お家デート(ー)
最初は恐る恐るぎこちなく、徐々に力を加え思い切り抱きしめる。
当然だ。僕も怖い。
他人の体温を久方ぶりにこれでもかというほど感じる。熱い。体温が高いのか、興奮しているからなのか。
そして抱きしめてしまった後で、後悔する。
し、しまった。ま、まずはキスだったか!?
キスで気持ちを高めてから、お互いをハグするんだった気がする!!!
一度離れようとするが、先輩は腕の力をまったく抜いてくれない。ニシキヘビに締め付けられているといっても過言ではない。正直かなり苦しい。
仕方なく、そのままの状態で脳内でおさらいする。
と言っても
まずはキスからのハグ。高まってきたところでお互いに服を脱いでいく。いや、男が脱がせるべきか? それは逆に失礼なのか? よし服は相手の出方次第だ。
その後も先輩の反応で臨機応変に行こう。
よし整いました。
嘘です。
どうしたらいいのか、全然分かりません……
「はぁ……はぁ……はぁ」
息遣いが荒い。
高揚した感情。生まれた初めての昂ぶりだ。
二人分の呼気の激しい音が室内に響く。
「はー……!……はー……!……はー……!」
…………
さすがに状況がおかしいことに気づく。
「コト」の前とはいえ、興奮しすぎだろう。
尋常じゃない震え方。抱きしめている僕の体が、がくがく揺らされるくらいだ。
彼女は滝のように汗をかき、僕の方にべったり垂れてきている。
顔色は真っ青だ。
これは興奮じゃない。……恐怖?
「先輩!? せんぱい!?」
だらりと垂れた両腕から簡単に解放されて、
「ぜー!……はー!……だ……ぜー!……い……はー!……じょぶ……」
息も絶え絶えに彼女は、僕を安心させようと言葉を紡ぐ。
お返しに僕は赤ちゃんをあやすように、ぽんぽんと背中を叩こうとするが、彼女に手で制される。
「ご……めん……だけ……ど……さわ………らいで……くれ……る?……」
それから時間がかかったが、徐々に息遣いが穏やかになる。
10分くらい。
僕はただ傍にいるしかなかった。荒ぶる猛獣を見つめる調教師の気分だった。
「落ち着きましたか?」
「うん…… ありがと、ごめんね」
接触不安症、と彼女は言った。
二人でしっかり距離をとって天井を見上げながら、彼女は語った。
簡単に言い切ってしまえば、他人と触れ合う行為に不安を感じてしまうということだ。数多くある、ありふれた不安神経症の内の一つである。
「幼い頃はまだたいしたことはなかったんだ。突然誰かに触れられるとびくっとなって後ずさって、どういうわけか嫌悪感が沸き上がって。でも小中学校は周囲に恵まれてたんだろうね。曲がりなりにも九年間、一緒に特に問題なく過ごせたんだから」
悪化したのは、高校に入学してからだよ。
「いきなり大勢の知らない人間と接しないといけなくて、生活も複雑になってくる。どんどん心に余裕も自信もなくなって、症状がひどくなった。友達のいない学生が人と触れないといけない場面てなんだと思う?」
なんだろう。お店でのレジでのやり取り? 体育での二人一組での体操?
「あ~ いやだね。レジのレシートもらうのは一瞬だけど、体操は最悪だね。緊張で体がガチゴチなのが相手にばれるのが嫌で嫌で。まあばれる前に
お医者さん。
「風邪ひいて内科に行くと触診、視力測りに眼医者行くと触診。歯医者も、皮膚科も、精神科でさえ飲んでる薬のせいで定期的に血液検査するから、触られた。そのたびにいちいち大騒ぎ」
医者は行けなくなった。薬も検査しなくていいものに変えた。
大学に入学した時の健康診断は、バックレた。大学の保険センターに親と一緒に呼び出されて、謝罪して事情を説明して、何とか免除してもらった。
「あなたは神経が過敏すぎる。別にそんなに気を張って生活しなくていいって皆言う。疲れてしまうよって。でも気を張らない生き方っていうものが分からないから、こうなっているんだ。なのに誰も方法を教えてくれない」
言い逃げ上等の無責任ヤローしかいないんだ。
「君に病院で拘束された時、私は恐怖しなかった。触れてた時間が短すぎて、驚きが勝っただけかもしれない。というかその確率がすごく高い」
だけど、もしかしたらって。
「そうじゃなくて私が大丈夫な人もいるんじゃないかって。でもやっぱり例外はなかった。私は人に触れられない」
「先輩」
「うん?」
「駄目ですよ。死んじゃあ」
別に先輩はこれまで一言も、死にたい、と言ったことはなかった。ただいろいろ悲観的で思わせぶりな発言を、これでもかと聞かされてきたから、僕は言ってしまっていた。何かが決定的になるような気がしたけど、間違ったとは思わない。
僕が彼女を引き留めなくてはならない。そう、思った。
「絶望しちゃ駄目ですよ。生きていればいいことありますよ」
ありふれたことしか言えない。お決まりの売り文句しか思い浮かばない。彼女はそんな文句は耳が痛いほど、目が腐るほど接してきたはずなのに。
「人生は最強の時間潰しって言ってたじゃないですか。いくらでも暇をつぶすものはありますよ」
彼女は僕のつまらない激励に間を開けて、こんな問いかけで返してきた。
「こういう話を知ってる?」
漫画か本の受け売りなんだけどね、
「物を持たない人っていうのは、生きることに執着がないんだって。いつでもこの世からいなくなってもいいように、身辺を整理してる。逆に部屋が物で溢れている人は未練たらたら、やりたいことがたくさんあって死ぬなんてもってのほか」
だから私は大丈夫。
「私の部屋を見たでしょ。読みたい漫画、小説やりたいゲームも、まだ製作されてない未来の見たいアニメも山ほどあるの。死んでられないつーの。むしろ君はもっと部屋を賑やかにした方がいいよ」
よく分からない忠告を頂いた。
「いいよ、ここで」
玄関先で別れを告げる。
「お父さんたちへの言い訳は私に任せておいて。巻き込んだのは私なんだから」
そうしてくださると非常に助かります。
「それと結局『アレ』はできなかったけど、私が君のことを気に入っているのは本当だから。これからもまた遊びに付き合ってね。前言ったように忙しくなるから、いつになるかは分かんないけど」
それじゃ、
「またね」
片手になった荷物を抱える。ゲーム機はまた今度来た時に遊べるように、置いていくそうだ。
「ああ、それと」
飯島先輩は忘れていたと振り返る。
「今日で君は人質、終わりだから」
「え」
「次は違う形で会いましょう」
「ちょ、先輩、それはどういう……」
彼女は僕の問いに答えない。あっという間にその姿は暗闇の中に溶けて、カンカンカンと足早に階段を下る音。しばらくして車のエンジンの音が鳴り、やがて遠ざかっていく。
こうして僕はあっさりと人質から解放され、人生最大の難局の夜は更けていった。
時は流れ、
僕はタイピンググランプリで優勝した。
記録は205文字/分。
周りは僕を褒めそやしたが、達成感はあまりなかった。
結局、僕は飯島先輩の記録を超えることも、並ぶこともできなかった。
そして一月、二月と時は移ろい、新しい年が明けようとする頃になっても、彼女と僕が肩を並べて歩くことはなかった。
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