Fragment.4.0

終わり方


 私が精神科・心療内科に通い始めたのは、高校に入ってすぐさ。半年我慢して通学して、耐えきれなくなって「学校辞めるっ」と言い出して、親が慌てて医院に駆け込んだ。

 一つ目は駄目だった。近所では有名な医院だったけど。年配の無愛想な男の先生で、私が警戒して話にならないでいたら、いきなり「統合失調症」と言い出した。

 受け答えができない=統合失調症、いやあ、すごい思考回路だよね。まあ、私も統合失調症のことはよく知らないから、偉そうなことは言えないけど、幻聴、幻覚はまったくないから。「ビューティフル・マインド」は面白かった。え? 知らない? ラッセル・クロウ主演の、二十代で統合失調症を発症して、後年にノーベル経済学賞を受賞した人の、実話をもとにした映画。傑作だよ。今度見てよ。

 親もここは駄目だといろいろ情報を集めて、近所の町医者がいいらしいと、職場の同僚から聞いて受診した。

 そこで処方された薬がすごくて。すぅーと頭のもやもやがすっきり消えて、不安が薄れて大胆になれる。私を汚物扱いするあいつらと廊下ですれ違っても、へへんっとしていられる。せまっ苦しい教室でぎゅうぎゅうでも大丈夫。一日、いや二日は高揚した気分でいられる。

 まさに魔法の薬。

 この薬のおかげで私は高校を卒業できた。

 私は季節の変わり目にも弱いんだ。特に日が短くて、気温が下がりだす九月、十月。悲しい、心細い気分になる。体から力が抜けて、何もする気になれない。そんな時、魔法の薬を飲む。じわじわ薬が効いてくるのが、肌で分かる。

 ハッピーになれる。

 周囲の人にこの薬の効能を誇らしく、どれだけ優れているか説明すると、お兄ちゃんは「普通そんなすぐ効くか? その薬、危なくないか?」と失礼なことを言ってきたので、三日は口を利かなかった。

 実際の所、魔法なんてものは現実には存在しなくて、もし魔法のような現象があるとすれば、裏に必ず何かある。私はとんでもない馬鹿で、他人の助言を聞く耳を持たない。自分でこうだと思ったら、根拠もなく何かを信じるイノシシ頭。そのくせうまそうな話にはすぐ影響されて、悪い人にだまされる。生きていたら損を続ける。

 これも死ぬ理由の一つ。




 大学に入って「時間」ができて、自分が飲んでる薬のことを調べる機会を得た。びっくりしたよ。あのお世話になってた薬はとっても強力なやつで副作用、依存性があって、外国だと短期、二週間の処方しか許可されていないんだ。そんな薬を三年も、ガブガブガブ。

 お兄ちゃんは正しかった。

 すぐに断薬することを決意した。主治医に一言いえばよかったけど、その頃、既に私の医者への信頼は地に落ちていた。

 私にとって医者は魔法の薬を出してくれる売人でしかなかった。初めはいろいろ悩み事を相談できる人だった。何回目かの相談で「医者は万能な存在ではないんだよ」とさとされて、熱が冷めた。自分で解決できないから通院までしてるのに、どうしようもできないなら、あなたと話す意味がないのでは? って。そういう両極端な所がよくないと周りから言われるし、自分でも分かっているけど。

 というわけで一切相談せずに、断薬を開始した。

 その頃はもう乱闘騒ぎを起こして、大学を休学していて、時間があったのも断薬を開始できた、理由の一つ。

 調べる余裕が出来てしまったのは、幸いなのか不幸なのか。

 未だに結論は出ていない。

 結論を出さないで、「おしまい」にするつもりだったのに。


 二週間も飲まないでいると、昔の、小学生の頃の感覚が戻ってくるのを感じた。

「そうだよ。これだよ、これ」

 初めは喜んだ。正常な頃の感覚を思い出せたから。

 でも、すぐに失敗に気づいた。

 常に得体の知れない不安に精神が支配される。

 一時いっときも消える時がない。

 苦しすぎた。

 また魔法の薬を飲み始めた。

 何ということか。

 効かない。

 耐性がついてしまったんだろう。

 即効性がある薬というのは、耐性がつくのも速い。

 むしろ今まで、六年も効いていたのが奇跡だ。

 苦しすぎた。

 飲む、飲む、飲む。たくさん飲む。

 胃が薬のせいで焼きただれるまで飲む。

 とにかく効いて! 効いて! 効いて!

 二日、耐えた。

 他にも毎日処方されてるいろんな薬を、わるわるガブガブ飲んだ。

 不安よ、マシになれ!! 不安よ、減れ!!!

