TypingBattle(後編)

 我が情報処理座学の教授殿は、たいそうPC関連に詳しい。趣味が高じて自作のタイピング練習ソフトを開発し、ついには毎年「タイピンググランプリ」なるものを授業で開催する始末だ。呆れるしかない。

 そして最も成績が優秀だった生徒に、平常点10点を加算する暴挙に出た。燃えるしかない。やるのはいつ? は? 今でしょ。

 というわけで、農学部二年生一同はまんまと目の前の餌に踊らされて、隙間時間をぬってはPCとにらめっこ。タイピングの腕をめきめきと上げるのだった。

 ところで先日、同学部の卒業生という事実が判明した飯島先輩は、もちろんこのような事情は全部知っているわけで「そっか~ もう五代目になるかー」と訳知り顔で頷いている。

 教授が農学部の情報授業担当になって、五年目。「五代目タイピングチャンピオン」に僕はなる!

 そうして改めて静かな闘志をメラメラと燃やしていると、先輩は「そうだっ」とぽんっと手を打ち、

「ねえ、勝負しない?」

と言った。

「え?」

 またいきなり何を言い出すんだ? それにしても、この人は本当に勝負事が好きだな。そもそも何の勝負?

「いや、そりゃあ、今タイピングの話してたんだから、それでしょ」

 数秒間、彼女の言葉を脳内で咀嚼そしゃくしたのち、僕は「はっ」とキザな欧米人のごとく(偏見かな?)大袈裟おおげさに両腕を広げ、

「一応フェアにいきたいんで先に言っときますが、僕は今年のクラスの優勝候補と目されてます。(自分調べ) 一分160文字はアベレージいきますよ?」

 参考までに、タイピングは一分に120文字できれば、事務の仕事は問題なくこなせるし、150文字なら優秀。200文字を超えると、もはや化け物である。

 それを飯島先輩は、


「わ~、すごい、すごーい」


 おててをぱちぱち。


 以上、七文字。舐められたものである。

 すっかりへそを曲げてしまったお子様ハートの大学二年生を、大卒の無職お姉さんが「ごめん、ごめんよう」と慰める世にも奇妙な図があった。

「ねえ、お願い。勝負してよ」

「嫌です」

「お菓子買ってあげるから」

「僕は子供じゃないです」

「子供だよ、今の君は」

「じゃあ、僕はそんなに安くないです」

「ん~、それじゃあ」

 そうして飯島先輩は、僕の耳元で悪魔の囁きをした。



「君が勝ったら、なんでも言うこと聞いてあげるから」



「やりましょう」

 僕はおとこらしく宣言していた。

「やっぱり子供だよ、君は……」

「なんでも、なんですよね? 本当に?」

「まあ、あんまり過激なのはなしだけど」

「それでOKです」

「その代わり、君が負けたらもちろん君が私の言うことを聞くんだからね? 平等にね?」

「それでOKです」



 前述のとおり、個人IDさえあればPCは使えるが、それは学生証に登録されている。つまり卒業して学生資格を失った飯島先輩は、PCの使用ができない。できれば二人同時に勝負できればよかったが、僕のIDでPCを順番に操作するしかない。

 先攻、後攻はじゃんけんの結果、僕は後攻を選んだ。

 自分の勝利を疑ってはいないが、敵の出方を見られる方が安心だからな。

「自分のタイミングで始めてください」

「じゃ、行くよ~! ひあ、うい、ご~!!!」

カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ。

 キーボードを叩く音の速さが全然違う!!??

 恐るべき速度で両の手がキーの上で躍っている。

 光速の寄せとはこのことか!(いや違う)

 60秒があっという間に終了する。

「いやあ危ない、危ない。ぎりぎり180文字いけた~」

 「久しぶりだからなまってるな~」と恐ろしいことをのたまう先輩の背中で、僕はだらだらと脂汗をかいていた。

「月路クンの番ね。どーぞ」

 僕の焦りを確実に感じ取りながら、先輩はにまにま顔で席を譲る。

「……いきます」

 正直まったく集中できない。

 そもそもいきなり自己ベストを軽く超えられたのだ。僕の腕が一本増えるような奇跡でも起きて、限界以上の力を発揮しなければ、彼女の記録は超えられない。それでも必死に指を動かす。

