お喋り-1
入り口から離れた人気のないテーブルとソファーに移動してすぐに、僕は「留年」さんに平謝りした。正直出るとこ出られたら、事案発生でもおかしくない暴挙だった。
だが彼女は、
「別に気にしてないよ、ちょっとびっくりしたけど」
からからと笑って許してくれた。
「その代わり、ちょっとお喋りしない? 病院で顔見知りに会うなんて珍しいしさ」とお願いされ、今に至る。
ちょっと飲み物買ってきていい?と言って、「留年」さんは自販機へ向かった。今の内に帰ってしまいたい衝動にかられたが、問題を先送りにするだけだ。後日、彼女に大学内で言いふらされでもしたら、まさに最悪だ。しっかり口止めをしなければならない。
目と鼻の先にある自販機で、彼女はさほど悩まずに商品を購入した。ただし二つ。小さめの金属ボトルを両手に持ち、向かいのソファーに腰を下ろすと、
「お待たせ~」
と言って、朗らかに聞いてくる。
「どっちがいい?」
……どっちも高いやつだ。
左手には、細かくしたつぶつぶ果実が入っているフルーツジュース。
右手には、コーヒーゼリー入り贅沢カフェオレ。
まさに両手に花。今日も自宅で作った麦茶を水筒に持参してくる、万年金欠の貧乏学生には憧れの代物だ。そもそも初対面の相手に100円ちょっととはいえ、奢ってもらっていいものなのか。でももう二つ買ってきてしまったし、断るのも悪い気がする。
あ、そうか。
「いくらでした? お金を……」
僕はズボンから財布を出そうとする。
すると彼女は顔を曇らせて、
「このくらい奢らせてよお。たいした額じゃないし」
「いや、でも」
「も~、聞き分けの悪い子はもてないぞ~」
「も、もて…」
年頃の男子には強力な言葉だ。
「じゃ、じゃあ、カフェオレで…」
「ん。どーぞ」
ありがとうございます、と礼を言って、蓋を開ける。
「留年」さんは僕が口をつけるのを待って、自分も飲む。
程よいコーヒーの酸味と砂糖の甘味。やっぱり高いだけある。
「おいし」
彼女もまた、満足のいった感想を口にした。
「そういえば自己紹介がまだだったね」
しばしの飲み物を堪能する無言の時間が過ぎ、彼女は切り出す。
「私の名前は
怒涛の個人情報の羅列。気圧されながら僕も口を開く。
「よろしく。…僕は
「つき、じ? どういう字を書くの?」
このように僕の名前は少し変わっているので、初対面の人にたいてい聞かれる。
「夜空の『月』に路面の『路』と書いて月路です」
「あー、なるほど。素敵な名前ね」
僕もそう思っている。だから毎回説明することになっても苦痛ではない。
「個人情報は…あまり知られたくないので。親交を深める機会があればその時に」
「あは」飯島さんは軽く笑いを漏らす。
「そーゆータイプの子ね。いいよ、いいよ。お姉さん嫌いじゃないよ。でも一個だけ教えて。君も○○大学の農学部なんでしょ? 私キャンパスで何回か、見かけたことあるもの」
「はい、まあ、そうですね」
「何年生?」
「…二年生です」
「二年か~ じゃ、そろそろ専攻科、考え始めるころだね。後学期初めに最初の進路調査あるから、私も夏休みに悩んだなあ」
「そうなんですか」
「おうよ。少年も大いに悩めよ~」
快活に笑い飛ばす「留年」さん。表情がころころ変わる。あの女子たちが噂していた人物像とはかけ離れていて、親しみやすく感じる。目撃情報と学部の内情を知っているので、本当に大学の先輩なのは間違いなさそうだ。
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