回想続き(彼女の奇行)

 その雑談を急に思い出すことになったのは、三週間後のことだ。

 ある日、僕が大学で所属する農学部の芝生の一角が突然土を掘り起こされ始めた。いったい何事と皆、毎日重機が働く音を聞きながらキャンパスで生活していたが、工事中の看板が撤去された後には、TVの癒し番組で紹介されるようなヨーロッパ風の自然庭園が完成していた。

 若木が間隔を開けて植えられ、白フェンスから吊り下げられた籠の中には小さな花々が飾られている。南北に灰褐色の石畳の通路が敷き詰められ、人口の小川まである。水路沿いには木製のベンチが設置され、ちょっと一息つける心遣いが憎い。

 十分な労力と費用が費やされただろうことが一目瞭然の庭園の評価は、学部内では真っ二つに分かれた。農学部なるものビオトープ(簡単に言ってしまえば、動植物を保全するための小さな自然公園)の一つや二つ持っていて当然だとか、いやこんなことにお金を使う暇があったら、奨学金の拡充や授業料の減額でアピールした方がいいとか。しかし、日本人という人種は議論を尽くすという習慣が根付いていないもので、一定の結論が出る前に主張はうやむやになり、庭園の存在は黙認されることとなった。

 農学部棟の連絡通路沿いに作られた自然庭園は、位置関係から学生が目にする頻度は多く、製作者の意図通り昼休みなどは憩いの場になっていた。それ以外の時間は閑散としているが。

 その時も、僕はやはり次の講義場所へ辿り着くべく、道を急いでいた。通り掛け、何気なく庭園に目をやってしまい、ベンチの一つに横たわっている女性に気づく。

 たぶん、この人が「留年」さんなんだろうな、と直感した。

 美しいというより、愛らしい容姿。

 華奢だが、痩せすぎてはいない程よく肉の付いた健康的な体格。

 派手過ぎず地味過ぎず、清廉さを感じさせる衣装。

 しっかり夢の中にいるのか、無防備に体をもぞもぞさせるのが可愛らしい。スカートではないので下着が見える心配がないとはいえ、いや、だからこそ動きに遠慮がないのか。

 他の学生もあまり直視しないようにしながら、しかしそのある種の背徳的さを感じる光景をちら見しながら通り過ぎていく。

 けっこうじっくり眺めていた自分に気づき、僕は不審に思われないように慌ててその場を立ち去った。





 次に会ったのは間が開いて、夏季休暇が終わり残暑厳しい九月頃だった。

 まず気になったのが、その肌色面積の多さ。

 ジーンズのホットパンツ、袖なしの腋が見える大胆な白いシャツ。連日35度越えの炎天下のゆえの選択だろうが、それにしても防御力が薄すぎやしないだろうか。熱中症予防につばの広い帽子をかぶってはいるが、黒い帽子なので熱気が溜まって仕方ないだろう。屋内で涼んでいればいいのに、この可愛らしい人は汗をだらだら流しながらしゃがみこんでいた。

 この時、僕は彼女が「留年」さんだと確信した。

 彼女は噂通り、何事かぶつぶつ呟いていた。幸いにも通りがかる人がいなかったので、僕はちょっとした好奇心から彼女の観察を開始した。

 背中から近づく。距離は約2m。

 よく見ると彼女の視線は地面に向けられ、そこには黒いシミのような塊がある。

 どうやら、ゆっくりと動いているようだ。

 もう少し寄ってみる。


 蟻の大群が立派なカマキリの死骸を運んでいた。


「さあ、蟻さん公道横断レースもいよいよ中盤。勝負所を迎えています。前方にはそこそこ大きな石。ここで左回りは安全ですが、右なら大幅な時間短縮ができます。当然、荷物が川ポチャするリスクを考えなければいけませんが… しかし、この軍を率いるのはあの過酷な西部戦線を生き残った英雄オーウェン。彼ならきっとチャレンジしてくれるでしょう。……おっと一同、進路は左だあ! こ、これはまさかの反乱。暴れ馬ミルナーが反旗を翻した。この臆病者! 荒々しい異名を持ってるくせに。女々しいやつめ! しかし、だからこそ時には打算的選択もやむを得ないということでしょうか。一理ありますね」

 一理ありますかね?

 もうどこから突っ込めばいいか分からない、実況解説が繰り広げられていた。

 きっと彼女の目にはミルナーとオーウェンの見分けもついていないと思うのだが……

 まあ、本人が楽しそうなら構わない。

 僕は彼女が背後の気配に気づく前に、そそくさと退散することにした。

「おぅーと! ここで荷物がまさかの分解! 衛生兵スコットが必死に拾う、拾う! 頑張れ、スコット、君ならできる!」

 心なしか、声も大きくなって、ヒートアップしていらっしゃる。

 とにかく彼女の頭の中は面白いことになっているようだ。僕みたいな無難、真面目を絵に描いたような人間には相手が務まらない。残念ながら知り合い友人を経て、男女交際的なことに発展させるステップを踏むことはないだろうと、その時確信したのだった。

 屈託なく笑みを浮かべる愛らしさや白くふっくらした二の腕に、後ろ髪を引かれる思いはあった。しかし、それはただの男の悲しい習性だ。原初の本能に惑わされてはいけない。人間は理性という素晴らしいものを進化の過程で獲得したのだ。

 というわけで「留年」さんと僕のかかわりはこれで終わりだ。

                 *

                 *

                 *



 終わりだったはずなのに、



「留年」さんが目の前にいた。

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