第四章

TypingBattle(前編)

 近年の情報化社会のうねりにより、うちの大学でも僕の入学前に、情報処理教育センターなるものが建立された。学生証に記された個人IDがあれば、関係者はPCが使い放題である。冷房空調も完備、時間を持て余した学生の格好のたまり場となっていた。

カタ、カタ、カタ。

 そんなセンターの平日昼間の一室。授業中なので閑散とした空間で、PCのキーボートを叩く孤独な音が響く。

カタ、カタ、カタ。

 そこに割り込む柔和な声。

「はろ~、月路クン。何やってんの?」

カタ、カタ、カタ。

「ちょっと今、話しかけないでください…… ベストレコード出せそうなんで……」

「あ、うん……」

カタ、カタ、カタ。

「……ああ! 打ち間違えた! もう、先輩が話しかけるから!」

「ご、ごめん…… でもなんで私、普通に話しかけただけで怒られたんだろう……」

 切れ気味の僕に、飯島先輩はちょっと引いている。

「う~ん、なになに?」

 彼女は躊躇ちゅうちょなく、脇からPC画面を覗き込んでくる。

 キョリガ、チカイデス。

「あー あー、ブラインドタッチの練習してたのかー そりゃあ、ごめんねぇ」

「……いえ、いいですよ。今の感じなら、すぐ自己記録は超えれそうなんで。それよりも」

「ん?」

「先輩。大学では会わない約束でしょう」

 だから先日、わざわざ先輩の自宅まで会いに行ったというのに。

 今日の彼女の服装も女性として極めて平凡、なのに素材の良さがその輝きを隠しきれない。十人いれば九人は振り向くだろう。

 大量の蜂を誘き寄せる甘い蜜のような危険な美貌。もっとも今ではその蜜がおいしくないと喧伝けんでんされ、誘引される頭が足りない雄は僕くらいだが。というか彼女の方から「食べて食べて~」とすり寄ってくるのが実情だ。

「大丈夫だよ。この時間センターに来る人はいないし、いても私たちみたいなコミュ障の同類だよ」

 そういう同類は噂を言いふらすような知人を持たない。

 彼女は残酷な真実を言い当てる。

「人がいない所しか話しかけないように気を付けるから、ね?」

「それでも約束を破ることになりますよ。人としての誠実さという点でどうかと思います」

「ぶ~ けちんぼ…… じゃあ、今日だけ。今日だけ特別に許して」

 いつもならここまで言えば引くのに、今日は妙に食い下がる。

「実はこれからは大学に頻繁に来れなくなるんだよ」

「え、そうなんですか。ついに就活に本腰を入れるとか?」

「うん。いや、今までも本気でやったけどね…… 私、就労移行支援事業所ってのに入ったんだ。駅前にあるの」

 就労移行支援事業所。聞いたことがない単語だ。

「簡単に説明すると、障害を持っている人が就職できるように、サポートしてくれる場所。お試しの講座でビジネスマナーを少し教えてもらったよ」

 「これ、つまらないものですがどうぞ」って現実では使わないんだね~と彼女は仕入れた蘊蓄うんちくを披露する。そうなのか、知らなかった。

「創作の世界ではよく出てくるのにね」

 その就労移行支援事業所という所では、他にも履歴書の書き方、Excel、Word、PowerPointなどPCソフトの教育、模擬面接などを指導してくれるそうだ。一般企業にも希望すれば応募できるが、基本は障害者枠の事務の仕事を想定したサポートが中心となる。

「……障害者枠って何です?」

「まあたいていの人は知らないよね。すべての企業には障害者をこれだけ雇わなくてはいけない、っていう国から定められた義務があるの。今は全従業員の2.5か2.6%くらいだったかな。もうすぐもっと上がるよ」

「障害者枠はその名の通り、障害者だけしか応募できないから必然的に応募倍率は下がる。自分が障害者ってことを証明するには、手帳が手っ取り早いけど……月路クンは障害者手帳は持ってる?」

 持っていない。その存在も今初めて知った。

「ん、これが手帳ね」

 先輩は財布から深緑色の手帳を取り出す。写真が張り付けてあり、生年月日、障害等級2級などと書かれている。……気づいたのだが、文字のインクがにじんでいる。そしてほんのり温かい。というか微妙に湿っているような……?

「……私、汗っかきなんだよ。ズボンのポケットに財布を入れておくとそうなっちゃうの!」

 固まってしまった僕の反応に困った彼女は、んべっと舌を出して、恥ずかしさを紛らわす。

「あとこれが最初に言ったことに関わるんだけどさ。事業所は実際の職場の環境に合わせるために、週五日通所するのが前提だから、これから大学に来る機会はすごく減ると思う。だから、お願い。今日だけ一緒に居させて? ね?」

 顔の前で手を合わせて片目をつぶり、あざと可愛く了承を得ようとする飯島先輩。

 こういう時、強く出れない自分の性格が恨めしい。

「……誰か来たら、すぐ出てってくださいよ」

「おっけ~」

 


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