 減らない……

 もう、何の効果もなかった。

 日常はぐちゃぐちゃ。

 読書も食事もゲームも、何も手につかない。

 アニメを見ても、全然楽しくない。

 思考も不安に完全支配されている。

 もう無理。

 もう一日さえも、こんな状況は耐えられない。


 三日目の夜、家族が寝静まるのを待って、台所から包丁を取り出して外へ出た。

 さようなら、みんな。





 死ねなかった。

 うちの包丁はとんでもないなまくらだった。何回もぐいぐい押し当てて、切りつけたけど、首をぬぐっても多少、血だらけになる程度だった。いや実は包丁の切れ味は、あまり関係ないかもしれない。首の大動脈を綺麗きれいに切断するのは、私の腕力では難しい。豚や牛を解体するのは、ものすごく力がいると聞くしね。

 何も好転しないことは分かっていたけど、諦めて寝た。

 翌朝、絶望的な気分で目覚めて、起きてこない寝坊助ねぼすけ娘を起こしに来たお母さんが、血だらけのベットを見て半狂乱になった。先に出勤していたお父さんも急遽きゅうきょ帰宅し、医者に速攻、連れて行かれた。

「明日まで死なないと約束できますか?」

 医者は言った。

 とんでもない。

 明日まで待てない。

 今すぐこの不安を何とかしてくれ。

「死なないと、約束できますか」

「できません」

 きっぱり言い切った。

 おさらば。

 この医者には二度と行ってない。

 私は晴れて、入院施設のある大病院に転院となった。

 


 入院した病院では、まず薬の飲み方が変わった。今まで朝昼晩と飲んでいたが、夜にまとめて飲むことになった。その方が就寝中に薬の成分が血液中に広がり、日中の悪影響が少ないそうだ。薬自体も全然違うものになった。

「ではこれまでの処方は、間違っていたということですね」

 と尋ねたが、新しい主治医は明言を避ける。言葉にすることで、自分と前の主治医に、責任が発生することを恐れたのだ。

 私としても認めたくなかった。

 あの苦労して卒業した高校生活と、今までの苦しいながらも、乗り越えてきたキャンバスライフが否定される。

「長い目で見ていきましょう」

 主治医は言った。

 その「長い」がどのくらいを指しているのか、聞かなかった。

 聞きたくなかった。

 閉鎖病棟では、本来禁止されているはずの長物、具体的にはベルトの持ち込みがスルーされた。職員が検査をおこたったのだろう。

 チャンスだ。

 入院して数日が過ぎていた私は、決まって午後二時ごろに「死にたい」衝動が高まった。首吊りの準備をする。

 だが、肝心の引っ掛ける所がない…… 

 だから没収されなかったんだ。それでもわずかにとがっている所を見つけて、った。

 体重を支え切れず、ベルトは壊れてしまった。

 ああ、もったいない。ちゃんとそう思えた。

 どうやら、無理だと悟った。

 どうしても彼らは、私を死なせたくないようだ。

 ここでは死ねない。

 私はすんっとおとなしくなった。

 結局丸二カ月、病院に居て、精神がある程度落ち着いたと判断されて、自宅に戻った。




 私には、今でも魔法の薬の副作用が残っている。

 例えるなら、アルコールが足りない気分。

 アル中ってのは、こんな感じなのかな。

 喉が渇く。

 酒が、薬が欲しいって気分。

 そんな後遺症は長く続いた。

 今も完全に抜け出せた気はしない。

 時々、魔法の薬をもしかしたらって期待を胸に飲んでも、やっぱり効かない。

 やっぱり、いつも不安。




 楽な死に方ってなんだろう。

 退院した後、ずっと考えていたのはそれ。

 これまでは首切りがいいと思ってたけど。間違いだったようだ。

 首吊りも苦しかったし、直前の恐怖心が半端なかった。

 一番簡単、確実に死ねるのは電車に飛び込むことだろう。まっすぐレールの上を猛スピードで走っているから、電車は避けようがない。ただ、残された家族に鉄道会社は、運行妨害の何千万の多額の賠償金を請求してくる。私はそんな負の遺産を、あの愛する家族に残したくない。

 雁字搦がんじがらめの良心的な規則が、自由な自死を、自殺を、あの手この手で防ごうとしてくる。そもそも自殺を考えなくてもいい、社会を作るのが大切なのに。今の社会は「とにかく死ななければ、それでいい」という考え方だ。

 生活の質(QOL)は二の次だ。

 そういうわけで、次善の策として自動車に飛び込むことにした。損害賠償は車の所有者だけで済むはずだ。だが、ぶつかる直前でもハンドルを切られれば、避けられてしまう。

 実際にその悲劇が起きた。

 念のため、両側が森になっていて、クッションになる道路を選んだから、運転者は軽症で済んだ。

 私も軽症。

 だが再び、閉鎖病棟に放り込まれた。

 今度は出るのにもっと時間がかかった。


 はあ。私はまた、生き延びてしまった。

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