Fragment.3.1

汗を多くかくと不自由な二、三の理由


 幼い頃から他人より汗かきだなとは思っていた。

 小学五年生のある日の朝礼で手のひらの汗が止まらなくて、いったいどれだけ出てくるんだろうとわくわくしながら手のひらをぎゅうぎゅう絞っていた。結局、机に半径5㎝くらいの水たまりが完成したんだけど、私の席は教卓の目の前で、先生と目が合うと苦笑いされた。

 そこであれ? 私は他の人と違うのかな、おかしいのかなって思って、手汗を恥ずかしく思うようになった。

 中学生になって板書をする量が増えてからはもう大変。手をぎゅうと握るだけで汗がにじんできて、紙はベタベタ。その状態では文字が書けないうえに、乾くとしわしわ。

 ハンカチで拭いても追いつかない。すぐびしょびしょになっちゃう。私が考えた対策はプラスチックの下敷きの上に手を乗せて、文字を書く。水たまりが紙に垂れないように気を付けて。テストの時は余分なものは机の上に載せないのがルールだけど、私にとっては余分なものじゃない。先生も時々文句言ってきたけど、決して譲らなかった。私にとっては死活問題、ないとテスト用紙が悲惨なことになる。


 この方法しかないと思ってた。マイナスな個性だと思ってた。大人になってから知ったんだけど、実は病気だったんだ。


 多汗症っていうのは本人が病気と認識しなければ、病気じゃない不思議な病なんだよ。抜本的な治療法は今でもなくて、塗り薬やスプレーで汗腺の穴を塞ぐ原始的な対症療法しかない。究極の最終手段は汗腺を切断して、汗が出ないようにしてしまう。

 だけど流れ落ちたら塗り直さないといけない薬なんてめんどくさいし、汗腺を切る外科手術は怖いから嫌だ。最初に言った通り、多汗症は病気だと思わなければ、病気じゃない。この状態がもう日常だから、変だけど、すごく変だけど病気ではない。家族や主治医などの周りの人も別に手術するほどの問題ではないと言うから、私もそうなんだと思ってる。


 今でも大切な書類を書くときは下敷きが必須だ。役所に出向くときも必ず持参する。買い物でレシートを受け取る時も店員さんと触れないように注意を払う。うっかり「べたっ」と触れてしまったら「不快にさせなかったか、気持ち悪いと思われなかったか」煩悶はんもんする。握手なんてできるはずがない。PCやゲーム機は手のひらと触れる部分から外装が剥がれてくる。

 腋やお尻の汗染みに気をつけて、着られる色の服が大幅に制限される。真っ白や薄い色、逆に黒に近い濃い色じゃないと漏らしたみたいになるんだ。位置は逆だけどね。


 仕方がない。私はこんなふうに生まれてしまったんだから。耐えるしかない。


 多汗症の発症は精神的な要素が大きい。私みたいな人付き合いの苦手な小心者はすごくかかりやすい。気にすれば気にするほど症状が出てしまう。

 小心者でも、心の外殻鎧を強化することはなんとかできる。建前と常識論理で言い訳して慰めて、心を凍てつかせて、かちかちに固める。でも心の本当の根っこなんてものはそう簡単に変わらない。

 漫画や小説の主人公が初めは小心者だったのに、あるきっかけで強い心を持つようになる。

 あれは嘘。

 きっかけがあっても弱い人は弱いまま、それが大多数。現実ではありえないロマンがあるから人は物語に惹かれるのだ。

 

 もう自分の異常さを面白がるしかない。ある夏の日(気温は関係ないかも)両てのひらから何時間も発汗して、洗面器の冷たい水に突っ込んでた。交感神経、副交感神経のバランスが馬鹿になってる。30分すると冷水はぬるま湯になってきた。私、今すごい放熱してる。いつまでこの無駄な熱の垂れ流しは続くんだろう? 体のエネルギーを使い果たすまで?笑えて来た。


 本を読んでると興奮して汗が出てくる。どれだけ気を付けて読んでも、図書館で返却した後は「水濡れアリ」のシールが高確率で貼ってある。

 私は図書館に行くのをやめた。

 本は100円の中古本しか買わない。一度読んだらボロボロになるので、捨てるから。時間がたてば安くなるのに、処分するものを定価で買う気が知れない。


 私が捨てた物語の数は、もうすぐ千を超える。

 いくら輝かしい登場人物たちの英雄譚に没頭しようとも、私は彼らのように強くなれなかった。

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