第8話 ふたりの、お母さん

「あれっ、健斗くん?」

「あれっ、小春ちゃんのお母さん?」

 病室にもどってみると、さわぎを聞きつけて、大勢の人が集まっていた。その中に小春ちゃんのお母さんもいた。

「おばさん、何でここに? あれ? おばさんも看護師さんだったっけ?」

「んー、ちょっとちがうお仕事だけどね、ここで働いてるの。それより健斗くんが正太郎くん連れてきたの? 事情を知ってるなら、教えてくれない?」

 小春ちゃんのお母さんは、この病院で医療ソーシャルワーカーとして働いていた。医療ソーシャルワーカーというのは、お医者さんのように病気を治すのではなくて、入院してきた患者さんの相談事を聞く仕事だ。病気になるとお金がかかったり、仕事ができなくなったり、いろいろと困ることが起きる。その時に使える行政サービスを紹介したりして、患者さんを助けるのだ。

 しょうちゃんのお母さんはずっとふせっていたので、ようやく今日、話を聞き始めたところなのだそうだ。

 小春ちゃんのお母さんといっしょに事情を聞いて、健斗とハナが不思議に思っていたこと、しょうちゃんのお母さんがなんで公園に来てくれなかったのかという、なぞが解けた。

 お母さんはあの家でのひどいいじめで、パニック障害という病気になってしまっていた。不安やストレスが原因で、急に心臓がどきどきと苦しくなり、息ができなくなって、身動き取れなくなる。このまま死んでしまうのではないかという恐怖にさらされる。

 原因が家でのいじめでにげ場がないから、症状はひどく悪化した。自分のしたことが原因だというのに、おばあさんは動けなくなったお母さんをさらに責め、家からたたき出したのだ。

 お母さんは離婚されたあと一度生まれ故郷に帰り、その病気の治療をしていた。身寄りのないお母さんだったけれど、助けてくれる友人がいたのだ。

 ただ、好意にあまえてあまり長くたよるのも悪い。治療で病気もだいぶ治まってきたところで、やはりしょうちゃんの様子が気にもなるし、こっちにもどってきた。

 だが、病気になるほどいじめられた経験は、心に深い傷を作っていた。治ったように見えても、それはかさぶたができただけ。何かがあるとかさぶたははがれ、傷口から出血する。

 お母さんは、しょうちゃんの家に近づこうとすると、やっぱり発作が起きるのだった。

 ちょっとはなれたこの町にアパートを借り、何とか仕事も始めた。しょうちゃんの様子を一目見たいという気持ちはあったが、あの家に近づけばまた発作が起きる。あまりひどくなると、また働けなくなってしまう。会いたいけれど、発作で会えない。

 そんなジレンマに苦しんでいた時、たまたまふらりと訪れたあの公園で、しょうちゃんに出会ったのだ。

 それは本当に偶然だった。まるで神様が引き合わせてくれたようだとお母さんは思い、このまま連れて帰ることも考えた。けれど、それでは誘拐になってしまう。思い直して、またここで会おうと一度家に帰した。

 ところがお母さんはその日の夜に、たおれてしまった。一度は治ったけれど、無理を重ねて発作も起きて、あまり寝られていなかったりしたので、すっかり身体が弱っていた。部屋に入ろうとした玄関先でたおれたので、大きな音に気づいたとなりのおばあさんが見つけて、この病院に運ばれた。

 かなり弱っていて、内臓もやられていたので病状は重く、一時生死の境をさまよっていたそうだ。

 ここからは今度はしょうちゃんの話。お母さんが家を出てから何があったのかを、健斗はとなりの家の犬のコタローから聞いたという話の出所はぼかしながら、くわしく伝えた。

 しょうちゃんが児童虐待にあっているという話をすると、お母さんはまたなみだした。あの家のおばあさんは、息子の嫁はきらっていても孫は大事にしていたので、そんなことになっているとは考えていなかったのだ。

 あんなおそい時間に出会った時に気づけばよかったと、泣きながら謝った。

「ごめんね、しょうちゃん、つらい思いをさせてごめんね」

「おかあさん、ぼく、おかあさんといっしょにいたいよ。おうちかえりたくない」

 母子はまた、しっかりとだき合って泣いていた。

「わかりました、任せてください」

 それを聞いた小春ちゃんのお母さんは、目じりのなみだをふきながら、強い口調でうけあった。

「だいじょうぶ、なかなかないケースだけど、何とかするわ。裕美さん、絶対悪いようにはしませんから、安心してください」

「よろしくお願いします」

 しょうちゃんのお母さんは、深々と頭を下げた。しょうちゃんをしっかりと、その胸にだいたまま。もう二度とはなさないという決意が、その姿の中に見えた。

 相談室から病室に二人を送った小春ちゃんのお母さんは、病室を出ると腕まくり。

「さあ、いそがしいぞう。とにかくまず、しょうちゃんをあの家から切りはなさないとだめだよね。児相の相田さんに連絡して……。あれ、そう言えば健斗くん、ハナがいたけど車で来たの?」

