天使と悪魔

小欅 サムエ

1

 小さな療養型病院の一室。誰も見舞いに来ない個室のベッドの上で、その老婆は静かにその時を待っていた。


 医師より末期であると告げられ、すでに二か月は経過していた。不思議と頭の方はしっかりとしているのだが、衰弱した体はもうほとんど動かない。


 ベッドの上で、何の代わり映えもしない景色を眺め続けるのが彼女の日課だ。長い時間、このように過ごしてきてしまったため、彼女はもう生に対して希望どころか、絶望すら抱かなくなっていた。まさに、生きるしかばねとは彼女のことである。


 だが、ただひたすらに待つだけの日々は、唐突に終わりを迎えることとなった。


「あら?」


 白い天井を見上げる彼女の目に、まばゆい光が差し込む。それと同時に、ゆっくりと白鴉はくあのような綺麗な翼、そして鋭く強かな目をした男が、ベッド脇へと降り立ったのである。


 彼女は一瞬、とうとう頭までおかしくなってしまったのかと狼狽うろたえた。だが、すぐにそうではないという結論に至る。空から舞い降りた、白い翼を持つ男……それはまさに、彼女が待ち焦がれていた存在であったのだから。


 そんな彼女の想いを知ってか知らずか、男は静かに口を開く。片方の口角だけを上げる彼の笑みは、どうにもそのシルエットとは似つかわしくなかった。


「おう、突然悪いんだけどよ。良いニュースを持ってきたぜ」

「あら……何かしら、天使さん?」


 彼女の問いかけを受け、男は意地の悪そうな笑みを消すことなく話を続ける。


「なんだ、肝がわってやがんな。つまらねぇ」

「ふふ……それはもう、この時を待ち望んでいたのですからね。それで、ようやく連れて行ってくれるのかしら」

「ふん」


 想定外の態度が気に食わないのか、少し機嫌を損ねたように男は溜息を吐く。そして、期待に胸膨らませる彼女に対し、ぶっきらぼうに言葉を放つ。


「お前さんの思っているようなことじゃない。それは、そうだな……あと二か月、ってとこだな」

「あら、そうなの……残念ね」


 すっかり逝けると思いこんでいた彼女にすれば、それなりにショックな報せであったはずだ。だが、今さら余命が延びたという話を聞いたところで、何もない。それほどまでに、絶望色に馴染んでしまっていたようである。


 しかし、彼女は合点がいかぬ様子で男を見つめ返す。それというのも、この男は良いニュースを持ってきた、と言ったのだ。余命が延びていることが良いニュースだ、などと、天使ともあろう者が考えるはずもない。多くの人間の死期を目にしているのだから、延命という行為が幸福に繋がるのかどうかくらい、分かっていても良いはずなのだ。


 では、良いニュース、とは何か。先ほどから神妙な面持ちで黙りこくっている彼に、彼女は恐る恐る訊ねる。


「天使さん? それで、良いニュースって何かしら」

「……ああ、そうだったな。あまりにお前さんが無感動なせいで、目的を忘れるところだったぜ」


 男は着用する衣服を整え、威厳を取り戻そうとしているかのように腕を組み、じっと彼女を見下ろす。


「お前さんの命を頂く。その代わり、陽が沈む時まで自由の身にしてやろう。どうだ?」

「自由の、身……?」

「そうだ。健康体になって、そうだな……行きたいところに連れていってやろう。望むなら、地球の裏にだって一瞬で運んでやるさ。どうだ、良いニュースだろう?」


 得意げに胸を張る男に対し、彼女は唖然とする。それもそのはず、天使にはまるでメリットのない提案なのだ。何か良からぬものを勘繰かんぐらない方が不自然であろう。


「それ、本気で言ってますの……?」

「ああ、本気も本気さ。医療が発達したせいで、どうも最近は神様を信じる人間が少なくなってな。そうならないよう、神様の力を体験させてみようって話になったのさ。そんで、その被験者が、お前さんってことだ」

「ああ、なるほどね……」


 確かに、それは道理だ。昔は死が身近だったために生の価値が高かったのだが、今ではその価値は逆転しかけている。彼女のように無意味に生かされる人間が多くなった結果、神への信仰にも影響しているのだろう。


 どうやら今の世は、天使にも神にも生き辛い世界となってしまったようだ。


「そんで、答えは?」

「え?」

「だから、残りの命を全部使って、やりたいことをやるのかって聞いてんだよ。言っとくが、返答を待っている時間なんて無いからな。早くしないと、半日すらまかなえなくなっちまう」

「それは、どういうこと?」


 彼女の質問を無視し、窓の縁に腰かけた男は、トントン、と催促するように指で窓枠を叩く。どうやら、もう無駄な質問に答える気はないらしい。


 軽く息を吐くと、意を決したように彼女は男へと返答する。


「……分かったわ。どうせもう先なんて無いようなものですし、ね。最期くらい、楽しく過ごさせて貰おうかしら」

「よしきた。目を瞑れ」


 待ってました、と言わんばかりに立ち上がると、男は上空に向けて腕を伸ばす。彼女は彼に言われるがまま、静かに目を瞑った。挙上する男の周囲に光の粒が集まり、そしてそれらは徐々に彼女の方へと集まってゆく。そして――――


