第八章

春の再会

 いつものことだ。

 あっちも離れて、僕も離れる。 

 言葉が出なくなって無理やり紡いで、失言して気まずくなって、そうやって今まで他人から距離を置かれてきた。置いてきた。

 彼女との関係はお終い。

 このままフェードアウトして、記憶は彼方かなたへ消えていく。

 少ししい、というか悔しい気持ちがしたけど、錯覚だと打ち消して、僕は日常を取り戻していた。

 だから、ある春の暮れ、土曜の午前に、スマホに「飯島加奈」の表示が出た時は、本当にびっくりした。



「も、もしもし? せん、ぱい?」

 よく分からない感情で、震え声になってしまう。

「こんばんは」

 電話口の声は、男性だった。

「一度お会いしたことがありますが、覚えておいででしょうか。飯島加奈の父の雄二です」

「……あ。はい……」

「娘のことで大事な話があるんですが……。 ……不躾ぶしつけだが、自宅へ来てくれませんか。場所は分かる……だろうか」

「あ、はい…… 分かります」

「時間は都合のつく時でいい……と言いたいが、できれば早く……今日か、明日にお願いしたい。申し訳ない」

 歯切れの悪い口調。

「はい……」

 では今日、今からうかがいます。その言葉で締めくくり、僕は電話を切って、少しぼうっとしていた。

 そんな自分にはっとなって慌てて、身支度の後、家を飛び出した。

 自転車を持っていないので、走る。

 全力近くで。




 飯島先輩の自宅は、以前と何も変わるところはなかった。

 本当に何も。

 あの時から時間が経過してないようにさえ、思える。

 先輩の父親……雄二さん……が自ら、玄関まで出迎えてくれ、居間に通される。

「急に呼び立てて、本当にすまない」

 雄二さんは、少しせたように思える。

「久しぶりだな……」

 お爺さん……啓二さんだったか……の憔悴しょうすいぶりはもっと酷い。以前あった時も痩せ気味だったが、さらに骨が浮き出てガイコツのよう。

 相変わらず、ギラギラした目には生気を感じるが。

「はい、お久しぶりです」

「妻は自分の部屋にいるが……体調が優れなくてね。休んでいる」

 無言でうなずき、次の言葉を待つ。

「簡単に言えば、娘は……入院している……もう三カ月以上。一度、退院したが、すぐに病院に戻った」

 そう、だったのか……

「そして今日まで至るんだが……生命の危険な状態なんだ」

「……危険な状態、ですか」

「ああ、食事がれない。食べ物が一切、のどを通らないんだ」

 食事が摂れていない。

 僕も実は過去に、一度だけ経験がある。

 精神的ストレスによる拒食きょしょく症。

 食べ物を見ても食欲がくどころか、気持ち悪くなる。何も吐くものがないのに、もどしそうになる。

 食べることは生きることそのものなのに。

 まさに、生き地獄。

 拒食症にはおおまかに二つのタイプがあって、まったく食べ物を口にできないか、食べても吐いてしまうか。大量に食べて、全部吐く人もいる。

 いずれにせよ、栄養が摂取せっしゅできないのは、同じことだ。

 そして最悪の場合……死ぬことも、ある。



「本人も危険な状態だと、もちろん分かっている。私たちが何かして欲しいことがないか、と聞いたら、どうしても月路君に会いたい、と希望してきた」

「私も昨日の夜、本人から聞いたばかりで連絡が急になってしまった」

 再びの、「申し訳ない」

「君の了解を得ないといけない」

「どうかな。可能ならば会ってやってほしい」


 お願いします。父親は頭を下げた。

「わし……いや、わたしからも……お願い、します……」

 祖父まで頭を下げる。

 僕はとても断ることは出来なかったし、断るつもりもなかった。


 僕は先輩に会いたかった。




 雄二さんの車で病院までやって来る。啓二さんは家で留守番だ。

「歳かな……。今のあの子の顔を見る気力がない……」

と薄く苦笑いしていた。

 午後に病院を訪れるのは初めてだ。

 普段、患者であふれているエントランス、診察室前の待合場所は、まったく人の影がなかった。

 本当にいつもの場所かと疑うほどだ。

 そして上階へ通じるエレベーターで、三階の閉鎖病棟に、初めて足を踏み入れる。


 

 エレベーターから出ると、分厚い透明の二重ガラス窓に阻まれた。

 患者たちが、逃げださないための役割。

 改めて、人を閉じ込める監獄のような所なのだ、とまざまざと思い知らされた。

 このご時世、普通の病院は、家族以外の面会は認めない。家族さえ緊急時しか会えない所もある。

 今はその、緊急時なのか……?

 部外者を招き入れるほどの……

 手指の消毒、全身の殺菌処理をして扉の中へ踏み入る。


 正方形の廊下にずらりと病室が並び、南東の日当りのいい場所に食堂、遊戯室、喫煙室などが設置されている。

 イメージしていたものより、清潔感、開放感がある。

 初老の主治医(僕の主治医とは違う人だった)、看護師たちと軽く顔を合わせ、303号室へ促される。

 ネームプレートは「飯島加奈」の一枚しかないので、個室だろう。

 扉をノックする。

「どうぞ……」

 力のない声が中へ招く。

 雄二さんとアイコンタクト。

 うなずく。

 スライド式の鍵のない、扉を開ける。

 閑散かんさんとした室内。

 据え置きの棚には雑多な日用品、本に漫画とうず高く積まれている。

 ここら辺は彼女の部屋らしい。

 ベッドが窓側に一つ。遮光カーテンで直射日光はさえぎられている。

 扉を閉める。

 先輩が望んだのは、僕と彼女だけの二人の密会。

 雄二さんは廊下で、主治医、数人の看護師と共に「万が一のため」、待機している。

「やあ、久しぶり……」

 変わり果てた飯島先輩が、ベットに横たわっていた。

 お爺さんの比ではない。

 骨と皮だけという形容がまさに適している。そりゃそうだ。もう二週間以上、水しか口にしていないのだ。点滴で右腕の針から流し込まれる栄養剤が、かろうじて命をつないでいる。

 目に生気はなく、映画で見たミイラのよう。

 そんなでも彼女はにへらっと笑い、


「死に損ねっちゃったよ」


 軽口を一つ、叩いた。

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