「ううん、歩いてきた」

「えー! ずいぶん歩くでしょ。大変だったね。じゃあ、帰りはおばさんが車で送ったげるよ。仕事が終わるまで待っててくれる? おうちには連絡しといてね」

「うん、ありがとう」

 小春ちゃんのお母さんは、つてを使って児童相談所に連絡を入れた。子供の虐待などをあつかっているところだ。特に強くお願いして、すぐに動いてもらえることになった。

 このケースなら児童虐待は明白で、親権も取り返せるはずだという。とりあえずしょうちゃんは今日は特別に病院に泊まり、その後シェルターに避難させて、あの家からは引きはなす。日中は病院に来て、お母さんといっしょにいられることになった。

「お母さんってね、子供のためなら何とかしなくちゃって、パワーがわいてくるものなのよ。しょうちゃんが来たから、裕美さんもきっとだいじょうぶ。すぐ元気になるよ」

 健斗を車で送る最中、小春ちゃんのお母さんはそう言って、力強くうなずいた。

 小春ちゃんのお父さんがなくなったのは、健斗がまだ小さいころだったので、おばさんの様子はあまり覚えていないけれど、おばさんもそうだったのかなと健斗は思った。

 公園で遠巻きにしていたお母さんたちは、しょうちゃんが公園に来なくなると、あの子はどうしたのと健斗に聞いてきた。

 事情を知ると、お母さんたちのネットワークを通じて児童虐待の証人をつのってくれた。

 しょうちゃんの家は相当な資産家で、地元政治家とのコネを使って、過去にかなり横暴なふるまいをしていたらしい。ちょっとしたいさかいの相手の会社に裏から手を回し、つぶしてしまったこともあったそうだ。

 気にはなっていたけれど、そういう話を知っていたお母さんたちは、自分の子供や家族のことを考えると、関われないと遠巻きにしていた。さすがに食事ぬきとか虐待の細かい部分は知らなかったそうで、健斗からくわしく聞いて絶句していた。

 解決するなら今だとなると、気にしていた分、お母さんたちは一気に動いてくれた。しかも子供がお母さんと引きはなされているという話だ。わが子に重ねてみれば、絶対許せない話なのだ。

 もともと虐待は後妻が自分の子をあと取りにしたいから始まっている。なので、引き取る話に後妻はむしろ乗り気だった。父親は相変わらずしょうちゃんに関心がなく、どっちでもいいと、話し合いの場所に顔も出さなかった。

 児童相談所の人と弁護士が家に行くのに、健斗たちもこっそりついていった。当然家の中には入れてもらえないんだけど、健斗とハナの耳にはつつぬけだ。

 後妻は本当にどうぞどうぞと歓迎の様子。何しろこれで、望み通りになるのだから。

 ただ、強行に相続放棄、つまりこの家との縁を切って、遺産をもらう権利を捨てろと言っていた。お金は一銭たりともわたさないということだ。

 離婚の経緯も出るところに出れば、家庭内暴力でそちらが悪く慰謝料をはらうケース、この件も児童虐待でそちらに非があるのに、相続放棄しろとはあつかましいと弁護士さんはおこったが、後妻はひるまずわめくばかり。

 外でこっそり聞き耳立てていた健斗は、ハナにつぶやいた。

「ねえ、ハナ」

「うん」

「ジョニーも言ってたけど、この家、ほんとにいやなにおいだね」

 いやな感情のにおいがうずまいている家。

 欲望や、打算や、憎しみのにおいがあふれてくる家。

 愛情とか、優しさとか、思いやりとか、そんないいにおいがひとかけらもしない家。

 ちらりと見かけたしょうちゃんの腹ちがいの弟が、まだ小さいのに、ぎらりとしたいやな目の色をしているのが気になった。あの子もそういうにおいのする人間に育つのだろうか。

 しょうちゃんのお母さんのところへは、健斗はちょくちょくお見舞いに行っていた。

 あまり笑わず表情のとぼしかったしょうちゃんは、お母さんと再会して表情がずっと豊かになった。

 ベッドのお母さんにあまえる様子は幸せそうだ。お母さんが退院したら、あのアパートでいっしょに暮らすのだと言っていた。

「しょうちゃん、元気だったかい?」

 家に帰るとハナが聞いてくる。さすがに何度もあの距離を歩くのは大変なので、電車に乗れないハナはお留守番なのだ。

「うん」

「よかったねえ。やっぱり子供は、優しいお母さんといっしょがいいよ」

「うん」

 健斗はハナのとなりに寝そべって、ハナにだきついてみた。

「なんだい、この子は。もうあたしより大きくなったのに、赤ちゃんみたいに」

 ハナがぺろぺろと健斗の頬をなめる。

 優しいにおいがした。

 赤ちゃんのときからずっと、いつも包まれてかいでいた、優しい、優しいにおいだった。

 やがて眠ってしまった健斗を見かけて、お母さんがそっと毛布をかける。

「いつも健斗を見ててくれて、ありがとうねハナ」

 ハナの頭をそっとなでる。ハナも満足そうに小さくほえた。

 二人は言葉は通じていないけれど、一つの気持ちでつながっていた。

 二人のお母さんは、愛しい健斗の寝顔を優しく見つめるのだった。


〈了〉

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ぼくは犬のおまわりさん かわせひろし @kawasehiroshi

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