 結果は155文字/分。

 がっくりと地面に膝をつく。

「この僕が負けるなんて……」

「油断したね。相手の力量も知らずに大言を吐く…… ハズカシー、ぷぷぷ」

 ぐぬぬぬぬぬ。何も言い返せない。

「しかし。しかし、速すぎる……」

 農学部の学生ならグランプリに参加し、特訓した過去があるとはいえ、ブランクはそうそう補えないはずだ。就労移行支援事業所という所で勘を取り戻した? いや、お試しと言ってた。しかも、勘とはもともと実力がないと……

「ま、まさか、」

 もしかして、この人は!

「ふっふっふー」

 彼女は難攻不落のお宝を見事掠め取り、正体を現した稀代の怪盗のごとく真実を告げる。

「何を隠そう私が『初代タイピングチャンピオン』なんだよ!」

 まさに雷で撃たれたような衝撃を受けた。

「ちなみに大会記録は一分に210文字だよ」

 さらにもう一度撃たれた。

「この記録は未だ破られたことはないぜ。毎年先生に直接確認してるから間違いないよ!」

 今年も行って、呆れらたけどね!(注・彼女は卒業しています)

 この人は本当に…… 無駄な所で行動力があって、いろいろスペックが高くて厄介極まりない。

 



「先輩、色々もったいないですよ。それだけのスキルがあれば、社会で十分通用するのに」

 他にも整った容姿、戦略的思考、運動神経など。彼女はありあまる才能を天から授けられているように思えた。

「それは難しいね」

 飯島先輩は真顔で即答する。

「会社が本当に求めているのは技術を持った人じゃない。技術を持った素直に言うことを聞く『人形』なんだよ」

 ここでいう私の「人形」の定義は「週休二日、365日安定して就労できること」を指すよ。

「例えば私の欠点を一つ挙げるとするなら、恒常性がないことだね。精神状態が安定しない。気分が日、時間帯によって大きく変動する。自分の意志とは関係なくね」

 精神障害の分類では、気分変調症というのだそうだ。世間一般でメジャーなうつ病は常に「何もする気が起きない」「死にたい」などの悲観的な思考に陥る。気分変調症はうつ病の軽い状態が、日常的に続く。ストレスによるうつ病と違って、先天的な形質だから完全に治ることはない。

「どうしても特定の時間に安定したいなら、気力が必要なんだ。例えば君に会いたいなら、そのために自分を『私が考える最高の他人が嫌わない人間』にチューニングする。一緒に過ごす時間が長ければ長い程、感情の制御が効かなくなる」

 時限爆弾が体の中に常にある状態。時間が過ぎると感情は暴走し、周りの人を精神的、肉体的に傷つける。

「だから週五日八時間、会社に通うなんて考えられない。私みたいなバグ持ちは企業はお呼びじゃないのさ」

 それに、と彼女は付け加える。

「いつも会えるわけじゃない、ミステリアスな女の方が男の子は好きでしょう?」



                 *

                 *

                 *

 本当に彼女はどうしようもなく世界を穿った見方でしか見られなくて、外見と裏腹に中身はひん曲がっていた。一度ならず、そんな生き方を貫いて辛くないのかと尋ねた。

「辛いよお。毎日がもう大変。でもそんなふうに生まれ落ちちゃったから」

 それに貫いてなんかいないよ。

 この生き方しか知らないし、できなかったのさ。

 彼女は諦観を隠そうともしない乾いた笑いを浮かべた。

                 *

                 *

                 *




「はい、気持ちが沈むお話はここまで!」

 先輩は強引に話を打ち切ってしまう。

「とりあえず勝負は私の勝ちだね~」

 にまにま。にまにま。

 ……くそう。

「おとなしくお願いを聞いてもらうよ」

 にまにま。にまにま。

 くそおおおおお!!! 

 僕が勝ったら人質の解放を突きつけようと思ってたのに!!!

…………

 いや、ほんとだよ? エッチなお願いとか、ちっとも考えてなかったよ?

「私のお願いは」

 ああ、人質期間延長とか言ってくるのかな。

 今でも無期懲役みたいなものだけど。



「君の家にお邪魔したいな」

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