いち直線

 その後、飯島先輩は意識を失った。

 気力を振り絞って、限界まで「ファイト」したのだ。逆にあそこまでどういう原理で動けたのか、現代科学では説明がつかない。

 呼吸とバイタルは正常で、医師の見立てでは、力尽きて気絶しただけという見解だった。だが一日、二日と経っても目を覚まさない。

 僕のせいで止めを刺していたら、どう責任を取ればいいのだ。

 飯島家の人たちは何も責めてこなかったが、はらはらして生きた心地がしなかった。生来の不安気質もあり、家に戻ってからも、いつもの生活から程遠かった。

 三日後。

 彼女はぱちくり目を覚まして、ナースコールで駆け付けた看護師に、

「おはよーございますっ」

と元気に挨拶したという。

 拍子抜けするとは、まさにこのことだ。

 この話を父親の雄二さんから電話で聞いたときは、二人して苦笑がれた。


 正直、主治医はさじを投げていた。ほとんどすべての望みが絶たれた状態で、「激怒させて、生命力を引き出す」という専門家の思いも寄らないカンフル剤にすがるしかなかった。分の悪い賭けだった。

 打つ手がない局面で、だが、僕たちは賭けに勝った。





 精神の安定は、肉体の充実につながる。

 先輩はその格言を忠実に体現した。

 その日から、彼女はぱくぱく、ぱくぱく、きっちり三食、食べだした。

 一人分では、

「足りなーい。もっと!」

と言うくらい。

 いったい、これまでの苦労はなんだったんだ……

 家族も僕も愕然がくぜんとした。


「昔からこうなんすよ。絶望的なオーラを出した、次の日には、にっこにこしてることが、けっこうあって…… ほんっとうに、いつもいつも急で……」

 二回目のお見舞いで同席した、弟の海斗があきれ顔で、彼女の過去秘話の一つを教えてくれた。

 何とか大学の卒業論文発表までぎつけた、発表会前日。

 最後の最後、研究室での論文の打ち合わせに連絡もなく、無断で大遅刻してきた先輩は、教授の目の前で机に突っ伏して、

「もう無理ですっ、発表なんかできないですっ」

と、わんわん泣き出したそうだ。

 そして、さんざん教授や保健センターの職員、迎えに来た家族を困らせた翌日、けろっと普通に発表してのけたらしい。

 その時の本人いわく、

「今日はとても気分がよかったの」

 そりゃあ、大学院の受け入れ、拒否されるでしょうね……

 もちろん海斗との会話は、本人がいない所での一幕である。





 さすがに足腰は弱っていたが、正方形の廊下をぐるぐる歩き回って(というか暇で暇でそれくらいしか、やることがないとのこと)、あっという間に筋力を取り戻した。

 三回目の面会で「わはははっ」とダッシュして寄ってきたので、超びっくりした。

 だいたい二週間に一度、面会をした。

 一度、昼食に同席させてもらった。料理は温かくて、色鮮やかでおいしそう。病院食は味が薄い、冷めたご飯だと勝手な想像をしていた。なんと夕食にはステーキも出たことがあるらしい。


 カラオケの機材もあった。聞くだけならと混ざった。

 当然、そうなるわけがない。 

「聞くだけでいいって……」

「ほれほれ~ ノリが悪いぞ~」

「聞くだけ……」

「歌え~」

 聞くだけ……





「実は私の生まれた時の名前は、彼方かなたっていうんだよ」

 四度目の面会の会話で、お互いの名前の話題になった。

「今では平凡な部類の名前だけど、当時は十分キラキラネームだったんだ。うちは一番上が男だから、次は女の子が欲しくて。でも男女どっちでも大丈夫な名前を、お父さんが考えたらしい」

 実際に飯島家の二人目は女の子が生まれ、彼方と名付けられた。

「別に響きは嫌いじゃなかったよ。漫画の主人公っぽくて、かっこいいし。でも学校でさあ。教室で普段から顔を合わしてたら、女って分かるけど。学校全員が集まる全校集会、そこで掃除を頑張ったとか、素行優良とかで表彰される時、『飯島彼方いいじまかなたくん』って呼ばれるの。あれが嫌で嫌で。恥ずかしくて」

 素行優良で表彰されたのは本当ですか、とは聞かない。

「それで改名かいめいしたんですか?」

「うん。両親も心中ではどう思ってたかは分からないけど、口では構わないと言ってくれたからね。15歳の誕生日が来たら、すぐに変更した。三年くらいうんうんと悩んだけど、元の名前の名残なごりも残したかったし、『かな』って女の子らしいかなって。漢字はどれでもよかったから、びびっときたものを選んだ」

 君の名前にはどんな由来があるの?と振ってくる。

「単純ですよ。つきみちです。父親が考えたそうです」

「幻想的だよね」

「僕も気に入っています」

「君は月の路を通って、いつか月へ帰るのかい?」

 ふふんっ。

 うわ、どや顔、むかつく……





 将棋の相手もした。やはり何局指しても、一回も勝てない。パチパチやっていると、ふがふがいうお爺さんたちが「わしらも混ぜんかい」とわらわら寄ってきた。

 好色爺さんらは、たいてい美人の飯島先輩に相手をしてもらいたがったが、順番待ちの時間潰しに僕が呼ばれた……

 パチン。

「ありゃ、二歩だわ」

「二歩ですね」

「待った、な」

……えー

 一度、痴呆ちほうがかなり進んでいるお爺さんの相手もした。口の端からよだれをたらしながら、真剣勝負。

 パチン。

「あ、あの~、詰んでます、よ?」

「お、お~? そうかあ……」

 パチン。(次の一手を着手)

………

 どうしたらいいんだ……

「相手してくれて、ありがとうね~」と看護師さんに、とても感謝された。





「またテレビであの話題やってるよ~」

「あの話題?」

「人がいなくなるやつ」

「あ~、あれですか」

「ついに国内、九千人超えたって」

「一万人行きますかね。でもコロナは十数万行きましたからね」

「ねー、まだまだ少ないかなあ」





 一年に一回開かれる院内のお祭りを見て回った。

 ボランティアの人がハンドマッサージをしてくれるコーナーがあった。初めての体験でぬるぬるの液体を塗られて、恐る恐るだったが案外気持ちいい。満足げな表情の僕を見て、接触不安で人に触れられない先輩はうらやましそうだった。

 フリーマーケットは全体的に、金額のけたが一つ少なかった。

 先輩は実用的な物ばかり購入した。

 ハンドソープ(30円)、シャンプー(50円)、歯ブラシ(10円)などなど。 

「すごいお得だね~ あれもこれも欲しくなるね」

「先輩は、いい奥さんになれますよ」

「へへんっ、覚悟しておきなよ~」

……何の覚悟だろう。






 数えるのを忘れていたが十回は、たぶん行ってない。

 そんな、何回目かの面会で。

 また巡ってきた、うだるような夏の日に、「ご報告」があった。


「喜べ、青年」

 おどけた口調で彼女は言った。



「退院できるってさ」

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