第一章

邂逅-1

〈この一月はいかがでしたか〉

 白一色に塗られた小部屋。いつだって白というのは清潔さを感じさせる。その魔法で空間と患者と医者を滅菌して、平静を保つ診察室。髪の毛が灰色からやはり白になりかけた主治医の言葉は、決まってその常套句から始まる。

 僕は昨晩から温めていた言葉をたどたどしく伝える。

「学校は一応通えてます…… 週に1、2コマは休んじゃいますが、単位には引っかからない程度です」

〈はい、自分のペースでいいと思いますよ〉

「また最近、聴覚が過敏になって…… 周りの声が煩わしいと感じます。食堂でSNSの配信ってのをする連中がいて、うるさくて……」

〈まあ不安障害の方は耳が繊細な方が多いですしね。イヤホンや耳栓を使ってみたらいかがですか〉

 僕の言葉は口から出た瞬間から熱を奪われ、相手に届くころには冷え切っている。

 必要以上にエアコンで冷やされたこの部屋の冷気が、そう錯覚させるだけかもしれないが。それとも元々僕の言葉には熱なんてこもっていなかったのかも。

〈睡眠は十分ですか〉

「はい、よく眠れます」

〈食事は取れてますか〉

「はい、三食食べてます」

〈他に伝えておきたいことはありますか〉

「いえ、特には」

〈それではまたいつものようにお薬出しておきますね〉

「はい、お願いします」

 主治医が処方箋しょほうせんを印刷する。もう何か月も前から変わってないので、訂正する必要がない。カルテには今日の日付の下に申し訳程度に書き込まれた僕の熱量。

 それが彼にとっての僕の一か月。

 部屋の入口のかごに置いた荷物を持って、礼を言って僕は退室する。


 診察室の扉を閉めて、僕はふうっと一息つく。

 時間にして10分にも満たない診察時間。この10分のために一月に一度、わざわざ下宿先から地元に帰るのは億劫おっくうに感じることもある。

 もっともこの病院は半年前から完全予約制に移行し、時間通り来院すれば30分で薬局で薬をもらって帰れる。

 最初訪れた時は来院した順番に診察があり、運が悪いと2,3時間待たされることもざらじゃなかったことを思えば、ましか、と自分を慰める。

 人がまばらにソファーに腰かけた待合室。大声で騒ぐ人はいない。せいぜいぶつぶつ小声で呟くか、体を揺らして座っている人がいて、ああ、この人もずれてしまったんだなと思う程度。

 そんな清潔さと静寂が保たれた空間をゆっくり歩く。精神科のある病院といえば、狂人の巣窟という偏ったイメージが横行していたのも今は昔。ちょっとした心の不調を打ち明けに来る迷い人が集う、悩み相談所というのが正確な表現だろう。

 そうはいっても関わり合いのない人や初診の人にとっては、穿うがった目で見てしまう敷居の高さはある。僕も、僕の家族もそうだったし、それは今でも完全にはふっしょくできていない。

 受付で会計を済ませる。国と市の補助があるので、実費はかからない。僕が住んでいる市は医療サービスの手厚さで知られている。無料なら、という理由で通院を継続している人は多いだろう。僕もその一人だ。

 受付の壁に備え付けられたテレビを流し見しながら、医療受給者証と領収書を鞄に納める。配慮されて音声がカットされたテレビの字幕は一人の女子中学生が失踪して、一か月が過ぎたことを伝えている。


「(終わった、終わった…)」


 時刻は10時半。通院でお決まりの里帰りをした日は、実家に帰って正午に家族で団欒だんらんを囲むのが常となっている。その前に一時間弱、時間を設けて有名古本チェーン店で掘り出し物を物色するのが、最近のお気に入りだった。

(先月はあんな人気本が百円で手に入ったけど、そうそう幸運は続かないよな)

 季節は夏。快晴。

 例年なら梅雨明けと同時に鬱陶うっとうしい蒸し暑さで包まれる日本列島はなんのきまぐれか、気温は上がるものの湿度は低く爽やかささえ感じる。

 そんな陽気も手伝って、僕は珍しく気分よく病院の入口を出ようとする。



「「あ」」



 そして僕と彼女は鉢合わせした。

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