 パチン


 男は指を高らかに鳴らす。その刹那、光の粒は消え、何事も無かったかのように病室は無機質な白に包まれていた。音に驚いた彼女が目を開けると、相変わらず男はあの汚い笑みを浮かべながら、彼女を見つめる。


「終わった、の?」

「おう。……それじゃ、早速行くとするか。どこに行きたい? 何をしたい? 何でも叶えてやるぜ。ああ、犯罪行為に関してはサポートしねえからな。これでも俺、天使だし」

「ふふ、何それ……って、あれ?」


 男の言動に思わず笑い、手を口元に動かした時、違和感を覚えたように彼女は静止する。つい先日まで、腕を前に出すことすら叶わなかったのに、口元まで腕を動かせているのだ。


 戸惑う私の様子を見て、男は満足そうに嗤う。


「はは、だから言っただろ。健康体にしてやる、ってな。腕だけじゃなく、脚も動くぜ。ほら」


 そう言って、男は彼女に手を差し伸べる。無骨だが優しさのあるその態度は、とても天使とは思えぬものであった。


 彼に導かれるまま、腕を動かし、起き上がる。


「わあ……どこも痛くないし、怠くもない……こんな、こんなことって……」

「すごいだろう? さて、そろそろ急がねえと、すぐに日が暮れちまうぜ。さっき言った通り、お前さんの寿命は陽が沈むまでの間、だ。もたもたしてる暇は無いぜ」

「そうね、分かったわ。……それじゃ、お願いできるかしら。まずは私の家に向かって頂戴」

「おう、お安い御用だ」


 そして、男が指を鳴らすのと同時に、二人の姿は病室から跡形もなく消え去った。ベッドには、誰かが寝ていたであろう形跡と、白い羽根だけが残されていた。




「さて、着いたぜ」


 男の声を受け、彼女は顔を上げる。畑に囲まれた中にポツンと佇む大きな家屋が、唐突に眼前へと現れたのである。


「これ……」


 思わず彼女は我を忘れ、大きく口を開ける。どんな時でも品を欠かぬように、と教えられてきた彼女ですらも、感情を露わにせざるを得なかったのだ。


「どうだ。望んだ通り、お前さんの家に連れて来たぞ」

「……」


 感激のあまり、言葉にならない様子の彼女を見て、男はまた満足げな笑みを浮かべる。だがそれも束の間、男は彼女の背を軽く叩いた。


「おら、時間が無いって何度も言ってるだろ。それとも何だ、ここに来ただけでお前さんは満足なのか?」

「それは……」

「しっかし、アレだな。ここには誰も住んでねぇのか? 手入れがまるで行き届いてねぇ。これじゃ廃墟だな」


 男の言う通り、彼女の家はかなり荒れた状態にあった。彼女には子どもが四人いたはずなのだが、この様子では誰一人としてこの家を管理していないようである。


「……そうね。私が入院してからは、多分誰も来てないんじゃないかしら。財産が無いからって見舞いにすら来ないんだもの、当然よね」

「ほー。そりゃまた、親不孝なことだな。金の切れ目が縁の切れ目、ってヤツだな。そういう風に育っちまったんなら、仕方ねぇな」


 嘲るように言い放った男に向き直り、彼女はツンと口を尖らせる。側道を走る軽トラックの走行音にも負けないほどの力強さで、彼女は男へ言い返す。


「あら、私が悪いみたいな言い方は止めてくださる? 絶対に主人に似たのよ、あの子たちは。悪魔みたいな男でしたからね、主人は」

「悪魔、ねぇ……ハハッ」


 先ほどまでの底意地の悪い笑みとは異なり、噴き出すように表情を崩す。そして、やれやれと両手を広げながら、男はむくれたままの彼女へと問う。


「悪魔と生活してたんじゃ大変だったろうな、心中察するぜ。さて、それでどうするんだ? 家を見て終わり、ってことはねぇんだろ?」

「いいえ。今さら行きたい場所なんて無いから、せめて家くらいは掃除しないと、って思ったのよ。ほら、立つ鳥跡を濁さずっていうじゃない。それに生前整理もロクに出来なかったことですし、せっかくなら後腐れなく逝こうかなって」

殊勝しゅしょうだねぇ……ま、お前さんがそう決めたのなら、止めやしないさ。じゃ、さっさと始めようぜ」

「え?」


 そう言って軽く肩を回しながら家へと入ろうとする男を見て、彼女は目を丸くする。さざめく防風林の音色と共に、心地よい風が二人の間を通り抜ける。


「どうした」

「あの、そんなことまで手伝ってくださるの? それはいくら何でも……」

「良いんだよ。本当ならもっと色んな欲望を叶えてやるつもりだったからな、これくらいじゃ、むしろ拍子抜けしたくらいだよ。それに、二人でやれば半分の時間で終わるだろ?」

「……そう。それなら、お願いしても良いかしら」

「おうよ」


 羽と同じくらい白い歯を零し、男は笑った。それを目にした彼女は一瞬だけ空を見上げ、小さく微笑み男の後を追って家の中へと入っていった。

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