顔を手で覆った。
「お、おい。大丈夫か?」
彼女の豹変に驚き、男は顔を覗き込もうと前へ跪く。波の打ち寄せる音と、彼女の嗚咽だけが周囲へと響き渡る。
「……ああ、駄目ね。もうここで終わりなのに、もっとたくさん行きたい場所がある、だなんて。終わってしまうのが……死ぬのが、こんなに怖いだなんて」
そして覆っていた手を外し、涙を止めることなく男へ弱々しく微笑む。
「あなた、天使じゃなくて悪魔ね? この世に未練を与えて、それを見て喜ぶ極悪人。そうでしょう?」
「違う、俺は――――」
反論しようと男が開こうとした口に、彼女は人差し指で軽く触れる。それと同時に、強い海風が彼女の涙を拭った。
「違わないわ、あなたは悪魔。私を二度も連れ去ろうとする、最低の悪魔よ」
「え……?」
目を見開いた男を見て、彼女は目を滲ませながら、静かに微笑んだ。
「気付いてないとでも思った? 姿かたちは変わっても、あなたはあなたよ。数十年も寄り添って来た、私を舐めないでいただけるかしら」
「お前……いつから……」
「そうね、家に着いたときには。でも、連れて行ってくれるのがあなたで良かったわ。これなら、ちょっとは安心できそうよ」
「……」
そう言うと、彼女はベンチから立ち上がり、眼下に広がる港を眺め始める。腹を括り終えたのであろう彼女の姿に、男はただ俯きながら呟く。
「すまんな。最期まで俺は、良い旦那じゃなかったらしい。お前にそんな顔をさせるために、こうして来たわけじゃないのにな」
「何よ、今さら。そんなところも含めて、愛してしまったのは私よ。だから、落ち込まないでくださいな。これからはずっと、一緒にいられるのだから」
「ああ、そうだな……」
悲し気ではあるが、しっかりと顔を上げた男を目にし、彼女は小さく頷く。そして、ゆっくりと男の方へと歩を進め、手を差し伸べた。
「さあ、今度はちゃんとエスコートしてくださる? もう二度と、私を独りにしないようにね」
天使と悪魔 小欅 サムエ @kokeyaki-samue
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